たとえ世界がきみを忘れても
――俺は、死んだのか。
辺り一面が白に覆われる世界は巡ることがなく、静止したようにただ静けさだけが広がっていた。
そんな空間へ投げ出された彼は、漂うままにボーッと見上げた果てまで続く白に、上も下も、右も左も、わからなくなっていく。
どくん、と聞こえる鼓動の音。
それが誰の、何の音なのか、それすらも、もうわからない。
――っていうか、俺は、誰だ。
思い出すことができはしない。
ボーッと定まらない視界が、白い世界を追っている。
ただ漂うままに、何も感じることもなくなった、無世界を。
ふいに上から下へ、流れていく彼女の姿が視界の隅に入って――その瞬間、どくん、と何かが跳ね上がった。
そんな跳ね上がった音につられて耳を澄ませば、いろいろな音が聞こえてくる。
狭い一室、上がる産声に、周囲の人たちは歓喜の声を上げて喜んで――。
路地裏に反響した子供の泣き声、表通りに響いた大人たちの声。
避難を先導するように、まだ残されている人たちを助けるように。
必死に、懸命に、生を求めて、叫び続ける。
戦場に響く鉄が弾ける音。
立ち込める砂煙の中から轟く、魔物の雄叫び。
先陣を切る鎧を着た騎士に、また違う色の鎧を着た騎士が剣を構えて援護に回り声をかけている。
魔導士たちも魔法を唱え、流れる魔素が透明感あるきれいなプレリュードを奏でるように巡っていく。
あっちでも、こっちでも。
世界は危機に陥ったはずなのに。
世界は、壊れてしまったはずなのに。
戦う人々は生きるため、生きているからこそ、声を上げ続け、語り続ける。
――これは……『世界の声』。
手を取り合い助け合う人々の声に、明日を求める人々の声。
世界を巡る不安に泣き叫ぶ声に、怒鳴ったようにしながらも何かを求め、手を伸ばす声が響く。
勇者候補生たちが戦い、声を上げれば、魔王候補生たちも戦い、声を掛け合っていた。
一つ、また一つ。
水面に波紋が広がるように、世界に溢れていた音が木霊する。
今もどこかでみな必死に、明日を掴むために人々は戦っている。
戦っていたはず――なのだ。
はっと気が付けば、力も入らなかったはずの腕を伸ばしていた。
その手には――何も握っていない。
何か、大切なモノを握っていたはずなのに。
右手に握る大きな剣、そして、左手には何を持っていたのだろう――。
そう考えれば再び、目の前を下から上へ、流される彼女の姿が目に入る。
――そうだ、アグルエの、手を……。
何故だかその感触と、その名前だけははっきりと憶えていた。
伸ばした手で必死に空間をかいて進み、流れに逆らって、流されている彼女へと手を伸ばす。
そうすれば彼女も顔を上げてくれて、何故だかわからないけど微笑んだ。
――温かい。
その感触が妙に懐かしくて、互いに伸ばした手を掴み合い、そうして二人は目を閉じた――。
◇◇◇
目の前にいた二人を消し去って、世界の再生までの間、すっかり退屈に包まれる白き奔流の中。
アルファは細めた目をゆっくりと閉じて「ふっ」と小さく笑った。
「ずっと煩わしくも感じた雑音だったが、消えてしまえば呆気ない」
そうして、上に立てるだろうモノはもうなくなった。
たった一つの不安事が消えたはずなのに、それが何故だか物惜しくも感じる。
今この瞬間、世界を司る神として、その頂点へ至ったというのに――。
それがどうしてか――アルファは理解できず。
しかし、そう考えている間にも、二つの気配が戻ってくるような気がした。
アルファは仮面の奥の金色の目を見開く。
たしかに消えたはずなのに――瞠目し、驚きに力さえ抜けてしまう。
彼方の果てまで消し飛ばしたはずのエリンスとアグルエは、七色の光と共に再び姿を現した。
◇◇◇
ぼんやりとした意識の中、思考がはっきりとまとまらない。
ただ、彼女と手を取り合った瞬間、「帰らなければ」と思い至っただけなのだ。
それがどうしてだか、何のためだか――思い出すことはできない。
だが、二人の目の前に立つソレが、驚いたように声を発した。
「あの力に呑まれて……どうして、まだ……」
神々しくも光を放つ彼だが誰なのか、それすらも思い出せない。
