1937年12月:海軍士官の行方
【1937年12月・レニングラード 海軍士官クラブ】
レニングラードの海軍士官クラブは、重厚な木材と真鍮で飾られた、いかにも旧弊な雰囲気を漂わせていた。夜が更け、暖炉の火が赤々と燃えるバーカウンターには、海軍将校たちがグラスを片手に集まっていた。彼らの多くは、先の会議で下された、スターリンが推進する陸軍偏重の軍備計画に強い不満を抱いていた。
その中心で、バルト海艦隊司令官トリブツ中将が熱く語っていた。彼は、荒波で鍛えられたような頑丈な体躯と、鋭い眼差しを持つ、生粋の海軍軍人だった。海軍予算が大幅に減額され、その分が陸軍の要塞建設に回されるという現実に、彼の怒りは頂点に達していた。
「同志諸君! 我がソビエトは、陸の要塞だけで国を守れるとでもいうのか! イギリスやドイツの艦隊はどうする? 南方からの脅威はどうする! 我々に必要なのは、世界に伍する艦隊だ! 貧弱な装甲で敵の砲火に晒される陸の『鉄の農民』など、一たまりもない!」
彼の言葉に、他の将校たちが深く頷いた。何人かは、その過激な言葉に顔をしかめたが、トリブツを止めようとはしなかった。皆、同じ不満を抱え、その鬱憤を晴らしたいという思いで彼の言葉に耳を傾けていたのだ。バーカウンターには、憤りにも似た、重い空気が満ちていった。
消え去った将軍
その夜、トリブツは自宅に戻る途中、人気のない静かな路地でNKVDの黒い車に囲まれた。冷たい夜風が吹き荒れる中、車のドアが音もなく開き、影のような男たちが姿を現した。何の言葉もなく、彼を捕縛する手には容赦がなかった。腕を捻り上げられ、口を塞がれ、彼は抵抗することなく車の中へと押し込まれた。彼はただ、凍えるようなレニングラードの夜空を仰いだ。その脳裏には、予算凍結によって完成が遠のいた、建設中の重巡洋艦の雄姿が浮かんでいた。しかし、その幻影も、闇に消える車のテールランプのように、あっけなく掻き消された。
クレムリンの沈黙
数日後、モスクワのクレムリン。シャポシュニコフは、スターリンとの定例報告の席で、何気ない顔をして尋ねた。彼の視線は、手元の書類に落とされている。
「そういえば、トリブツ中将は最近お見かけしませんが?」
スターリンは、無表情に書類に目を落としたまま答えた。彼の声は、まるで石のように感情がなかった。
「彼は病気だ。しばらく職務から離れる。」
その言葉に、シャポシュニコフは何も言わなかった。彼の眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。トリブツが「病気」などではないことは、彼にも明白だった。それは、スターリンの決定に異を唱える者への、そして「赤い鉄壁」構想に疑問を呈する者への、冷徹な警告だった。部屋には、再び重苦しい沈黙が降り注ぎ、暖炉の熾火だけが静かに燃えていた。
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