挿話『羅刹 蛇を所望す』
挿話『羅刹、蛇を所望す』
今日の夕食はオークの汁物だった。
狼桃と辛鞘で味付けされた真っ赤な汁物で、味を思い浮かべるだけでも額に汗が滲むほど辛い。
それに木芋を捏ねた淡い黄色の餅を浸して食う。
木芋は本来粘り気が無い。それできめ細かな舌触りのしっとりした餅を作るには、何人もの男達が交代で臼に杵を突き続けなければならない。
それこそ、この汁物を啜るような汗をかきながら激しく突くのだ。
一食分捏ねるのにそうした手間隙が必要なこの餅は当然ながら男の口に入ることは無い。
オレ達、女だけの食い物だ。
男達が食べるのはただふかしただけの木芋だが、オレはこの歯応えが良くほんのり甘い餅が好きでしばしば作らせる。
とろりとした汁物に浸っていたオークの肉はまだ初夏だと言うのにしっかりと身が太っていた。
こいつも秋に目当ての食い物が手に入らぬと知っていたのかもしれない。
オレは右手で平たく延ばした餅で汁物の実を挟んで口へ運ぶ。
美味し。
オーク肉に付き物の臭みは一切無い。
噛むほど滲む奥深いコクだけがある。
「アニク、今日も美味いな」
「恐悦至極にございます」
オレが汁を平らげてから椅子の脇へ腕を伸ばすと、そっと指先が拭き取られる。
椅子の傍に控えている男の名はアニク。オレの十二人の傍仕えの一人だ。
乾いた血の色の優雅な毛並みをした美丈夫であり、一番の料理自慢でもある。
汁物が入っている器もアニク自身の手で伝統の作法通りにオークの頭蓋を割って作ってある。
アニクはオレの食事のペースに合わせて、早すぎず遅すぎず、完璧なタイミングで料理を運ばせた。
最後の皿を運んだ侍従が会釈をして天幕を出る。
オレは果汁滴る鬼葡萄を一房堪能した後、赤く濡れる指先を舐めた。
その時向けられたあからさまな視線に気付かぬ女はいない。
ふふ、アニクめ。
愛い奴。
「近う寄れ、褒美を取らす」
息を呑んだアニクが松明に寄せられる蛾のようにオレへ近づき、跪く。
アニクは跪いたままオレが伸ばした指をゆっくりと舐った。
オレへの陶酔に満ちた黄褐色の瞳が小気味良く、指を這う暖かいザラリとした感触が心地よい。
アニクへ褒美を与えながら、オレは自分の手の甲を見つめた。
染み一つ無い、我ながら白く美しい肌だ。
かつてここに蛮人どもの『奴隷』を示す焼印が入っていたことは誰も知らない。
◆◇◆◇◆
「いかかですか、旦那様。
またと無い機会ですぞ」
「ほほぉ……エルフならば何度か試してみたが……トロールの女とはねえ。
しかし……まさか、まがい物ではあるまいね?」
「滅相もございません。
ご覧下さい、この透けるような肌、夜を切り取ったような黒髪。
闇より暗い瞳と彫りの深い野趣溢れる美貌、そして何よりこの真紅の二本角。
紛れも無いトロールの娘でございます」
「うーむ確かに。仕入れにはさぞや手間をかけたろう。
だが、ちと若すぎではないかね」
「ご慧眼には敵いませんな。
しかしこのような小娘でもかの『金眼白狼』が拵えた呪枷を裏のツテで調達させてようやく封じている有様でして。呪枷にしろ小娘にしろ、仕入れにはそれはそれは大枚を叩きましたが、流石にまともなトロールの女となりますと……」
「ふむ、残念。
