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第九話『いつだって小生は悩んでばかりの甘ちゃんマスター殿の尻拭いであります』
◆◇◆
血のように赤い太陽が暮れようとしている。
その老人は太い木の枝の上にソファのように腰掛けていた。
老人は顔中に走る皺の下に幾つもの古い刀傷を埋めており、手足は太く胸は分厚かった。
茶褐色の外套の下には一振りの剣を携えている。
その老人は紫色の水晶球を見つめていた。
水晶球には先ほどまで二人の騎士と彼らに守られた二人の女魔術師が写っていたが、不意に掻き消えた。
老人は懐へ水晶球をしまうと地面を飛び降りる。
自分の『仕込み』はまだ残っていたがおそらく通じまい。
もはや長居は無用。
可及的速やかな撤退を選択すべきだ。
目の前の『それ』が許すならば。
美しい灰銀の髪の乙女。
その形をした凄まじき者が老人の目の前に立っていた。
尤も、見た目通りでないのは老人も同じことだったが。
「ほっほっ……貴女のような麗しいお嬢さんが出歩く場所ではありませんな」
「貴方のようにお年を召された方が起きて歩き回る時間でもありませんね」
間合いはおよそ十歩。
木から降りるタイミングを見誤れば着地の隙を狙われただろう。
剣は抜いておくべきだったが、そこまでの余裕は無かった。
アーリヤも不用意に動けずにいた。
目の前の相手は傍目には好々爺然とした老人だ。
しかし柔和な笑みの下には凍てついた殺意が隠れている。
マントの上からも分かる筋肉は鎧のよう。柱となる骨は鋼のようだ。
紛れもない達人の肉体でありながら、そこに暖かい血は通っていない。
二人は自ずと理解した。
相手は自分と同じ、フレッシュゴーレムだ。
夕日に染まった木の葉が火の粉のように踊る森の中、不死の獣同士が互いの殺意をぶつけ合う。
宙で幾度と無く無音の火花が散った。
アーリヤは残る右腕だけでも十全に相手の首を刈り取り得るが、隻腕による姿勢の狂いは隠せない。
老剣士は全身から一部の隙も無く気配を放っているが、剣は鞘に収められたままだ。
互いに僅かな身じろぎで先を取り合う探り合いを続ける。
ひゅるり、と風が流れた。
刻一刻と夜へ近づくツツジ色の空に雲が流れる。
嘘の様に早く流れる雲の下に広がる影が森を黒々と塗りつぶして行く。
そして明暗を分けるように二人の間を割った影は、不意に少女だけをすっぽりと包んだ。
一閃。
二対の影が交差する。
闇の獣が瞬きの数千分の一の間に互いの位置を入れ替えた後、勝敗は決した。
「なるほど……ほっほっ。
流石にお早いですな。
老骨には堪えます」
老剣士は月の様に冴える抜き身の剣を握った右腕を失っていた。
胸元にも大きな切り口が開き、懐にしまわれていたであろう水晶球や金色の鈴などが溺れ落ちる。
引き裂かれた胸は白い肋骨が覗いていると言うのに赤い血は一滴も流れない。
黒く淀んだ糊のような何かがジワリと滲むばかりだ。
だがアーリヤは――――――
「ぐっ…………ゥゥゥウウウウウッ!!!」
――――首を、落とされていた。
アーリヤは蹲り、首を失った体に抱きかかえられた頭部が憤怒の炎を目に宿している。
勝敗は明らかだった。
闇に体が紛れた好機を逃さず、先手を取ったのはアーリヤだった。
まず彼女は牽制に己の左腕を投げ付け、切り口から広がる闇で老剣士を補足しようとした。
老剣士はまず神速の抜き打ちで腕を切り払ったが、そこまではアーリヤの想定内だった。
刀を振り切った懐に飛び込み、頭部を破壊つもりだったのだ。
だが老剣士の動きは腕を切り払うだけでなく、アーリヤの跳躍に数瞬ずらしてほぼ同じ速さで後ろへ跳躍していたのである。
