黒、堕ちて
アグルエは暗い闇の中をただ滑り落ちてゆく。大きな筒の中を通されているようだ。
急に足元をすくわれたというのに、アグルエは妙に冷静だった。ツキノはそれを不安そうにしながら、肩にしがみつき顔を出す。
落ちる瞬間は「きゃあ」とも悲鳴を上げたが、それもきっとエリンスには届かなかっただろう。
アグルエは闇の中の魔素から感じる気配に、すぐにこれが誰の仕業なのかと目星をつけていた。
闇招の魔王候補生、シャルノーゼ・ラン。
シャルノーゼの闇招きの力を行使し扱われる魔法、闇招洞の中だとも悟っていた。
これは空間を繋ぐ魔法。シャルノーゼが決めた底に辿り着くまで滑り落ちていくのだろう。
魔界ではライバル視もされた仲ではあったが、シャルノーゼは人界に来てからもアグルエのことを一層敵視していた。
彼女が幻英の下で動いているのだとすれば、こうしてラーデスアで待ち構えて手を出してくることは予想できた事態――。
「冷静じゃな」
ツキノは真っ暗闇の中、アグルエの頬に顔を寄せて囁いた。
アグルエは目も見えない中、「はい」と静かに頷いて、ただ闇の先――落ちる先を見据えていた。
「この力は、シャルの仕業」とこたえたアグルエに、ツキノは「ふむ」と頷く。
シャルノーゼが招いたというのなら、こたえてやるしかない。
それに、アグルエとしてもシャルノーゼには聞きたいことがあった。
「何を考えているのか、何をしようとしているのか、聞き出さなきゃ」
落ち着きながら口にしたアグルエに、ツキノは真逆、自分らが落ちてきたほうを見上げて呟く。
「エリンスは、大丈夫かのう……」
対峙した覇道五刃マーキナスは、子供ながらにとてつもない力を秘めている気配をアグルエも感じていた。それはツキノにしても同じだったのだろう。
しかし、こうして闇の中に落ちてしまった今、アグルエにはもうどうすることもできない。
それに――と思い返してしまったのは、エリンスと手を取り合おうとした瞬間に弾けた白黒の光。
――あれは、彼女が口にした通り、反発だった。
ムッと口を結んで、そう想いたくなくても想わされる現実に、アグルエは胸を抑える。
その手のうちでは未だに黒き炎がバチバチと、闇に溶けるようにして輝きを放っていた。
「今は、信じるしかない……」
ツキノにこたえるように呟いて、しかし、ツキノは心配そうにアグルエの横顔を見つめた。
その瞳は揺らいでいる。決意か、迷いか――それとも。
ツキノもまた考えるようにしながら俯いて、二人は闇招の底へと落ちてゆく。
◇◇◇
ラーデスア城、黒鉄の大広間。
剣を構えて立ち上がったエリンスに、マーキナスは首の後ろに両腕を回してのんきな様子でこたえていた。
そんな彼女に詰め寄ったエリンスは、避けようともしないマーキナスの胸倉を掴み持ち上げる。
本人が八歳だと語った通りなのか、見た目通りに軽い彼女は、エリンスが振り上げた乱暴な勢いのままにぶらりと宙で身体を揺らした。
「何を、しようとしているんだ!」
マーキナスが避けなかったことを疑問に思いながらも、エリンスは口にする。
だが、マーキナスはエリンスにそうやって首元を掴まれながらも、目を逸らすだけでのんきにこたえた。
「だから、知らないって」
「知らないはずが……」
と、エリンスが言いかけたところで、するりと手の中から重さが消えた。
――いつでも避けられるから、避けようともしなかったってことか。
エリンスは理解する。マーキナスの異質さを。
「だって、知らないもん」
再びぺらりと紙のように薄くなったマーキナスは、エリンスの手の隙間を縫い落ちて床を滑った。そうして、身体を再び立体に戻して立ち上がる。
「闇招さん、シャルノーゼさん、彼女があの子のことを欲しがってたからさ。それが、ボクら覇道五刃が、彼女とした約束なのさ」