でも十分に『耐える』んだろう?」
「ええ、ええ、それはもう。
トロールの頑丈さはそのままに、感度を調整も致します。
痛覚も何もかも、お好みに合わせて」
「結構結構。
誠に結構」
檻の前でヒムどもが極つまらぬ会話をしている。
呆けているのにも飽いたオレは戯れに声をかけてやった。
「おい」
ヒム二人が振り向く。
オレの声は蛮人に聞かせるには過ぎた栄誉だが、母様もこのくらいはお許し下さるだろう。
「オレは帰る。
オレのために扉を開けることを許す」
オレの声が場を震わせる。
肥えた方の瞳が揺れて、とろりと溶けた。
ふらりとした動きで扉に手を伸ばそうとする。
「旦那様ッ」
しかしもう一方の痩せぎすの方に手を掴まれた。
それと同時に夢から覚めたようにハッとして、後ずさる。
「わ、私は今……?」
「驚きましたな。枷を掛けられておきながら、これとは……
大変失礼をば。
ささ、こちらへ」
臆病なヒムどもは青くなって檻の前から逃げ去った。
つまらん。
オレはもう少しだけ怠惰を楽しむ努力に身を委ねた。
五首に掛けられている黒い枷のせいか、やけに気だるい。
焼印を押された右手の甲はまだ引き攣るような痛みを訴えていた。
◆◇◆
オレは囚われの身だった。
オレの氏族は抗争中の氏族に滅ぼされたのだ。
母様に結い髪を落としてもらう前のオレはさしたる役にも立たなかった。
相手氏族の長はオレの目の前で母様の首を落とした後で、オレを追放刑にするのではなく蛮人に売った。
昔、母様が奴との決闘で閏を勝ち取ったことを逆恨みしていたらしい。
当然の権利を得た母様に対して許しがたい無作法だ。
いずれ角に架けねばならない。
兎にも角にもここを出るのが先決である。
オレが売られた先はどうも雑多な蛮人種どもの売春窟だったようだ。
他の檻には鱗類に卑鬼や獣交じりの娘、アールヴやらドヴェルグやらも居た。
客はヒムばかりだったが、檻にメスのヒムはいなかった。
要するに、そういう趣向の場所なのだ。
惨めで弱い者が一時でも強く尊い者を嬲り者にしたいという薄汚い衝動を満たすわけだ。
いじけた軟弱者どもだ。
おまけに話に聞いていた売春窟とはどうも毛色が違っていた。
買われたメスどもはヒムどもの吐き気のする遊戯の後で檻に戻されるのだが、全身をズタズタにされていた挙句しばしば死んでいた。
ところが翌朝には体中の傷跡が綺麗に塞がり、息を吹き返しているのだ。
腹や、目や、頭に穴を開けられて『突っ込まれていた』らしいメスも、腰から下が泣き別れして『断面を』陵辱されていたメスも、次の日には元通りだった。
心までは、どうもその限りではなかったようだが。
鼓動と呼吸が止まっていないだけの置物同然となったメスから順に、檻からいなくなっていった。
幸か不幸か、オレは中々選ばれなかった。
トロールの威容と美貌に畏怖を成していたのだろうと思っていたのだが、どうも後で聞くところによると単においそれと手が出ぬほどの値が付けられていたかららしい。
ふざけた話だ。
しかしともかく、オレにもその日は来た。
◆◇◆
「何なんだよ……このクソスケベトロールはよ……
大人を馬鹿にしやがって…
メスガキのくせにセックス準備万端な体しやがって…
男を…甘く…見やがって!