そして作られた空白の間。
無防備な首筋を白刃の下に晒したのはアーリヤの方だった。
老剣士は後方の木の幹を蹴って反転し、宙に浮いたアーリヤの首を返す刀で狙った。
交錯の瞬間、己の窮地を察したアーリヤは老人の首目掛けて腕を振るいながらも宙で体を猫のように捻った。
流れるような刃の軌道からスレスレで首筋を反らす。
しかし老人の太刀筋は狂わなかった。
神速の一閃は吸い込まれるように軌道を曲げてアーリヤの白い喉を追う。
しかも彼女と同じく宙に体を浮かせていながらの神業だった。
青白い刀身は鋼も通さぬアーリヤの肌をバターのように切り裂き、首を刎ねた。
それでも恐るべき不死者の腕は己の首を失ってなお獲物の首を求めたが、目算が狂った爪は胸を引き裂き刀を握る右腕をもぎ取るのみに留まった。
正しく刹那の出来事である。
だがアーリヤは再び立ち上がった。
己の首を抱えたまま。
「随分と勝ち誇っていらっしゃるようですが……
これで勝ったとでもお思いですか?
首が落ちた程度で戦闘不能になる粗悪品と一緒にしないで頂きたいですね」
「ええ、ええ……もちろんですとも。
お嬢さんはそこいらのボロ屋に等しい亡者どもとは別格でしょう。
貴女の主の御業は我が主に匹敵……いや、上回ってさえいます。
しかし」
老剣士は好々爺然とした笑みを浮かべてアーリヤを見下ろした。
「貴女は神殿で、私は砦であるのです」
アーリヤは一瞬、全ての怒りを喪失しかけて呆とした。
「何の……何を言って」
「お分かりにならないかな?
如何に石工の腕が優れていようとも、戦では神殿は砦に敵わぬのです。
加えて私はまだ剣を振るえますが、お嬢さんは首を落として隻腕となった身で何処まで私についてこれますかな?」
「……これで、終わりだとでも?」
アーリヤの殺気が膨らむ。
確かに首を絶たれた体は『内』にあるモノを押さえ込むので精一杯だ。
だが―――だがもし押さえ込まなければ―――
「なるほど神殿たる貴女の器に祀られしものは、我が身のそれとは比べ物になりますまい。
しかし我が刃で傷つけていて恐縮ですが……」
老剣士は梟のような笑い声を上げる。
「その美しい社を壊さずに『出て』来れますかな?」
その言葉がアーリヤの頭を猛烈に沸騰させた。
成す術が無いがゆえの怒りだった。
老剣士はそれすらも見越していたのだった。
「とは言え……臆病な私としましてもこれ以上貴女の如き凄まじき方の怒りを買うことは得策とは言えますまい。
一つ提案致しましょう」
老剣士はピンと人差し指を立ててみせる。
「ここはお互いに痛み分けとしてはどうですかな。
私はここで引きましょう。
お嬢さんも私を追わない」
「そんな戯言を聞けと?
そんな……」
「嫌ならば結構ですよ。
お好きになさい」
老剣士は全く無防備に振り向いて背中を晒した。
「できるものなら」
そして悠然と歩み去っていく。
アーリヤは砕けんばかりに歯を食いしばりながらそれを見送った。
見送らざるを得なかった。
首を落とされた体は溢れる物を押さえ込み、制御するだけで精一杯だったのだ。
確かにアーリヤはドロテーア伯爵夫人とその孫娘を守った。
結界更新の儀式を邪魔させなかった。
それでいて勝敗は明らかだった。
彼女は拳を地に打ち立てる。
自分は見逃されたのだ。
何より全てを見透かされていたのだ。
自分があの方を何よりも慕っていることを。
あの方から頂いたこの身が何より大切なことを。
あの方のためにこの場で何もかも台無しにするわけには行かないことを。
見透かされていた。
見透かされた上で、利用された!!!
