規則正しい足音と、空を見ない人々
バルトの工房を出たイリスを待っていたのは、すべてが計算し尽くされた「狂気的なまでの規則性」だった。
メインストリートに戻ると、行き交う人々の足音に奇妙な違和感を覚えた。
ザッ、ザッ、ザッ。
道ゆく労働者も、商人も、誰もが寸分違わぬ歩幅とテンポで歩いているのだ。彼らの目はまっすぐ前か、手元の精緻な懐中時計に向けられ、無駄な雑談や寄り道をする者は一人もいない。
建物の煙突から吹き上がる白煙すら、一定の周期で正確に吐き出されていた。
「……息が詰まりそうですわね」
イリスは、油と蒸気の匂いが立ち込める灰色の空を見上げて呟いた。
彼女が踏み出すカツン、カツンという鋼の靴底の音は、街の完璧なメトロノームのリズムからわずかに外れており、すれ違う人々が「ノイズ」を検知した機械のように一瞬だけイリスに冷たい視線を向けていく。
しかし、今のイリスはもう、市場で怯えていたあの頃の箱入り娘ではない。
「何よ。文句があるなら言葉になさいな。私は私の歩幅で歩きますわよ!」
イリスは誰にともなく言い放つと、腕を組んでそっぽを向き、わざと大きく足音を立てて歩き出した。
鋼鉄のソールが、冷たい鉄の石畳を力強く叩く。その反発力は驚くほど足に優しく、彼女はバルトの職人技に改めて感謝した。
人波を掻き分けながら、イリスは鞄から『ご先祖さまのスケッチブック』を取り出した。
次に目指すべき景色は、この街の中央に位置するであろう巨大な施設の中。絵には、複雑に絡み合う無数の巨大な歯車の奥に、太陽の光を透過して七色に輝く『円形のステンドグラス』が描かれていた。
冷たい鉄の街にあって、そこだけがまるで教会のように神聖で、温かな色彩に満ちている。
(ご先祖さまは、この効率と無機質に支配された街で、あえてこの「無駄で美しい光」を描き残した……。どうしても、この目で見てみたいですわ)
頭上に張り巡らされた蒸気管と、等間隔に配置された道標の矢印を頼りに、イリスは街の中心部へと進んでいった。
やがて辿り着いたのは、『中央動力塔』と呼ばれる、街の心臓部だった。
内部は吹き抜けになっており、イリスの何十倍もある巨大な真鍮の歯車が、地鳴りのような重低音を響かせながら噛み合い、回り続けている。
作業員たちが命綱をつけて歯車の隙間を行き来し、潤滑油を差し、メーターを点検している。誰もが下を向き、あるいは手元の計器だけを見つめ、無駄のない動きで働き続けていた。
イリスはその喧騒の片隅に立ち、スケッチブックの絵と、目の前の光景を見比べた。
構図は同じだ。奥の壁面には、確かに巨大な円形の窓枠が存在している。
しかし。
イリスはハッと息を呑み、悲しげに眉をひそめた。
「そんな……色が、ない……」
ご先祖さまの絵で七色に輝いていたはずのステンドグラスは、長年の石炭の煤と排気ガスに完全に覆い尽くされ、真っ黒に汚れきっていたのだ。
光を失ったガラスは、ただの汚れた壁と化している。誰も見上げない。誰も気に留めない。効率という名のもとに、その美しい無駄は、何十年も前に完全に忘れ去られてしまっていた。
「……フンッ。これだから、効率しか頭にない連中は嫌いなんですのよ」
イリスは悔しそうに唇を噛んだ。
あの美しいステンドグラスをもう一度見たい。しかし、窓は遥か数十メートル上空。鳥人族のルカがいれば飛んで拭きに行けたかもしれないが、地に縛られたイリスには到底届かない場所だった。
(でも、私には私の『羽』がありますわ!)
