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005 「緑の本・Morteの問答」

 真昼とは思い難い程の曇天の下。長い金髪の彼女……モルテは、小走りに道を急いでいた。一歩踏み出す度に結わえた髪が競うように跳ねる。昨日の戦闘の疲れが出たか、今の今まで眠っていた彼女は、人と会う約束まで時間が無いという事実に叩き起こされたのである。幸いな点は二つ、目的地までさほど遠くない点、そして順調ならば間に合う点だ。

 住宅通りの階段を降り、次の交差点は左に。直進して暫く行った先の交差点を右に曲がる――曲がろうとしたところで、小さな声が耳に届いた。立ち止まって周囲を見回してみれば、反対側の路地からすすり泣く声が聞こえる。ただ不思議なことに、真っ直ぐな路地には誰の姿も見当たらない。すすり泣きは止まない。それどころか遠ざかっていくように感じる。

 右手首にぶら下がる腕時計に目をやると、指定時刻までもう少しを指している。だが遠ざかる声に気づいた人物は、自分以外にいないどころか、辺りに人の気配もない。腕時計を少し弄って通信装置を起動させ、急いで先方に伝言メッセージを入れてから追いかける。元々相手の要望による待ち合わせで、緊急性の高い話でもないことは事前に知らされている。むしろ眼前の様子を放っておいて落ち合う方が怒られるような気もする。耳が声を捉えている内に、追い付かなければ。


 すすり泣く声は人のいない路地を通り、走り去るかの如きスピードで離れてゆく。モルテの足でも走って追いかけられる程ではあったが、何しろ相手の姿は未だ見えないまま。誰ともすれ違うことなくひた走る様は、やや現実離れした感覚に陥らせた。また、相手は息を切らす様子も無く、どこかを目指す風もなく、一心不乱に進み続ける。このままでは自分の体力が持たない。

 「待って……止まって!」

 思わず口から出た言葉が、静かで狭い路地に反射して響く。そこで初めてすすり泣きは止まり、しゃくり上げるか細い声に変わった。その声が、一歩進む度に近づいたのを確信するとモルテは立ち止まった。声は足を止めた地点から変わっていない。右手を前にそっと突き出して魔力を込めると、藍色の光が目の前で人の形を取った……否、人の形に光を帯びた。柔らかい光が暫く人の形に包み込んでいると、より鮮明に浮かび上がってくる。年端も行かない子ども。身に纏うは、病衣。輝きがおさまってもなお、子どもを通して向こう側の景色が薄く見えた。彼女と目が合ったことに気づいたのか、子どもは涙を浮かべてモルテを見上げている。

「こんにちは、幽霊の子どもさん」

 穏やかな口調で告げられた単語を聞き、子どもはこらえていた声を上げて泣きだしたのだった。


 「ぼくね、すこしまえに、びょうきでしんじゃったの」

 人通りの無い住宅街の階段に隣り合って座り、子どもはやがてぽつりと話し出した。

 「ちいさいころからの、びょうき。なおすのは、とってもむずかしいんだって、パパとママがいってた」

 「大変なご病気だったんですね」

 「……もっとみんなとあそびたかった。もっとたくさんたべたかった。もっともっとぎゅっとしてほしかった……」

「……」

「もっと、いきていたかった……」

 後半の方は震えた声になって、今にも聞こえなくなりそうな本音だった。医療技術の発展が先端を進もうとも、数多の手を尽くそうとも。時に容赦無く、全ての命に等しく行き渡らせる最後のプレゼント。それが死であり、世の理だ。

 「肉体を離れた時、誰かが迎えに来ませんでしたか」

 「きたよ……きたけど、こわくなって……それで……」

 「病院を出た、と」

 モルテが引き継いだ言葉に、子どもは小さく頷く。肉体を離れ、魂だけになった存在は不安定になり、やがて無に帰る。その前に冥界へと魂を運び、生前の歩みを基に魂の行き先を決める。その理を受け入れられない者も少なくはなく、禁じられた方法で復活しようとする者もいれば、感情に身を任せ我を忘れる者もいる。知らない存在に突然『お迎え』され、愛する者から引き離され、見知らぬ場所に孤独に連行されることが、まだ世界に理解の無い子どもにとってどんなに恐ろしく感じられるか。想像は容易だった。

 「ねえ、ぼく、どうなるの? ぼく……どうなっちゃうの?」

 半泣きでモルテの服を引っ張るが、その手を見て子どもは小さく悲鳴を上げると、怯えた目で彼女の瞳を覗き込む。モルテもまたその目を見つめ返し、子どもの手を取って口を開く。