アーリヤはいつしか冷たい群青色となっていた空へ絶叫した。
心の奥底を、あの方だけが触れられる部分を、土足で踏み荒らされた気分だ。
今晩アーリヤはある真実を知った。
この世で最大の屈辱の一つは、愛を人質に取られる事だ。
◆◇◆
少し前に時間は遡る。
グリムはドロテーアから借りた馬で竜骨山脈の麓までやってきた。
ささやかな小川の辺で下りると、馬は大人しく水を飲み始める。
辺りには丁度いい草も茂っていた。
賢い馬のようだから帰りまで待ってくれるだろう。
グリムは頂上を目指して山道を歩き始めた。
グリムは密かな体力自慢である。
毎日のアーリヤを担いでの迷宮マラソンで鍛えられた足腰は生半可な道のりでは音を上げない。
しかし流石にこの険しい山を日没までに登りきるのは苦行を通り越して無謀であった。
グリムは背の高い木が減ってきた辺りで岩場に腰を下ろす。
山道の脇には殆ど崖のような急斜面が上へ上へと伸びていた。
彼は皮袋から一口水を飲んだ後、指を口に含んで下手な口笛を吹いた。
ぴょひ~…と何とも間の抜けた笛の音が山彦を伴って山間に響き渡る。
すると暫くして近くの茂みからガサガサと音を立ててやってくるものがあった。
立ち木の間からぬっと顔を出したのは実に立派な白い牡鹿であった。
軍用馬にも劣らぬ体格に玄妙に絡み合う見事な角を生やし、体毛は全身雪のように白く目は良く磨かれた黒曜石のようだ。
グリムはヘラヘラと笑いながら鹿を眺めていたが突然殴られたようなびっくりした顔つきになった。
「そりゃねえよ!
これでも練習したんだぜ?」
牡鹿は黙って膝を曲げてしゃがみ込む。
グリムは「どうもすいやせんね、うへへ」などと卑屈な笑いを浮かべてその背に跨った。
そこへ、ぐん、といきなり牡鹿が立ち上がったものだから、危うく転げ落ちそうになったグリムは慌てて太い首にしがみ付く。
牡鹿はフンと大きく鼻息を吐いた。
「いや太ったんじゃない。そりゃ俺は甘党だが。
これは前の身体がダメになったからで…わっ」
グリムの独り言が終わらぬ内に牡鹿はびょいんと大きく跳ねた。
そして悲鳴を上げるグリムを乗せたまま、まるで壁の上でスキップするように急斜面を駆け上っていく。
目にも止まらぬ速さで崖を飛ぶ鹿は忍者の如しだ。
背中の上で喚かれる無様な悲鳴が途切れて喘ぎ声だけになった頃、牡鹿は竜骨山脈の尾根に立っていた。
「ひぃ……ひぃ……
流石に運搬は酷いやな」
牡鹿はドサッとグリムを振り落とした。
更に立派な角でグリムを小突き回す。
「あうっあうぅ
やめてくださいしんでしまいます。
すいません、ナマ言いました。
運んでもらったのは俺ですほんとすいません」
牡鹿はグリムを見下ろしてまたフンと大きな鼻息を吐く。
すると彼は穏やかに笑った。
「ありがとう。だが大丈夫さ。
光が消えたら迎えを頼むよ」
牡鹿は一度頷くように頭を下げた後、来たときと同じように軽やかに斜面を蹴って去って行った。
「お孫さん達によろしくねぇー」
グリムの間の抜けた声は、やはり山彦を伴って山間へ響き渡った。
◆◇◆
グリムは辺りを見回す。
古代帝国時代、竜骨山脈の尾根に築かれた砦はもはや所々に敷石が残るのみだ。
西を向けば沈みかかった夕日がリンドグレーンの街を赤く染めている。
東を向けば既に夜が忍び寄った闇色の森に無数の光る目が浮かんでいる。
グリムが立つ尾根は、正に『境』であった。
生と死、昼と夜、秩序と混沌……その『境』。
彼はそっと地面に埋まった石畳の一つを撫でた。