だけど二人は手を取り合ったままに、真っすぐと彼と対峙した。
「――いや、違うな。もう、消えかかっている……最期の残滓か」
彼は二人の足元を指してそう言った。
二人がそれぞれに足元へ目を向ければ、足は周囲の光に溶けだしているように霞みがかり薄くなっていて、それが己の足なのか、それすらもわからない。
「くくく、くはははははは! もう、わからないのだろう? なんのために、戦っていたか。自分自身が、誰なのかすら」
彼が、そう言う。
二人は顔を見合わせて、しかし、何を口にすればいいのか、どう返事をすればいいのか、やはりそれもわからなかった。
だけど、彼女の顔を見ているとわかることがある。
彼女のことだけは――忘れてはいけないということ。
「そのままもう一度、葬り去ってやる。今度こそ、大いなる巡りの果ての中へ消え去れ!」
彼が、手にしている大きな剣を振り上げた。
――俺も、同じような剣を手にしているってのに。
そう思い返せば、ずきりとこめかみの辺りが痛んだ。
だが、その瞬間、忘れてはいけない大事なことを思い出せた気がした。
顔を上げれば、彼女が頷く。
彼女も同じような表情をしていて――互いに迷いを消し去ったように頷き合えば、自然と意識が戻ってくるような感覚があった。
彼女の顔を見ていれば――どうすればいいのかも知っていたかのように、思い出せる。
「まだ……大丈夫か、アグルエ」
その名を紡げば、胸のうちがふわりと軽くなる。
「エリンスこそ……まだ、終わりなんかじゃ、ないよね」
ヘーゼル色の瞳と、蒼い瞳が混ざり合うように交差する。
手を取り合ったままに、顔を合わせたままに囁き合えば、自然と彼女がそう呼んでくれる名前が温かく胸のうちに広がっていく。
エリンス――それが誰なのかは、その瞬間はわからなかった。
だけど、アグルエがそう呼んでくれることが、妙に嬉しい。
二人は手を取り合ったままに、再び前を向きなおした。
「世界が……俺たちを、忘れていく」
「世界が消えて……わたしたちも、消えていく」
頷き合う二人に、それを目の前にしたアルファは、驚き動けないと言ったように目を見開いた。
「でも」
「だけど」
二人は言葉を繰り返す。
繰り返せば繰り返すほどに、自分自身というものがはっきりと認識できた。
「世界がきみを忘れても」
「きみがきみを忘れても」
「俺が、きみのことを忘れない。行こう、アグルエ!」
「うん! わたしも、忘れないから。エリンスの想いは、消えはしない!」
手を繋ぐ二人の間に、黒と白、二つの光に混ざって、七色の光が帯びていく。
強い光を発した二色の炎に七色の煌めきが合わさって、エリンスは右手で希紡剣をぎゅっと握り締め、左手でアグルエの手を強く握った。
アグルエも合わせた右手に力を集めるようにして――そして、開く黒白の炎の翼が、二人の背中を後押しした。
呆然としたように、目にしていることが信じられないと言ったように固まったアルファへと、二人は羽ばたく勢いで突進する。
握り込む希紡剣とアグルエの手。
二人であれば、どこへでも行ける気がした。
二人だから、どこまででも進める気がしていた。
初めて出会った路地裏――共に聞いた謎の声、広がる星空、見渡す海と港町――。
笑い合った夜もある。涙で枕を濡らした夜もある。繋いだ手が離れていく感覚だって忘れない。
二人で紡いできた絆が、今をつくってくれていた。
支えてくれたみなの想いまで背負って――そうして辿りついた結末だ。
どんな真実だって受け入れられる。どんな未来だって創っていける。
二人の旅は真実を知って、事実を受け止めて――世界を知るための旅だった。
そして、今――二人は、『世界』の声を聞いて、『世界』を知ったのだ。
二人の突進に、アルファは驚きながらも手にする天星剣を振り抜いた。
エリンスはアグルエと手を繋いだままに、右手に握る希紡剣を振り上げる。
衝突する二つの刃が、一層瞬く光を放つ。
だが、エリンスが勢いで勝った。
アルファは驚いたように弾かれながら、エリンスは切り返す刃で下から上へ一閃、蒼白の刃でもう一撃、アルファのことを弾き飛ばす。
そのまま上方へ羽ばたき上昇する二人に、アルファは目を見開きながら二人のことを見上げていた。