手で身体を払って、首を左右に曲げて確かめるようにして、マーキナスは相変わらずのんきに言う。
シャルノーゼ、闇招の魔王候補生――エリンスも一度、顔を合わせたことはある。
霊峰シムシール、魔竜を仕留めることに失敗したシドゥを迎えに来た魔王候補生。
銀髪に黒いドレスを着た真紅の瞳をした魔族。アグルエのことを見やった冷やりとする視線――狙いをはじめからアグルエに定めていた鋭さは、忘れられもしない恐怖をはらむ。
「シャルノーゼ……」
はじめから幻英の近くにいることもわかっていた話ではある。
だが、エリンスはもう一度、アグルエの落ちたほうへと目を向けた。今はただの赤い絨毯となった場所へ。
――アグルエも心配だが、アグルエのことは、信じるしかない。何せ、彼女は最強と謳われた魔王候補生。魔王候補生同士、負けるはずもない。
エリンスは冷静に頭を働かせる。そうしていると、今自分がやるべきことを思い返すことができた。
「……シドゥも、いるのか」
静かにマーキナスから視線を外したまま聞いたエリンスに、彼女は「うん?」と首を傾げながらもこたえた。
「いるよ。あっちに」
マーキナスがそう言って指したのは、エリンスの向かった先、マーキナスの背後、玉座の間と思われた扉だ。
彼がいるのはその向こうだろう。
エリンスが斬るべき相手は覇道五刃ではない。シドゥと、マーキナスが指した先にいるだろう、覇王。
眼差しを真っすぐと向けたエリンスに、マーキナスはニッと笑うと口を開いた。
「きみ、面白いね」
エリンスは突然そういう風に言われて、思わず「は?」と言葉を返した。
「ボクの言葉を全部信じてさ、ニヒヒヒ、疑いもしない」
シドゥの居場所も、マーキナス自身戦う意志がないという言葉も――。彼女はそう言いたかったらしい。
「どんなものかと思ったけど、まだ楽しめそうだ。ニヒヒヒヒ」
そう言って笑うが、マーキナスの目は笑っていない。
感情は希薄ながらに、だけど純粋な言葉でマーキナスは語り続けている。
たしかにマーキナスが纏う雰囲気はその体躯に似つかわしくない不気味なものであったが、エリンスは彼女の言葉を無意識のうちに信じ込んでいた。
嘘を吐いている気配は、ずっとなかった。
「まあ、きみたちにひと目会えたから。それをお土産に、今回のボクの役目もおーわり」
『役目』――のんきにそう言ったマーキナスに、エリンスは一歩を踏み出す。構えた剣にも力が入った。
それを悟ったのかマーキナスは「あ、そうそう」ととぼけたように話を切り替えた。
「これは返しておくよ」
ぱちん、と指を鳴らしたマーキナス。その音に連動するようにして、エリンスの頭上にぐにゃぐにゃと歪む紫色の穴が開いた。
エリンスは戸惑いながらもそれを見上げ、そうしているとそこから、どさりと人が落ちてきた。
慌てて受け止めるエリンスは、剣も落として両腕の中にそれを抱え込む。
薄紫色の長い髪。つばの広い大きな黒い帽子に、黒いローブに黒いロンググローブ。ふわりと広がる藍色のスカートに、夜空を思わせる星が煌く模様。胸元で輝くブローチには燃えるような炎のマーク、それは勇者協会を表すマークだ。
幼さが残る顔立ちをしているが、エリンスより年上の大人の女性。薄くルージュの塗られた唇と通る鼻筋。閉じられた瞼は小さく震えており、苦しそうな、やや青ざめた顔色が気にかかる。
浅い呼吸を繰り返しているところを見るに、生きてはいるようだ。
「え? 誰だ……?」
と女性を抱えたまま思わず口にしたエリンスに、マーキナスは二ッと口元だけで笑って言葉を返した。
「黒の管理者、ネムリナさんだよ」
呆気なくもこたえる。
エリンスは行方不明になっていた彼女の話を思い返した。
――たしか、父さんも知っている人だと言っていた。
