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第十話『早く帰ってきて下さい。小生のマスター殿』
◆◇◆
結界が揺らいだだけで消滅しなかったことにドゥルーヴは眉をひそめた。
伏兵は儀式阻止に失敗したのだ。
やはり偉大なるヨトゥンの血を引かぬ者は信用置けぬ。
おかげで結界が強固になる夜明け前に山を越えなければならない。
そんな苛立ちも吹き飛ぶ衝撃だった。
初め、尾根の一角に虹色の光が松明のように灯った。
かと思うや否や、それは白い大鷲が翼を広げるように両翼へ光を伸ばし、瞬く間に尾根を走る長城へと姿を変えたのだ。
そして今、彼の眼前には極光の如き燐光を背負った山脈が横たわっている。
臆病者ならばその光景を否定し安穏な空想へ逃げたやも知れない。
だが誇り高きトロールの戦士の魂はそれを許さなかった。
ドゥルーヴは唇を血が滲むほど嚙み締めて喉まで迫っていた咆哮を押し殺す。
無闇に声を荒げるのは戦士らしからぬ無作法である。
しかし所詮は奴隷に過ぎぬ卑鬼どもは耐えられなかったらしい。
森のあちらこちらで奴隷どもの耳を劈くような悲鳴が聞こえてくる。
恐怖と混乱は枯野に火をかけるが如く伝染する。
しかしそれは大火となる前に消し止められた。
悲鳴は散発的な物にとどまり、やがて森は静まる。
風に乗って漂うのは卑鬼達の血の臭いだ。
それだけでドゥルーヴには伝令を待たずとも分かった。
彼の確信に違わず森の至る所で生贄の血が捧げられていた。
真っ先に持ち場を放棄したゴブリンをトロールの太い腕が捕らえ、素手で首を引き千切っていたのである。
各分隊を指揮するトロールの醜男達は恐怖に染まる凄まじい形相のまま固まったゴブリンの首を掲げて叫ぶ。
『もう一度思い出せ。
生はお前達の前にしかないぞ』
ゴブリン達はそれに従った。
人は遥か遠くにある破滅はどんなに大きくとも見えない。
どんなに小さくとも今この場で我が身へ降りかかる危険を恐れるのだ。
「ドゥルーヴ」
背後から投げ掛けられた声にハッとして振り向く。
主は明らかに白い頬を上気させていた。
美しい顔が臥所で自分を見下ろすときのように陶然としている。
「オレはあれが欲しい」
さすがにドゥルーヴも耳を疑った。
「取って来てくれ。
オレのために」
夜空を指差して『あの星を取ってきて頂戴』とでも言われた気分だ。
だが主は『取って来い』ではなく『取って来てくれ』と言った。しかもどこか甘い声で。
もうドゥルーヴに否やは無い。
逆らうどころか諌める気すら微塵も沸かなかった。
彼はすぐさま兄弟と部下達へ伝令を送った。
◆◇◆
青い月の下、蘇った白い長城からグリムは虹色の仮面越しに森を見下ろしていた。
森の中で蠢く無数の命の灯り、その全てはトロールとゴブリンだ。
彼らはほんの一瞬だけ壊走しかけたものの、すぐさま統率を取り戻した。
そしてやや乱れながらもこちらへ近づいてくる。
トロール達は諦めていなかった。
グリムはしばしそれを黙って眺めていた。
彼は今や竜脈の一部、いや『そのもの』だった。
今の彼を倒そうとすることは竜骨山脈をひっくり返そうとすることに等しい。
グリムは膨大な魔力を悠然と全身に巡らせている。
一介の魔術師であれば『器』が破裂するどころか瞬時に消し飛ぶ量である。
グリムは天を仰いだ。
夜空に浮かぶ星々は久しく変わらず寒々しく酷薄だ。
死者はしばしば夜空の星に例えられる。
それはこの光におよそ血の温かみが無いからだろうか。
彼は一万の敵を前にしてふと、そんなことを思った。
だとするならば、互いに望むと望まぬとに関わらず、今夜は幾つかの明かりを新たに灯すことになるのだろう。
彼は祈るように構えた杖を強く握り、何事かを小さく呟いた。
そして天に巨大な円を描くように大きく杖を振るう。
針のように細い黒い杖の先から滲み出す光が天輪を形作り、目も眩む閃光を四方へ発散した。
光が止んだその時、城壁の上には幽鬼のごとき青白い影の兵士達が無数に現れる。
「番えよ」
仮面の奥から漏れ出したのは蚊が鳴くような囁き声だった。
それでも無数の兵士達は一糸乱れず矢を弓に番える。
グリムはそこで一度待った。
トロールの一群は止まらない。
真っ黒な津波が押し寄せるように弱まった結界を分け入って森を進んでくる。
もし尾根を越えられてしまっては、再び活性化した結界でも彼らを追い出すことは出来ない。
ここが一つの分水嶺だった。
グリムはしばし押し黙ったまま森の中に煌々と輝く命の炎を見つめる。
だが遂には消え入りそうな声で命じた。
「……放て」
糸のように細い光の矢が一斉に放たれる。
無数の矢は尾根の上から星を射抜かんばかりに巨大な弧を描いた。
凍るような夜空に白い尾を引いた矢が雨のように森の中へ降り注ぐ。
矢は針が水面に落ちるように前線のゴブリン達を無慈悲に貫いた。
額、首、胸、腹、腕、足。
場所に関係無く射抜かれたゴブリン達は糸が切れたように地に昏倒した。
トロール達も例外ではなかった。
矢に気付いた後、彼らは木々の梢を盾にしようとしたが、細い木漏れ日が抜け落ちるように矢は茂る葉や枝を通り抜けた。
絶え間無く降り注ぐ矢は見る見る間に森の中の兵士達を減らしていく。