すると、なぞった指のあとに沿って淡い蛍色の魔術文様が浮かび上がる。
グリムはこれから起こる事に備えて目を瞑った。
彼は屋敷に残ったアーリヤを思う。
『イヤ』と言われた時は肝を潰したが、まさかその後でアーリヤが自分からグリム以外の誰かを守りたいと言ってくれるとは思わなかった。
嬉しかった。
これまでのアーリヤであったなら暗殺者の存在をわざと黙っていたかもしれない。
元々自分に責任があるのだが、アーリヤは決してドリーを快くは思っていなかっただろうから。
だからこそ嬉しかったのだ。
グリムは束の間、喜びに身を浸していた。
だが時間は待ってはくれない。
彼は目を開いた。
「偶には……『マスター殿』らしいところを見せなくちゃな。
アーリヤが思い切り自慢できるような、とびきりの『マスター殿』ぶりをね」
突然に結界が大きく揺らいだ。
継承の儀式が終わったのだ。
それに呼応して森の中に浮かぶ一万の光が蠢き始めた。
グリムは懐から仮面を取り出す。
神に呪われた不死なる仮面を。
「なぁ……ドリー。
相手が何であろうと、俺はお前を守るさ。
何度でも。
何度でもな」
被ると同時に虹の光が吹き上がる。
虹色の蛇をあしらった仮面。
空間の裂け目を握る様な漆黒の杖。
一点の染みも無い純白のローブ。
異形の仮面の魔術師グリム・レッドハートが現れた。
グリムは雄大なる竜の背骨に杖を突き立てる。
そして詠唱が始まった。
「“夜明けまでの夢でいい”
“お前を求める者がいる”
“去りゆく時は未だ全てを奪ってはいない”
“お前が生まれた理由を未だ覚えているのなら”
“今再び責務を果たす力を授けよう”」
渦巻く虹色の魔力の奔流。
一語ごとに嵐の如く激しさを増す中で結びの言葉が唱えられた。
「“在りし日の姿を取り戻せ”
“リビルド”」
閃光が走る。
虹の光は異形の魔術師を中心に左右へ放たれた。
虹色の光が一瞬の内に山脈の尾根を駆け巡った後、それは姿を取り戻した。
一分の隙も無く緻密に組み合わさった巨大な石垣。
その上に更に高く詰まれた白石レンガの城壁。
等間隔に建てられた天を突く様な尖塔。
七色の光を帯びた白く輝く長城が、竜骨山脈の尾根に途切れなく伸びていたのだった。
グリムはその城壁の上から悠然と闇の森を見下ろした。
「我が境を越えんとする彼方の者よ
此方の者の住処を狙うなかれ
その平穏を脅かすなかれ
我は七度倒れようと起き上がる」
その声は西に東に、その地に住まう生きとし生けるもの、死してなお死せぬもの、その全てに届いた。
誰もがその空に棚引くオーロラのように荘厳な七色の煌きを見ていた。
その恐ろしさに震え、目を奪われていた。
リンドグレーンの住人達も。
森の中のトロール達とゴブリン達も。
彼を物狂いと罵った伯爵家の娘も。
その命を狙い、ネズミのように逃れようとしていた兄も。
小高い丘にいた隻腕の老剣士も。
トロールの陣中にいたゴブリンの妖術師も。
しかし恐れを持って光を見つめる者ばかりではなかった。
病床に伏せる老婆は静かに涙を流しながら窓から差し込む虹色の光を見つめていた。
一万のトロールとゴブリンを引き連れてきたトロールの長は一瞬の当惑の後、歓喜と渇望に染まった貪欲な笑みを浮かべた。
首が胴から離れた少女は目元を赤く染め、今にも叫び出しそうな口元を固く結んで光が止むのを待っていた。
東の地平には青ざめた月が昇っている。
天上には凍て付いた星々が姿を現していた。
夜が来る。