魔族の手の内に落ちていたのか――と考えながらも、意識のない彼女を床に下すように膝をついた。
「もう用は済んだし、返すよ」
手を振りながらそう言うマーキナスに、エリンスは目を向けて聞き返す。
「ま、待て。どういうことだ!」
顔色はやや悪いが、まだ身体は温かい。服装に乱れも見られず、パッと見では彼女が何かをされたようには見えない。
それも疑問だったのだが、エリンスがそれ以上聞く前に、マーキナスは背中を向けていた。
「何でもボクに聞かないでよ。言ったでしょ、ボクの役目はもう終わり。きみと話すことはもう何もないよ」
マーキナスが再び指を鳴らす。
すると、その身体が紙のように平面へ、薄くなっていく。
「きみのお目当てなら、あっちにいるから。後は勝手にやってよ」
ニヒ、と笑みを浮かべて、ぺらぺらぱらぱらと床に落ちた。
「ボクはこれから起きることに巻き込まれる前に、魔界へ帰らせてもらうさ」
それだけを言い残して、薄くなったマーキナスはまるで床に吸い込まれるかのようにして、その場から気配を消した。
一体――と呆然としたままに、エリンスはネムリナを支えて、それをただ見ていることしかできなかった。
――これから、起きること。
そのひと言が妙に引っかかる。だが、エリンスがそう考えている間にも、ネムリナは腕の中で意識を取り戻したようにして身を震わせた。
「んんぅ」
震える瞼に色っぽい吐息が口から漏れる。
「ここは……」と薄目を開けて言葉を零したネムリナに、エリンスは「よかった……」とひと息吐きながらもこたえた。
「大丈夫ですか、ネムリナさん。ここは、ラーデスア城です」
「え、えぇ……あなたは?」
状況がうまく呑み込めているのか、いないのか。虚ろな目をしたネムリナに、エリンスは頷きながら名乗った。
「俺はエリンス。勇者候補生です。ラーデスア帝国を取り戻すために、勇者協会が動いていて」
状況を一から説明する時間もないところではあったが、エリンスがそれだけ口にしたところで、ネムリナは「そう」と現状を把握したようにして頷いた。
「わたし、捕まって……」
両腕を上げるネムリナは、手を見つめるようにして光を取り戻した赤紫色の瞳を向ける。
ゆっくりと自分の力で身体を起こしたネムリナに、エリンスはそっと腕を離して立ち上がると、落ちていた剣を拾った
ネムリナが無事であったことは確認できた。ならば、今は――とエリンスは向かうべき先へと目を向ける。
「ネムリナさん、立てますか」
エリンスが先を見据えたまま聞くと、ネムリナは「えぇ」と頷いた。
「街のほうに他の勇者候補生たちも来ています。できたら、そちらに合流してください!」
エリンスはネムリナを一瞥する。そうすると彼女は未だ座り込んだまま、エリンスの顔を見上げて頷いた。
頬がやんわりと赤い。妙な色っぽさも感じて、エリンスは照れるようにしながら目を逸らして一歩を踏み出した。
「えぇ、わかったわ。頼もしい候補生ね」
エリンスは「はい!」と元気よく返事をして、ネムリナに背を向ける。
そのまま走って、大広間の奥に備え付けられたスロープ状の階段を駆け上がった。
向かう先は、裏切りの勇者候補生が待つという玉座の間――そこには、帝国をこのような事態に陥れたもう一人の巨悪、覇王もいる。
覚悟を胸に、アグルエを心配する気持ちを抑えながら、エリンスは願星を片手に前を向いていた――。
それを見送るようにしてからゆっくりと立ち上がったネムリナは、身体についた埃を落とすようにさっさっと手で払う。
頭から落ちかけた大きな帽子を押さえて、それから腕を伸ばして身体全体をぐーっと伸ばし、「ふっ」とやわらかく微笑んだ。
細めた目の先に何を見たのか――。
黒の管理者ネムリナは、一人先へと進んだ勇者候補生とは逆、城の出口へと向かって歩き出した。