上昇する二人は頷き合ってから静止する。
黒と白、煌めく両翼を広げて、エリンスが右手で、アグルエが左手で――二人で一本の長剣を天へと向けて構えなおした。
二人が一緒に握る希紡剣リューテラウは七色の光を帯びていて――周囲の空間を流れていた白き奔流が、二人の手のうちで巡り出す。
「ば、そんな、はずが、ないだろうが……」
驚きに目を見開き続けているアルファは、圧巻とさせられたようにエリンスとアグルエが握っている希紡剣の鋒を見つめていた。
巡る白き奔流が、七色に輝きだす。
七色の光が、二人の周囲へと溢れ出した。
「聞こえている!」
エリンスが確信をもって頷けば、アグルエがそれにこたえてくれた。
「これが本当の、『世界の意志』。神のものなんかじゃない。世界が紡いだ、人々の想いの全て」
温かい七色の光が降り注ぎ、キラキラと煌めいて、まるで広がる星空のベールのように瞬いた。
願い、想い、勇気、希望――。
温かい何もかもが二人の手の中で渦巻くように漂って――。
「世界は、破滅なんて望んでいないんだ」
明日を掴むために戦う人々の声が、エリンスたちの元まで届いている。
「みんな、生きたがっている。そんな想いを、消させはしない!」
彼らの声へ耳を傾けたアグルエがそう続けた。
「何故だ……俺は、女神に選ばれたのに。何故……『世界』は……おまえたちを選んだとでも言うのか」
驚き声を上げ後退りさえするアルファに、エリンスは首を横へ振ってこたえる。
「違う。選ばれたとか、選んだとか、そうじゃない。世界は、誰のものでもない。女神のものですら、ない」
「わたしたちは、自分たちの手で掴んだ未来を信じている。勇者と魔王が信じることのできなかった、明日だって紡げるから」
二人が掲げる希紡剣に七色の光が集まった。
大いなる巡りすらも、今やエリンスたちを後押しするように流れを変えた。
「世界の想いを紡ぐ――七色の裁き!」
アグルエの詠唱に合わせて、大いなる巡りがエリンスたちの剣の元へと渦を巻き集束をはじめる。
「神の力が……大いなる巡りが……流れが、変わると、言うのか」
慌てふためくようにしながらも身動きが取れなさそうなアルファに、エリンスとアグルエは目をそらさない。
今や、アルファの中にあったはずのその力も、エリンスたちの手の中へと巡ってきた。
「ここで全て、終わらせるんだ――」
アグルエの言葉に、エリンスが続ける。
「今こそ、歪んだ世界の流れを正す!」
二人の構えた鋒の先――頭上で、七色の光が大きな渦を描きはじめた。
「再誕する世界!」
エリンスの詠唱に合わせて二人で希紡剣を振り下ろせば、渦巻く七色の流れが周囲へと溢れ出し、空気を震わせながらアルファのことを呑み込んだ。
七色の光の奔流、激しい波の中で、世界はカタチを取り戻していく。
失われたはずのモノも、失われたはずの想いも、二人の強き想いに反応して、元のカタチを取り戻す。
アルファは激流に呑まれ全身を切り刻まれるように、七色の渦の中で雄叫びを上げていた。
悲痛な叫び声だった。彼が自身に取り込んだ瘴気が、その身体を蝕んだ結果なのだろう。
溢れ出した黒き力は、全て七色の光が呑み込んでいく。
次第に治まる七色の光の中、人の姿を取り戻したアルファは膝から崩れるように倒れた。
彼の姿が薄れて消えていく。
顔から剥がれた白いマスカレードマスクが、からんと音を立てて転がり落ちた。
七色の光の中、白い輝きを伴って浮かび上がった女性が、静かにそのマスクを拾い上げる。結った金髪を揺らして、どこか悲しげに、だけど、二人のことを見上げた女性は微笑んだ。
彼女の手のうちで仮面が粉々に割れて――アルファ・オルス・リーブルス、彼女と共に世界を巡った真っすぐな彼へと戻ったアルファは、そっと顔を上げた。
手を引く彼女――グレイシャに引っ張られるようにして、アルファは振り返ることもなく前へ向かって駆け出した。
二人の姿が七色の光の中へと消えていく。
エリンスとアグルエは、共に振り下ろした剣を構えたままに、彼女たちの背中を見送った。
彼も帰るべき場所へ――巡り巡って、帰ることができたのだろう、と。
そう信じて――。