ぜってーゆるさねえ!!」
オレを買ったらしいヒムはどうやら気が触れていた。
色黒でよく肥えたオスで、頭の天辺がつるりと禿げている。
オレの好みはもう少し引き締まった若い肉だ。
炙り焼きにしても些か油っけがきつそうに見える。
「死ぬほど種付けして交尾専用奴隷だってことを分からせてやるからなぁ。
この生殖特化型メスガキボディがよ。
好き♥」
言葉は支離滅裂で目が血走っている。
オレ達トロールの美貌は蛮人達も抗えぬ魔性を帯びているため、こちらがそうと意識しなくてもしばしばオレ達に狂うオスが出る。
十分な力はまだ無いが魔性は色濃く帯び始める頃、つまりオレのような結い髪を落とす直前のトロールが一番危ない。
本来なら女の意に反するような不躾な男など万に一人もいないのだが、ここは作法の「さ」の字も通じぬ蛮地だ。
しかしオレはいかに声を封じられていようとヒム風情がトロールの肌を自由に出来るはずがない、と高を括っていた。
それが間違いだった。
オレは結局のところ世間知らずの小娘だった。
「オレの視界に入りたいなら、せめて皿の上に乗って来い」
このオレが態々声をかけてやったと言うのに、頭の足りないヒムはどうも癪に障ったらしい。
ヒムは力いっぱいオレの腹を殴りつけた。
「うあ゛っ……!」
どぼん、と音を立ててヒムの拳が手首までオレの腹にめり込む。
耐え切れずにオレは反吐をぶちまけたが、痛みよりも先に激しく混乱していた。
「んほぉ~この苦悶の表情たまんねぇ~。
たっぷり躾けてやっからなぁ~」
脂汗を滲ませて青ざめるオレを見てヒムがニタニタ笑いながら息を荒げる。
おかしい。
ヒム如きに易々とトロールの肌が傷つけられるはずが……
「ぶっひっひっ。
まぁ~だ気付いてないんだね。カワイイ♥
その手枷で君はただのメスガキなんだよ♥
オラッ何がトロールだッ!
オラッ!!」
ヒムは二度三度とオレの腹に拳を打ち込む。
オレは必死に抵抗するが、子供の卑鬼ほどの力も出せなかった。
「ぐっ……離せ!!」
鳩尾を殴りつけられる。
「う゛っ……や、やめろ!」
顔を殴りつけられる。
「いぅっ!!…このっ!」
もう一度殴られる。
殴られる。
殴られる。
殴られる。
殴られる。
何度も何度も何度も何度も。
殴られた。
「ひゃめ……やめ…て…」
時間の感覚が無くなってくるほどの殴打の末に、オレの声に懇願の色が混じった。
ヒムは激しく股間をいきり立たせていた。
「てめーなんだそのツラ!!
誘ってんだろ!!
お、お、大人をからかいやがって!!
もう許さねえからなぁ~」
ヒムはオレの衣服を力任せに剥ぎ取る。
「や……やだ!
やだあ!!」
「お前らが喰った人間の分だけ生ませてやっからな!
覚悟しろ! メスを自覚しろ!
産め! 人の子を!」
オレは暴れた。
赤子のように力無い手を振り回した。
それがまたヒムを興奮させる。
オレはここでずっと慰み者にされるのか。
いやだ。
い……いやだ!!
「やだぁ!!
母様ァ!!」
「うるせえ! 何が母様だ!!
お前がママになるんだよ!!」
ヒムが腰を打ち付けようとしたその時だった。
「シリアスなんだかギャグなんだか、脳が混乱する展開は止めて貰えませんかねえ!!!」
部屋一杯に素っ頓狂な声が響いた。
思わずオレは声がした方へ振り向く。
いつの間にか部屋の隅に見知らぬ男が立っていた。
ヒムはもちろん、オレでさえまるで気付かなかった。
みすぼらしいツギハギローブを着た男だ。
その男は硬直しているオレとヒムの驚愕などお構いなしに話し始める。
「『生意気な女を屈服させてえ』ってのは、わかる……スゲーよくわかる。
某九課の課長さんも『“気の強い女はアナルが弱いなどという都合のいいロマン”は存在しない。 だが“気の強い女のアナルを責めるロマン”は確かに存在するのだ』って言っとるからな…」
その男は呆然とするオレ達を他所にブツブツと意味の分からない独り言を続けた。
「『男勝りなオレっ娘をメスだと思い知らせてやりてえ』ってのも、わかる……めっちゃ、スゲーよくわかる……
正直言って俺もかなりツボなシチュだからな……でもよぉ」
部屋の隅を行ったり来たりしながら話し続けていた男はぴたりと足を止めた。
「三次には節度ってもんがあるんじゃボケェーッ!!」
唐突に叫んで真っ直ぐ拳を打ち出した。
体重が乗った右ストレートが鮮やかなほど正確にヒムの左頬を捉える。
「ぶげぇーっ!!」
拳はめしゃあ、とヒムの頬にめり込み、顎をひしゃげ、眼球を揺らし、涎を撒き散らせながら体ごと吹き飛ばした。
豚のような悲鳴を上げたヒムは壁に叩きつけられ、激しく頭を打って気絶する。
男はどさりと倒れたヒムを見下ろしながら、コリコリと頭を掻きつつ他人事のように呟いた。
「ん~あのね。
女の子があまりにも不幸すぎる話じゃ細かいシチュとか関係なく抜けないのよね」
やはりその言葉は意味が分からない。
騒ぎを聞きつけたのか、一人のヒムが部屋へ飛び込んできた。
オレに枷を嵌めたこの売春窟の主だ。
「きっ…貴様!