弱まった結界を越えるどころか森を抜けることすらできずに兵士達が散っていく。
しかし矢の雨は不意に止んだ。
グリムが杖を振り、兵士たちが弓を下ろさせたのである。
彼は森の中での変化を注視していた。
トロール達は木々や装備が盾にならぬと見るや、倒れた仲間達を盾にしていた。
鎧や木の盾をすり抜ける矢も肉を貫通しては来なかったのだ。
ゴブリン達は倒れた同胞を担ぎ上げ、背負い、壁にしながらじりじりと進んでくる。
それは次第に速さを増していた。
まだ彼らは諦めていない。
グリムは再び杖で大きく円を描く。
すると今度は城壁の前にやはり影のような兵士達が無数に現れた。
兵士達は馬も持たず、盾も持たず、三日月のように反った一振りの剣を携えるのみである。
しかし彼らは急斜面を落ちるより早く走ってゆく。
再び振り出した矢の雨を背に、兵士達は瞬く間に森へ飛び込んだ。
森の中を音も無く駆ける彼らが剣を振るうたび、トロールとゴブリン達は再び倒れて行った。
しかし今度はトロール達の対応も素早い。
彼らは進路の両脇に鉱油を撒き散らし、火を放った。
闇色の森の中が昼間のように明るくなる。
直接火に触れた影の兵士達は煙のように掻き消え、残る兵士達も炎の壁に遮られて近寄れなくなった。
今の空気は湿っており、枯れ木は少ない。
トロール達は森全体に燃え広がる可能性が低いことに賭けたのだ。
兵は既に大部分を失い、取れる道も限られ、夜明けまでの猶予は刻々と迫る。
仲間の肉を盾とし、炎の道を作り上げ、勇猛残虐のトロールとゴブリンは進軍した。
まだ、諦めてはいなかった。
一軍は結界が薄い所ではなく尾根の最も低い山道目掛けて猛進する。
グリムにはその魂の色までもがくっきりと見えた。
軍団の大半を構成するゴブリン達の殆どにあるのは『怯え』だ。
道行く先が切り立った崖であろうと背中から怪物に追い立てられては走るより他に無い。
確かに宙に身を投げ出して海に落ちるのも恐ろしいだろう。
だが生きたまま自分の肉を、骨を、臓物を食い散らかされる恐怖の現実感には及ばない。
グリムは煌々と輝く炎の道が森の中を燃え盛る蛇のように近づいてくる様子をじっと見つめていたが、やがて頭を振った。
やらねばならぬことは一つだ。
彼は三度杖を振った。
これで最後であれと祈りながら。
グリムが杖を振った瞬間、森全体が浮き上がるように光った。
それは黒い光だった。
一瞬放たれた光は森に大恐慌を呼び起こした。
倒れたトロールとゴブリンが起き上がって周りの者達に襲い掛かったのである。
こうなるともはやトロール達もゴブリン達を抑え切れなかった。
同胞に牙を突き立てられる恐怖に駆られたゴブリン達はトロールのツメを掻い潜ってでも我先にと隊列を離れて逃げ出した。
『自分もああなる』
その恐怖はトロールに食い殺される恐怖に勝ったのだ。
もはや軍の体は成っていなかった。
◆◇◆
ドゥルーヴは壊走する軍を視線で焼き殺さんばかりに睨んでいた。
硬く黒い毛で覆われた顔が限界まで熱した鉄のように赤らんでいる。
「ドゥルーヴ……」
背後から失意が滲む声を聴いた瞬間、背筋に氷を入れられたように頭の熱が吹き飛んだ。
彼はすぐさま振り向いて跪く。
「我が君、弁明の言葉もありませぬ。
ですがもし、控えておりました我等兄弟達がお傍を離れること、お許し給いますれば……」
「オレはこんなところでお前達を損なうつもりは無い」
ドゥルーヴは再びカッと頭が熱くなった。
主は我等が負けると思っているのだ。
「恐れながら、我が君……」
「くどいぞ。
状況を見ろ」
主の言葉は正しかった。
実のところドゥルーヴも分かってはいたのだが、無理やり目を逸らしていたのだ。
認めたくなかったのだ。
トロールの武威を殊更誇る己が、他でもない戦において主の願いを叶えられないなどとは……
彼は己の不明を歯を食いしばって耐えていたが、そっと頬に指を添えられた感触でハッとした。
「オレの不動の星よ。
許せ」
主が。
あろうことか我が君が玉座を降りて、跪く己へ手を差し伸べている。
「オレの我侭は何であろうと叶えようとするお前に甘えてしまった。
今宵は退いて時を改めよう。
許せ、ドゥルーヴ」
「め……滅相もございません。
勿体無いお言葉です」
我に返ったドゥルーヴは平伏し、涙さえ零した。
だが、トロールの長は臣下でもあり臥所を共にする王配の一人でもある男の頬を撫でながら、顔も心も別の方を向いていた。
夜より暗い漆黒の瞳には今なお輝く虹色の光が映っていた。
◆◇◆
トロール達は兵を引いた。
ゴブリン達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
今宵、誰一人としてグリムが引いた境界線を越えることはなかった。
グリムは黙りこくってそれを見つめる。
命の灯りが一つ一つ遠ざかって行くのをただ黙って見送る。
そして誰もいなくなった。
いつしか白い長城は幻のように消えていた。
竜骨山脈の尾根に純白のローブを纏った異形の魔術師の姿は無く、ツギハギローブのみすぼらしい男が突っ立っているばかりだ。
男は彼方の地平に顔を出した白い朝日に跪く。
そして祈りを捧げた。
全ての魂の安寧へ、倒れるまで祈りを捧げ続けたのだった。




