第一章 最初のカウントダウン
人は、人生をやり直せたら何をするだろうか。
過去の選択を修正するのか。それとも、未来を知っているという優位を利用して金を稼ぐのか。あるいは、どうしようもなく傷つけてしまった誰かに、もう一度だけ手を伸ばすのか。
少なくとも、俺——榊原直人は、そんな都合のいい奇跡が自分に降りかかるなどとは、三十歳になるその日まで一度も考えたことがなかった。
三十歳の誕生日。祝う相手もいないワンルームの部屋で、コンビニのショートケーキをフォークで崩しながら、俺はスマホの画面をぼんやり眺めていた。通知は、会社のグループチャットからの業務連絡だけ。既読をつける気力もなく、画面を伏せる。
大学を出て七年。中堅の広告代理店に勤め、仕事はそこそこ任されている。だが「そこそこ」止まりだ。大きな案件は先輩に回り、後輩には抜かれ、俺は無難にまとめる役割を押し付けられている。失敗はしないが、成功もしない。そんな評価が、社内の俺の位置だった。
そして、恋人はいない。三年前に別れたまま、誰とも深く関わらずにきた。
別れた理由は、単純だ。俺が、決断しなかったからだ。
「いつかちゃんとする」「もう少し仕事が落ち着いたら」——そんな言葉で先延ばしにしているうちに、彼女は疲れ果てて去っていった。
名前を、未だに口に出せない。出すと、胸の奥がじくりと痛む。
午後十一時五十九分。ケーキは半分残っている。甘さがやけに重い。俺はため息をつき、立ち上がって電気を消した。誕生日が終わる瞬間を、わざわざ目に焼き付ける趣味はない。
そのときだった。
視界の端で、白い光が瞬いた。
最初は、疲れによる幻覚だと思った。だが、目を閉じても消えない。暗闇の中で、まるで液晶画面のような文字が浮かび上がる。
——やり直せるのは、あと三回まで。
「は?」
声が漏れる。寝不足か、ストレスか。いや、それにしてははっきりしている。
——一回目のやり直しを行いますか?
YES / NO
文字は、俺の視線に合わせて微かに揺れた。冗談だろ。誰の悪ふざけだ。だが、ここは俺の部屋だし、酒も飲んでいない。
「……夢、か」
そう呟きながら、俺は自嘲気味に笑った。夢なら、選んでやろうじゃないか。どうせなら面白いほうを。
視線で、YESをなぞる。
瞬間、足元が崩れた。
床が消え、身体が闇に落ちていく。胃が浮き、耳鳴りが響く。叫ぶ間もなく、世界が白く弾けた。
次に目を開けたとき、俺はオフィスのデスクに座っていた。
見慣れたパーテーション、聞き慣れたキーボードの打鍵音、コーヒーの匂い。目の前のモニターには、見覚えのある企画書のファイル名。
「……は?」
画面右下の日付を見る。
四月七日。
三年前の日付だった。
鼓動が跳ね上がる。立ち上がり、周囲を見回す。同僚たちが、何事もない顔で仕事をしている。奥の席には、まだ若手だった後輩の佐藤がいる。俺に憧れていた頃の、少しぎこちない背中。
そして——斜め前の席。
そこに、彼女がいた。
白いブラウスに、薄いグレーのカーディガン。髪は肩で揺れ、真剣な表情で資料を読み込んでいる。
間違いない。三年前、まだ俺の隣にいた頃の彼女だ。
「直人? どうしたの?」
彼女が顔を上げる。俺の視線に気づき、首をかしげる。その仕草さえ懐かしい。
喉が詰まる。言葉が出ない。これは夢か? だが、頬をつねると痛い。机の感触も、空調の音も、すべてが現実だ。
頭の奥で、さきほどの文字がよみがえる。
——やり直せるのは、あと三回まで。
震える手で、スマホを開く。日付は確かに三年前。履歴も、メッセージも、すべて当時のままだ。
「ちょっと、顔色悪いよ。昨日も遅かったんでしょ?」
彼女が小声で言う。その声色には、まだ俺への心配が滲んでいる。あの頃の、優しさだ。
この日は、覚えている。