いいい、一体どこから、どうやって…!?」
「出やがったなクズめ。
蘇生術をろくでもねえ金儲けに使いやがって。
言っとくが、お前には手加減無しだ」
男が懐から取り出した“それ”を被ったとき、部屋に虹の洪水が溢れた。
「目には目 歯には歯
剣を取らば剣によって滅びゆくのみ
しかし我は絶えず滅び また生まれ変わる者」
荒れ狂う魔力の奔流の只中に、七色の蛇の仮面を被った白き魔人が立っていた。
◆◇◆
魔人はあっけないほど容易く売春窟の主を灰にした。
しかしその後すぐにみすぼらしいツギハギローブの男へと戻った。
男はてきぱきと動き回り、オレだけではなく檻の中のメス達も開放した。
「おい」
「何でしょうか、貴き方」
「枷を外せ」
「えぇ……今外したら、キミ絶対にそこの人殺すじゃん……」
「当たり前だ。
このオレに狼藉を働いたヒムを縊って何がいけない?」
「無礼討ちはダメです」
男はとぼけた顔をして、絶対に枷を外さなかった。
だが男が言うにはここでのヒム達の記憶は失われるらしい。
理屈は知らないが、オレへの忠を尽くしたこの男に報いるためそれでよしとする事にした。
頭が呆けたままのヒム達を身包み剥がして外へ蹴り出した後、男はオレ達の治療を始めた。
男が治療したのは体の傷だけではない。心もだ。
男は何日もメスどもに話しかけ、体を動かさせ、少しずつ心を取り戻させていった。
まるで反応を示さない者へも決して急く事無く、あくまで優しく、根気強く治療を続けた。
驚くことに時間こそかかったものの男は全員の正気を取り戻して見せたのだった。
男は治療だけではなく、売春窟の中の物を全て持出して金銭へと替えた。
妖術師だったらしい売春屈の主の品々は空恐ろしいほどの金貨へと化けた。
特にオレの五首に掛けられた黒い枷がもう一式あったのだが、それは値が付けられない、と言うより男自身が危険だとして処分した。
「裏でこんな使い方されてるって知ったら、あいつ血管ぶち切れちまう」
そうして得られたコインを捕らわれていたメス達へと配り、各々を外へと連れ出していったのだった。
最後までその男と残ったのがオレだった。
◆◇◆
「色々習っといて助かったぜ」
男はオレが差し伸べる手足を恭しく取りながら一つずつ枷を外した。
常に屈みながら、首の枷ですら目の高さを決してオレより上にする事無く、肌へも殆ど触れずに外した。
傍目には野蛮なヒムなのだが所作にはまるで無作法なところが無い。
「ちょっと、じっとしていてくれよ」
男はオレが差し出した手の甲に指を添えた。
そのまま触れるや否やの繊細さでオレの肌を撫でると、黒い焼印は嘘のように消えてしまった。
オレの驚きが冷めやらぬうちに、男は灰色の布の包みを出した。
「おそらく君の物だと思う」
オレは包みを開いて更に息を呑んだ。
満天の星空を薄く割ったような見事な刀身。
極夜石の小刀だ。
「母様」
オレは恭しく差し出された小刀を取った。
手は震えていた。
極限まで磨き上げられた刀身は呆然としたオレの顔を映し出すほど滑らかで、鋭い。
紛れも無い、トロールの長のものだ。
長から娘へ、贈られるものだ。
見間違えようも無い、母様の、小刀だった。
「…ははさま」
オレは小刀を胸に抱いた。
胸に熱い物がこみ上げていた。
それは喉で塞き止められ、行き場を求めて更に暴れ出し、頬の裏を通って眦へ届く。
