006 「紫の本・DXMの客人」
静寂が満たすアンティーク調の小部屋に、本のページをめくる音が響く。一定の時間をおき、一枚、また一枚とめくられていく。規則的な一連の動作が突如終わりを迎えた理由は、開かれているページが白紙に辿り着いたからだった。読み手は、文字を追っていた紫の目を一度まばたかせ、巻末までパラパラとめくる。最後まで真っ白だと分かるとそのまま本を閉じ、息をついた。
「あれ、やめちゃうんですか」
男とも女とも取れる声の方向に目を向ける。緑色の長髪に交じる一対の黒い三つ編み。頭部に巻かれた白い包帯。両目の泣きぼくろの上で光る翡翠色はただこちらを見つめている。顔立ちは勿論、体躯からも性別を断定することは難しかった。
「……続きは、まだ記されていなかったからな」
そう告げてソファから立ち上がり、ビューロの中を開ける。見た目から想像できないような機械的な駆動音が鳴り、電子パネルと棚が現れる。パネルを操作し本を棚に置くと、光と共に本が消えた。目の前の摩訶不思議な現象を、読み手だった彼女は気にも留めず見届けるとビューロを閉じた。そこでやっと、自分に声を掛けた人物に目を向ける。
「ところでシェキス……居たのか」
「あれ!? そこからですか!?」
どうやら予想外の質問を投げかけられたらしい、シェキスと呼ばれた人物は目を丸くする。一方の彼女は来客について思案している様子だった。
「まぁ、ディクスムさんに呼ばれたわけではないですし……」
然り、と彼女――ディクスムは肯定する。
「ただ何となく、ここに来たくなっただけーっていうか……」
「そうか」
「あのぅ……お邪魔、でしたか?」
おずおずと尋ねるシェキスに対し、ディクスムは眉一つ動かさず返答する。
「此処は資格を持つ者の出入りを許された場。資格の有る汝を歓迎しよう」
「ええと、オッケーって事かな? それならよかった……」
やや難解な口ぶりを解釈し、胸をなでおろすシェキス。小部屋の主であるディクスムはその様子を横目で見ながら、棚からアンティーク調のティーセットを取り出してローテーブルに並べた。そこに無言で手をかざすと、彼女の紫色の瞳が輝きを増し、瞳と同じ色をした両腕のバングルも輝き始めた。するとティーポットが光を帯びて宙に浮き、2つのティーカップに、まるで中身など既に淹れたばかりだというように、温かな紅茶が注がれた。シェキスは先程よりも更に目を丸くして、眼前の出来事を見守っている。浮いたティーポットが再び卓上に置かれ、光が静まるとディクスムは向かい側の席にティーカップを移動させた。
「どうした、座らないのか」
伏し目がちの瞳がシェキスを捉える。はっと我に返り、礼を述べてから椅子に座った。
「ディクスムさんが読んでいた本の表紙、緑色でしたね。魔界の本ですか」
「そうだ」
「どんな人なんです?」
「例の、黄昏の死神だ」
「あの子! 最近絶好調なんですよ。この前も、暴走した魂をほとんど一人で冥界まで『お迎え』してくれて……あ、もうお読みになりました?」
「丁度その辺りを『観測』したところだ」
おおー、と小さく歓声を上げるシェキスは、紅茶に口を付けながら自分の事のように嬉しがっている。
「汝も最近の仕事ぶり、問題なく遂行できているようだな」
「まぁその辺は、先代のお陰というか、流石にこの仕事も長くやってきているというか……」
「長く、と言っても、数十年規模だが」
「ミーにとっては数十年って結構長いと思うんですけど……」
「……汝の過去を鑑みれば、そうとも言えるかもしれぬ」
会話の最中でもほとんど表情の変わらないディクスム。口調こそ感情が籠っていないように感じ取れるが、シェキスは何も問題にしていなかった。
「黄昏の死神が、幼子を迎えた件は」
「それでしたらさっき、上がってきた報告書をまとめました。もしかしたら反映がまだかもしれませんが……」
言い淀むシェキスを見てディクスムは立ち上がり、ビューロを開けて何やら操作をする。やがて一冊の本を取り出すと、元の席に戻って本をめくり始めた。
「藍色の表紙……って事は、冥界の記録ですね」
「然り」
短く答えて更に本のページをめくる。一定の場所で手を止め、紫色の瞳が文字列を追って動き始める。しばらくの間、小部屋は静寂に包まれる。周囲の燭台に灯された炎は音もなく揺らめき、壁の外からは何も聞こえない。ガラスドームの天井からはただ、暗い宇宙の星々が二人を静かに見下ろしていた。
「……天国へ旅立ったか」
小さく呟き、本を閉じて元のようにビューロに戻す。ディクスムがソファに座ったところでシェキスは口を開いた。
「あの子とお話、しましたよ。やっぱり死んじゃったら誰でも戸惑いますよね。でも、黄昏の死神と一緒に来て、不安な気持ちもあるけど怖くなかったよって。そう言ってました。冥界の天秤もミーと同じ答えを示し、審判は天国行きを確定させ、今頃は天国で次の転生を待っていることと思います」
「……御苦労だった」
耳を傾けていたディクスムが紅茶に口を付ける。短い言葉だったが、どこか温かみのある労いであった。真面目な顔で報告していたシェキスは、その言葉を聞くと頬を緩めて笑った。空になったティーカップを置き、両手をパンと打ち鳴らして立ち上がる。
「さて、長居してしまいましたし、この辺でおいとまさせていただきますね。お茶、ごちそうさまでした」
「好きにして構わないが、汝が其れを望むのならば、我が引き留める理由もあるまい」
食器はそのままで構わないと言うディクスムに、シェキスが片付けを申し出ようとする。だが、いち早くそれを遮って問いかけた。
「……ロスは、どうしている」
天井から見える宇宙をそのまま閉じ込めたかのような紫の瞳。その奥底が僅かに揺らいでいる双眸は、真っ直ぐにシェキスの翡翠色の瞳を見つめていた。吸い込まれそうな相手の瞳から逸らして俯き、やや困った表情で返答する。
「それが、最近会えてないんですよね。冥界ではもちろん名前を見かけてないですし。ロスさんの事ですから、何というか、元気にしているとは思うんですけど」
「……そうか」
静かに目を閉じ、小さくため息をつく。だがすぐにその目を開いて客人を見送る。またお邪魔します、とシェキスが言うとその場で両腕を広げた。翡翠色の瞳が瑠璃より深い藍色に輝き、その光が全身を包むと跡形もなく掻き消えた。
改めて一人となったディクスムが頭上を見上げると、水色の短い髪が揺れる。伏し目がちな目には外の宇宙が映り、一層の煌めきを宿す。どこか物悲しげにも見える瞳は、瞬きの後にはどこにも残っていないのだった。