イリスは鞄の奥底から、光り輝く『銀のペン』を取り出した。
そして、自分の真っ白なスケッチブックを開く。
描くべきは、ただ空を飛ぶだけの鳥ではない。あの分厚い煤を拭き取るための、特殊な機能を持った存在。
イリスは目を閉じ、先ほどバルトの工房で見た『歯車の構造』や、街を歩く中で観察した『蒸気機関の動き』を脳内で猛スピードで組み立てていった。
お嬢様時代に培った「完璧な観察眼と記憶力」が、ここで火を噴く。
目を見開き、銀のペンを走らせる。
カリカリ、カリカリと、動力塔の重低音に負けないほどの強い筆圧で。
彼女が描いたのは、真鍮の羽と、柔らかな布の腹を持った『機械仕掛けのフクロウ』だった。
かつての彼女なら、定規で引いたように設計図そのままの冷たい機械を描いたはずだ。しかし、今の彼女の線には「ステンドグラスの光を取り戻したい」という熱い感情が乗っている。
羽の一枚一枚には温かみのあるカーブが描かれ、目は少しだけ愛嬌のある、不格好だが愛らしい形に歪んでいた。
「……お願い。あの光を、もう一度見せてちょうだい!」
イリスがページを破り捨てると、眩い銀色の光が動力塔の薄暗い空間に弾けた。
「ポッポォゥ!」
汽笛のような可愛らしい鳴き声を上げて実体化したのは、イリスの背丈ほどもある立派な機械フクロウだった。
背中のゼンマイがカチカチと回り、蒸気を噴き出しながら、不器用な羽ばたきで力強く宙へと舞い上がる。
「なんだあれは!?」
「鳥!? いや、機械か!? 未確認の型番だぞ!」
作業員たちがついに計器から目を離し、空を舞うフクロウを指差して騒ぎ始めた。
機械フクロウは一直線に、上空の黒く汚れたステンドグラスへと向かっていく。そして、柔らかな布でできた腹と羽を器用に使って、何十年も積もった分厚い煤をバサバサと拭き取り始めた。
「あっ……!」
数分後。
雲の切れ間から差し込んだ夕日が、煤を落とされたステンドグラスを真正面から貫いた。
その瞬間、動力塔の無機質な空間に、息を呑むような奇跡が起きた。
赤、青、緑、黄金。七色の光の柱が、ステンドグラスを通してシャワーのように降り注ぎ、冷たい鉄の床や、巨大な歯車、そして作業員たちの煤けた顔を、この世のものとは思えないほど美しく彩ったのだ。
「……あ……」
「光が……色が、こんなにも……」
地鳴りのように響いていた歯車の音が、遠くへ退いていくような錯覚。
常に手元だけを見ていた作業員たちが、全員作業の手を止め、ぽかんと口を開けて頭上の光を見上げていた。
効率も、規則性も、誤差も。すべてが、その圧倒的な「美しき無駄」の前に意味を失っていた。
「……ふふっ。ざまあみさいな」
七色の光に包まれながら、イリスは泥だらけの顔で、世界で一番誇り高く、優雅な微笑みを浮かべた。
そして、光のシャワーの中でスケッチブックを開き、今度は普通の黒い鉛筆を取り出す。
(ご先祖さま。あなたが残した光を、私がもう一度、この街に灯しましたわよ)
魔法の時間が切れ、役目を終えた機械フクロウが銀色の光の粒子となって消えていく。
しかし、ステンドグラスを通り抜ける本物の夕日は消えない。
イリスは、光を見上げて立ち尽くす人々と、その中心で圧倒的な存在感を放つ色彩を、震える手で――しかし、温かな魂の乗った線で、無心に紙へと写し取っていった。
カツン。
絵を完成させたイリスは、スケッチブックを閉じると、誰に声をかけるでもなく踵を返した。
鋼の靴底が鳴らす誇り高い足音が、七色の光の空間に静かに響き渡る。
箱入りお嬢様は、また一つご先祖さまの足跡を追い越し、果てしない旅の空の下へと歩を進めるのだった。