「…はは…さま」
オレはヒム如きに組み伏せられた屈辱の最中にも涙など流さなかった。
結い髪を落とす前とは言え、オレもトロールの女だ。
しかしこのときばかりは、耐えられなかった。
我慢など出来ようはずも無かった。
いつの間にか、男は部屋の外へ出ていたようだった。
その気遣いが嬉しかった。
「ははさまぁ!!」
オレは堰を切ったように泣きじゃくった。
母様の小刀を抱きしめてボロボロと涙を零した。
その時になって初めて、漸く、母様を悼むことができたのだった。
◆◇◆
オレの目元から赤みが引いた頃、男は白湯を持って現れた。
「多分、君と一緒にあの死霊術師に売られたんだろうねえ。
好事家には目の飛び出るような値で取引されるから」
男は軽口を叩きながらもオレが無様に泣いていたことには一切触れない。
それに白湯の入ったカップもきちんと下から手渡した。
オレに対するこれまでの姿勢も、母様の小刀をむき出しにせず灰色の布で包んで持って来たことも、何もかもトロールの作法に則っていた。
「お前はヒムの割には行儀が良いんだな」
「随分昔ですが旅の途中で会ったトロールに親切にしてもらいましてね。
その時に教わったんです。
ご婦人に不快な思いをさせないようにとね」
男は肩をすくめておどけてみせる。
その時もオレと目を合わせない。
蛮人の癖になんと出来た男か。
オレはこの男に褒美を取らすことにした。
「国へ帰る。
オレの供をすることを許す」
「あり難き幸せ」
そしてオレとその男の帰路の旅が始まった。
男はとぼけていたが、どうも元からそのつもりであったらしい。
旅は素晴らしかった。
初めて馬という生き物に乗ってみた。
周りを見下ろしながら風のように走るのは爽快だった。
蛮族の祭りに参加してみた。
蛮族流の焼き菓子は粗野な味わいだがなかなか旨かった。
夕焼けの空を埋め尽くすほどのアゲハヅルの渡りを見た。
ヨトゥンの背を越えていく小さな群れなど比べ物にならない雄大な光景だった。
もちろん愉快でないこともあった。
奴が慇懃にアレを食うなコレを食うなとオレの食の好みに一々口を差し挟むのには閉口した。
けれどもやはり、奴との旅は概ね素晴らしかった。
半年ほどかけてヨトゥンの背が見えた頃、蛮人の村に泊まったのが奴と過ごした最後の日だ。
その七日前の晩に初花が開いていた。
準備が整ったのだ。
オレはこの日を待ちつつ、間に合ったことを眠るヨトゥンに感謝したものだ。
青かった狼桃が春を迎えて赤く色づくように、確かに自分の体が熟したことを実感していた。
オレは夕日を受けて燃えるように輝くヨトゥンの背へ向かい合い、母様の小刀を手に取った。
そして一息に結い髪を切り落とす。
オレの後ろ髪を纏めていた一房を失って頭はぱらりと解ける。
手を離すと髪は風に乗ってヨトゥンの背へと運ばれていった。
トロールが還る場所へ。
母様の魂が眠る、その場所へ。
◆◇◆
小さな木賃宿の中で奴は盛大な溜息を吐いていた。
「はあ……どうにか無事に着いた……
いやもうほんともう懲り懲りだわ。
王国をトロールと一緒に旅なんかするもんじゃないわ」
「オレがくれてやった褒美に不満があるのか。
不敬だぞ」
「だってさあ!
君、その辺のオレンジの木から実をもぐのと同じ感覚でその辺のヒトの頭をもごうとするじゃん!!
