第三章 ひとつ目の代償
東京へ行くか、残るか。
その問いは、数日間、俺の頭から離れなかった。
会社では順調に評価を積み重ねている。次の人事で、係長昇進の話も出ているらしい。三年前には届かなかった位置だ。
一方で、真奈の東京行きは確定した。出発は一か月後。新しいスタジオは業界でも名の知れた場所で、彼女の才能があればきっと羽ばたける。
俺は未来を知っている。
三年前、彼女は地元に残り、やがて燻り、俺と別れた後にようやく東京へ行った。そのときには、少しだけ遅かった。勢いも、若さも、削られていた。
今回は違う。
俺が背中を押した。だから、彼女は今、迷いなく前を向いている。
だが俺は?
真奈の部屋で、段ボールが積まれていくのを眺めながら、俺は自分の中の卑怯さに気づいていた。
「直人、どうするか決めた?」
ガムテープを貼る手を止め、彼女が振り返る。
「……まだだ」
「そっか」
責める声ではない。ただ、事実を受け止める響き。
「私ね、怖いんだ」
真奈はぽつりと言った。
「東京、楽しみだけど……直人と離れるのも怖い。遠距離って、やっぱり簡単じゃないよね」
三年前、俺はこの不安を軽くあしらった。「なんとかなる」と。だが、なんとかならなかった。
今の俺は、結末を知っている。
遠距離のすれ違い、忙しさ、疑念、そして決定的な喧嘩。
もし、俺が東京へ行けば、その未来は変わるだろう。
だが、その場合、俺のキャリアは未知数だ。未来のアドバンテージは、ここでは通用しない。三年前の俺が経験していない道を選べば、記憶は武器にならない。
それはつまり——本当の意味で、やり直しに頼れない世界に飛び込むこと。
怖いのは、彼女だけじゃない。
俺も、怖い。
「……行くよ」
気づけば、言葉が出ていた。
真奈の目が見開かれる。
「東京、行く。会社は辞める」
言った瞬間、腹の底が熱くなる。退路を断った感覚。
「本当に? 勢いで言ってない?」
「勢いじゃない。俺も、もっと大きな仕事がしたい。ここに残ってたら、多分……中途半端になる」
これは三年前の未来を知っているからこその確信だ。
真奈はゆっくりと笑い、そして涙を浮かべた。「ありがとう」
その涙は、嬉しさと不安が混ざった色をしていた。
俺は決めた。
やり直しの力に依存しすぎない道を、選ぶ。
東京に移ってからの日々は、予想以上に厳しかった。
俺はフリーランスとして仕事を探し始めたが、地元での肩書きはほとんど通用しない。コネも実績も足りない。三年前の記憶は、ここでは役に立たない。
真奈は新しい環境に揉まれながらも、着実に成果を出していく。彼女のデザインがSNSで話題になり、業界誌に小さく取り上げられた。
誇らしい。
だが同時に、焦りが募る。
俺は、未来を知る優位を手放した。
夜、狭いワンルームでパソコンに向かいながら、自問する。
これが正解だったのか?
そのときだった。
スマホが鳴る。見知らぬ番号。
「榊原さんですか? 以前、地元でご一緒した北川です」
クライアントの一人だった。東京に支社を出すらしく、広告の担当を探しているという。
偶然か?
いや、三年前、彼は確かに東京進出を考えていた。ただ、俺は関わらなかった。
「ぜひ、お願いしたいんですが」
胸が高鳴る。未来の記憶は完全には役立たないが、断片は繋がる。
「やらせてください」
その案件は、俺の転機になった。規模は大きくないが、成功すれば次に繋がる。俺は全力で取り組んだ。
だが、プレゼン当日。
資料を最終確認している最中、真奈からメッセージが届く。
《ごめん、ちょっと話せる?》
嫌な予感。
電話をかけると、彼女の声は震えていた。
「今日、スタジオでミスしちゃって……大事なデータ、消しちゃったかも」
血の気が引く。
三年前、似た出来事があった。そのとき、真奈は一人で抱え込み、上司に叱責された。
「今どこ?」
「会社の近く」
時計を見る。プレゼンまで、あと四十分。
俺が今から向かえば、確実に遅れる。
未来の俺なら知っている。あのプレゼンは、俺の東京での信用を決める分岐点だ。
だが、目の前で震えている彼女を放置したら?
俺は、三年前の自分と同じになる。
「待ってろ。すぐ行く」
気づけば、資料を閉じていた。
タクシーに飛び乗り、彼女の元へ向かう。プレゼンは同僚に託した。成功する保証はない。
真奈の元に着くと、彼女は泣きそうな顔で立っていた。
「ごめん、直人。大事な日なのに」
「いい。データは?」
確認すると、バックアップはあった。少しの修正で済む。パニックで見落としていただけだった。
俺は冷静に対応し、彼女の上司にも説明した。
事態は収まった。
だが、スマホを見ると、着信が何件も入っている。
プレゼンは、失敗した。
資料の最終版が間に合わず、印象を落としたらしい。
帰り道、夜風が冷たい。
俺は、空を見上げた。
やり直しの文字は、現れない。
これは、自分で選んだ結果だ。
仕事の大きなチャンスを失った。
だが——。
「ありがとう、直人」
隣で、真奈が小さく呟く。その声は、確かに救われた人の声だった。
胸の奥で、何かが静かに定まる。
未来を最適化することが、必ずしも正解ではない。
だがその夜、部屋に戻ったとき、再び文字が浮かび上がった。
——分岐の揺らぎが拡大しています。
意味が分からない。
だが、次の一文に、背筋が凍った。
——二回目のやり直しが必要になる可能性が高まっています。
「必要……?」
俺は、まだ使うつもりはなかった。
残り、二回。
それは、切り札のはずだ。
だが運命は、俺が思うよりも早く、次の選択を突きつけようとしていた。
そしてその代償は、仕事など比べものにならないほど重いものになる。
俺はまだ、それを知らない。