 「まず、死神と一緒に、冥界と呼ばれる場所に行きます」

 「しにがみ……ッ」

 何か思い当たったのか。はなして、と言いながらモルテの手を逃れようとする。しかし彼女は冷静に掴み続け、子どもに問いかける。

 「人のお話は最後まで……どうするか、聞いたことありますか」

 「さいごまで、きく……」

 抵抗の力が抜けたのを確認し、モルテもそっと手を放す。

 「生き物は死ぬと、肉体を離れて魂だけになります。魂だけになると危ないので、冥界から死神がお迎え……そうですね、助けに来るのです」

 「たすけに……?」

 そうですね、と肯定して話を続ける。

 「死神と一緒に冥界に行くと、生きている間にどんなことをしたのか、次はどんな風に生まれ変わるのか、冥界神とお話をします。お話を終えたら、生まれ変わるのを待つことになるでしょう」

「めいかい、しん?」

「冥界を治める……そうですね、リーダーとか、王様みたいなものでしょうか。死神は冥界神の仲間で、魂のお迎えに行くのが大きなお仕事です。魔界では結構有名なお話かとは思いますが……」

「びょういんのともだちから、すこしだけきいたことある……こわいはなしだからって、パパやママがいやがってたけど……」

親御さんがそう言うのも頷ける。病院で回復を待ち望む者に、死という正反対の話をする必要がないからだ。

 「ねえ、いきかえることは、できないの? どうしていきかえっちゃダメなの?」

 「……難しいお話ですが、命とは生きて、死んで、やがて新しい命になって、また生きるものです。一度終わったものを取り戻すことは一連の流れに逆らうことになり、悪化するばかりで正しく機能しません。死後、自分の肉体に帰れないのも理由の一つです。それが世の理です」

 「それじゃあ、全部消えてなくなっちゃうの……?」

 「全部は消えません」

 穏やかに、落ち着いた口調で否定する。

 「あなたが死んで肉体は消えましたが、魂はここにいます。そしてこの後魂が消えても、あなたが生まれて来て、ご両親やご友人に愛され、共に過ごした時間は、相手の中で永遠に残ります。それはもちろん、あなた自身の記憶にも」

 「ぼくにも……パパにも、ママにも……」

 涙ぐみながら呟いた子どもの身体が、少しずつ淡い光を放ち始める。モルテは微笑んで立ち上がり、しかし真剣な顔で子どもに告げる。

 「今から冥界に行けば遅くはありません。私も一緒に行きますから、迷うことも無いでしょう」

 「おねえちゃん? もしかして――」

 数歩だけ距離を取り、左手に魔力を集中させて大鎌を召喚する。普段なら振り回す得物を子どもの眼前で下向きに構え、宣言する。

 「死後も彷徨う幼子の魂よ。冥界より遣われし死神を標として――」

 「しにがみ……」


「月の刃に身を委ね、世の理に導かれなさい」


 静かだがはっきりとした声が木霊すると、大鎌から銀色に輝く光が現れた。光は粒子となって淡い輝きを増す子どもを包み込み、ゆっくりと宙に浮き始める。

 「誰かに想いを告げるなら、今です。今いる世界と冥界の狭間に居る時が、一番声が届きやすいのです」

 さぁ、と促された子どもの顔にはもう涙も怯えも無く、やがて決意した様子で息を吸い込む。

 「パパ、ママ、びょういんのみんな、ありがとーーー!!」

 目をつぶってあらん限り叫ぶ。悔いの無いように。伝え忘れの無いように。できるだけ遠くまで届くように。心の奥底まで、響き渡るように。声は、見えない波となって町の空気を震わせた。吐き出し尽くした子どもは、肩で息をしていた。

 「とどいた、かな」

 それだけ言ってモルテの方を見る。

 「届きましたとも」

 それだけ言って微笑みを返し、彼女自身も宙に浮く。

 「ぼく、しにがみって、ほねだらけのこわいひと、ってきいてたんだけど……おねえちゃん、ぜんぜんちがうね」

 「死神が骨だらけなのは昔の話です。今はそうでもないですよ」

そっか、と笑う子どもの、銀色の輝きを湛えた手を取る。ひときわ大きく光り輝くと、宙に浮いた二人はそのまま消えてゆき、一陣の風が吹いた。風はそのまま魔界を移ろい、病院が見える墓地の真新しい墓に供えられた、色とりどりの花を散らさぬよう優しく通り過ぎていった。


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