勘弁してよお!!」
男は芝居がかった仕草で弱弱しく泣き喚いてみせる。
この旅で分かったのだが実に謙虚な男だった。
その振る舞いは常に控えめで、力をひけらかすということが無かった。
「トロールの女であるこのオレの目に止まったんだ。
オレの口に入ることに栄誉以外の何がある?」
「悲劇以外の何もねえよお!!」
男は泣き真似をして殊更におどけてみせる。
その間も決して敬意の仕草を崩さない。
全く、ヒムにしておくのが勿体無い男だ。
「おい」
「何すか」
「お前には世話になった」
男はきょとんとした後で笑い出した。
「何の何の。
あなたをこの王国のど真ん中で放り出すわけには行きませんからね。
お互いに事情あってのことですよ」
「しかしここまでオレへ尽くしたお前には褒美を遣わさねばならない」
「ご褒美と仰いますと?」
「こういうことだ」
オレは奴に飛びついて寝台へ押し倒した。
奴は予想だにしていなかったのか、顔が見るからにびっくりしていた。
それもそうだ。
これからオレが与えるのは蛮人には過ぎた栄誉なのだから。
両手首を掴んで腹の上に跨り、奴を見下ろす。
これからすることに胸が高鳴る。頬が火照る。
腹の奥底が熱を帯びる。
「喜べ。オレに“猛り”を捧ぐことを許す。
お前を誇り高いトロールに加えてやろう」
自然と口の端が吊り上がる。
獲物に止めを刺す寸前のような高揚が治まらない。
奴はオレの手を振りほどこうともがくが、オレの指は毛ほども緩まない。
いかに巫術に長けていようと素のトロールの強力から逃れられるものなどいない。
奴は情けない笑みを浮かべて見せた。
「ぐ…具体的には?」
「お前の“猛り”を一滴残らずオレの腹に捧げろ。
そしてオレはお前を食らう。
血の一滴、毛の一本に至るまで無駄にしない」
「ヒェッ……!」
「ふふ、もっと喜んでいいんだぞ?
お前はオレの腹の中でこの世で最も強く貴いトロールへと生まれ変わるんだ」
「ぶっ文化が違~う!」
男は情けない顔に脂汗を流しながらじたばたとする。
とても楽しい。たまらない。
「い、い、いや、あのね、ぼかぁね。
君らの信仰にも文化にもケチは付けないけど、ヒューマンとトロールじゃ子供は中々出来ないって聞くしねぇ~…!」
「安心しろ。オレ達には“それ”と分かる。
お前は合格だ」
時折トロールの女は蛮人の血を取り込む。
ただし誰でもというわけには行かない。
まず何より強く優秀なオスでなければならない。
だがその中でもトロールの腹へ届く精強な“猛り”を持つオスなど万に一人もいない。
しかしこの男は紛れも無く取り込むに値した。力もあった。
トロールの女にはそれが分かるのだ。
オレは路傍の石くれの中に七色に輝く宝玉を見つけた気分だった。
「待て!待て!待ちたまえ!
オレなんか食ったら腹を壊すぞ!ほんとだぞ!
エッチだけ!ご褒美ならエッチだけオナシャス!!」
オレは笑みが溢れるのを抑え切れなかった。
「愛い奴。そう恥ずかしがるな」
オレは味見がてら奴の胸元に牙を立てた。
皮膚を破るプツリとした小気味良い感触の後、薄く肉を噛み千切る。
「グエー!」
「……ッッ!!
んぅ…ッ!」
な……
こ、これ……は……!
奴がおどけた呻き声を上げていが、オレはそれどころではなかった。
口に含んだ瞬間、世界が白く飛んだ。
それが喉を通った感触と官能でオレは危うく達しかけた。
美味い……などというものではない。
体中のヨトゥンの血が狂おしいほど叫んでいた。
『この男を喰らい尽くせ』
『この“存在”を余す事無く飲み干せ』と。
これはトロールの女でなければ絶対に分からない。
決して男には分からないだろう。
こいつは一見すると作り物のような体をしているから。
「お前は…すごいな」
傍目と裏腹に、中には限りなく古い力を深く宿した血が流れている。
それでいて夏の始めに青い草原に吹く風のような、無限に新しく芽吹き続ける甘い命の匂いがする。
噛み切った剥き出しの肉に舌を這わせた。
一滴も零すまいと溢れる血を残らず吸い尽くす。
舌先に血が滲む程に、オレの脳髄に官能の稲妻が走り、腰が勝手に跳ねて溶けてしまいそうになる。
はしたない事だが、涎が止まらなかった。
オレが血の滴るそこを遮二無二吸うと奴は感涙して咽び泣いた。
「いやだー!いやだー!死にたくなーい!!