大手飲料メーカーの新商品キャンペーンのプレゼンがあった日だ。俺は準備不足のまま臨み、詰めの甘さを指摘され、案件を逃した。そして、その夜——彼女との約束をドタキャンした。
それが、決定的な亀裂の始まりだった。
もし、やり直せるなら。
今度こそ、失敗しない。
「大丈夫。……ちょっと、考え事してただけ」
俺は深呼吸し、モニターに向き直った。記憶は鮮明だ。どこが甘かったのか、どんな質問が飛んできたのか、すべて覚えている。未来を知っている俺なら、完璧に修正できる。
胸の奥に、熱が灯る。
これは、チャンスだ。
神様の気まぐれか、悪魔の遊びかは知らない。だが、与えられたなら使うしかない。
その日のプレゼンは、驚くほど順調に進んだ。想定質問には即答し、弱点は事前に補強した。クライアントの表情が変わっていくのが分かる。
結果は——受注。
会議室を出た瞬間、上司が俺の肩を叩いた。「よくやったな、榊原」。その言葉を、俺は三年前には聞けなかった。
高揚感が身体を満たす。できる。やり直せば、俺はもっと上に行ける。
だが、本当に欲しかったのは、仕事の評価だったのか?
夜。俺は彼女との約束の店に向かった。三年前の俺は、仕事を理由にキャンセルした。だが今日は違う。
小さなイタリアンレストラン。窓際の席で、彼女が手を振る。
「今日は来られたんだね。忙しいのに、ありがとう」
その笑顔に、胸が締めつけられる。
食事をしながら、俺は必死に言葉を選んだ。三年前の俺は、仕事の話ばかりしていた。彼女の不安に気づかず、自分の将来の愚痴をこぼしていた。
だから今日は、聞く側に回る。
「最近、どう? デザインの案件、増えてるんだろ?」
彼女は目を丸くしたあと、嬉しそうに話し始めた。自分の仕事のこと、夢のこと、不安なこと。俺はそれを遮らずに聞いた。
こんな簡単なことが、どうしてできなかったのか。
帰り道、春の夜風が頬を撫でる。駅前の信号で立ち止まり、彼女がぽつりと呟いた。
「ねえ、直人。私たち、このままでいいのかなって、たまに思うんだ」
三年前と同じ台詞。だが、今の俺は知っている。この問いを曖昧にした結果を。
逃げるな。
「よくないと思う」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「ちゃんと考えたい。俺は、仕事も大事だけど……お前とのことも、ちゃんと向き合いたい。先延ばしにしない」
彼女は黙り込み、やがて小さく笑った。「急にどうしたの?」
「三十歳になる前に、気づいたんだ。大事なもの、間違えたくないって」
嘘ではない。ただし、説明できない真実を含んでいる。
信号が青に変わる。俺たちは並んで歩き出す。指先が触れ、自然に手をつないだ。三年前よりも、少しだけ強く。
その瞬間、視界の端に、またあの文字が浮かんだ。
——一回目のやり直しを消費しました。
残り、二回。
足が止まる。
消費、という言葉が重い。これは無限ではない。本当に三回だけなのだ。
もし、これから先で取り返しのつかない失敗をしたら?
もし、もっと大きな後悔が待っていたら?
だが、今は——。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
俺は首を振る。未来はまだ、変えられる。
だが、このときの俺は知らなかった。
やり直しは、単なる救済ではないことを。
選び直すたびに、別の何かを失っていくことを。
そして三回目の選択が、俺の人生だけでなく、彼女の運命すら大きく揺るがすことを。
春の夜空には、星が滲んでいた。
その光が、どこか不吉に瞬いているように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。
俺はまだ、この奇跡の本当の代償を知らない。