そりゃ俺はストライクゾーンが下にも広いけど!
ほんのちょっぴりばかしマゾ気質もあるけども!
キャワイイ女の子からの逆レ願望もチラッとはあったけども!!
物理的に喰われるのはいやだぁー!!」
奴は殊更に弱い振りをする。
その血にこれほどの力を宿していると言うのに。
この期に及んで慎み深いその姿がいじましくて、愛おしくて、オレは奴自身の美味さとはまた別のところで益々昂ぶった。
「そう遠慮するな。
オレはお前の忠に報いたいだけだ」
「こんな目に会う覚えはなぁーい!!」
「…そうか、お前は分かっていないんだな」
オレがどれほど嬉しかったか。
お前が助けに来たこと。
母様の小刀を取り戻したこと。
ここまで供をしたこと。
それが、どれほどオレの心を震わせたか。
それを伝えたい。
伝わって欲しい。
「心配するな」
奴の喉を吸う。舌と唇のすぐ下に熱い鼓動を感じる。
オレは奴を見下ろしながら、自分でも恥ずかしいぐらい火照った顔で微笑んだ。
「絶対に、誰より強いトロールに産んでやるからな」
「ヤダァーッ!!
助けてー!!
ママァーッ!!」
「オレがママだぞ」
そして奴のローブに手を掛けた。
◆◇◆◇◆
ここでオレの記憶は途切れている。
実は一度囚われの身になってからヨトゥンの背に辿り着くまでの記憶さえ、ずっと思い出せずにいたのだ。
今までオレは自分の力で母様の小刀を奪い返し、戻ってきたのだと思っていた。
しかしそうではなかった。
思い出したのは、ヨトゥンの背に迸る七色の輝きを目にしてからだ。
つまり、オレはまだ奴に褒美を取らせてないことを思い出したのだ。
小娘の時分とは言え、このオレともあろう者が。あれほどオレへ尽くした者に。
女の腹の中で哀れなヒムから強く美しいトロールへ生まれ変わるという、最高の栄誉を与え損ねている。
「アニク」
「いかがなさいましたか、我が君」
オレはアニクの頬を撫でた。
「オレは蛇が食いたいな」
「蛇……で、ございますか?」
アニクの顔が困惑する。
無理も無い。本来、蛇の旬にはまだ早い。
しかしアニクが理解する前に伝令がやってきた。
どうもヨトゥンの背の向こうに住まう蛮人の荘園領主が交渉にやってきたらしい。
オレはアニクに着付けを命じる。
「司祭どもめらだけでなく、下位の家までもが我が君への弾劾を企てております」
三位の礼服の袖へオレの腕を通しながらアニクが囁いた。
「ふふ、誰もが必死だな。
生き足掻く姿にヒムも卑鬼も違いは無い」
「我が君を除いては」
「そうだとも」
アニクが着付けを終えて姿見を持ってくる。
黄昏色の鮮やかな染付けがオレの美しさに映える。
「全てのものはオレの下に平等だ」
ヨトゥンの背から見下ろすように、世界は平らかで美しい。
オレこそが真の王者であり、トロールはトロールでない何もかもを差別しない。
強さと美しさこそが全て。
それこそが、トロールが喰らうに値するもの。
あの蛇も。
「楽しみだな」
腹の奥底に冷めやらぬ熱が宿っている。
かつて過ぎ去りし、炎のように滾る熱が。
◆◇◆
「あ…ありのまま、昔起こった事を話すぜ!
『おれはママにされそうな子を助けたと思ったら
いつの間にかおれのママになっていた』」
王立魔術院長ジルバーシュタインは冷ややかな金色の瞳で親友を眺めていた。
「な…
何を言っているのか わからねーと思うが、
おれも 何が起きたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
ニコポナデポだとか秒で考えたエロ漫画の導入だとか
そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
もっと恐ろしい超展開の片鱗を味わったぜ…」
「それがオチか。
馬鹿馬鹿しい」




