コミカライズ連載開始記念SS「黒い指輪」
『お兄さま、親愛なる、セルジュお兄さまへ。ずいぶん久しぶりにお手紙を差し上げます。長らく筆を執ることができずに申し訳ございません。そちらの暮らしはいかがでしょうか。星影の煌めきは、お兄さまのいらっしゃる世界にも届きますか。お兄さまがいっさいの苦痛のない、穏やかで美しい日々をお過ごしになっているように願っております。
わたしはまもなく、エリアスと結婚します。式はもう三ヶ月後に迫っております。結婚式のために、二年も前から準備を進めてまいりました。当日は、大勢の貴族たちを招いて、盛大な式を挙げるつもりです。わたしたちの晴れ舞台を、そちらの世界からお兄さまにもぜひ見守っていただきたいです。
エリアスとは、この十年でそれはそれは仲良くなりました。エリアスはわたしをいちばんに考えて、誰より深く愛してくれています。わたしたちはすっかりよい恋人同士です。自分で言うのもなんですが、きっと、王国一のおしどり夫婦として名を馳せると思います。エリアスがいれば、フォートリエ侯爵家もきっと安泰です。
でも、でもね、お兄さま。わたしときどき、エリアスが怖く見えるときがあるのです。それもこれも、わたしが至らぬせいなのですが、それでも息が、詰まるときがあるのです。お兄さま、ふつうの恋人はほんとうに、相手が異性と話しただけで首筋に夥しいほどのくちづけの跡を残すものでしょうか。温室に、一日じゅう閉じ込めて怯えさせるものでしょうか。
お兄さま、わたしほんとうはすこしだけ、ほんのすこしだけ、この結婚が怖いのです――』
「ココ? 入ってもいい?」
ノックの音のあとに、扉越しのくぐもった声が聞こえた。びくりと肩を跳ねさせた拍子に、書きかけの手紙の上でペンが滑ってしまう。便箋の上に、じわりと黒いインクが染みを作っていた。
「あ……エリアス、ええ、もちろんよ」
書きかけの手紙を伏せて、机の端によける。席を立ってくるりと体の向きを変えると、エリアスがちょうど入室してくるところだった。
「エリアス、おつかれさま。打ち合わせはもう終わったの?」
今日は結婚式の際に纏う衣装の最終確認の日だった。わたしとエリアスは別々の部屋に案内され、エリアスよりも何度か多く仕立て屋と顔を合わせていたわたしのほうが早く確認が終わったので、こうしてセルジュお兄さまに手紙を認めていたのだ。
このところは、結婚式の準備に追われ、空いた時間もエリアスと過ごしているせいで、こんなちょっとした時間を見つけなければ筆も持てない状態だった。だがそれも、途中で終わってしまった。インクの染みもできてしまったし、どのみち出せない手紙だ。
「ココは何をしていたの?」
甘い微笑みを浮かべて、エリアスはするりとわたしの腰に腕を回した。ふわりとハーブのような爽やかな香水の香りがする。セルジュお兄さまの匂いともよく似ていた。わたしの好きな香りだ。
「しばらくセルジュお兄さまにご挨拶できていなかったから、お手紙を書こうとしていたの」
「へえ、手紙」
美しく微笑んだまま、エリアスの瞳の奥にふっと翳りがさすのがわかった。わずかにまつ毛を伏せるようにして、わたしが書き損じた手紙の残骸を見つめている。わたしが「悪いこと」をしたときの反応とよく似た暗い表情に、あわてて彼を見上げて笑みを取り繕った。
「ねえ……せっかく時間があるのだし、お庭をお散歩するのはどう? リズにお願いして、お茶を用意してもらうのもいいわね」
目一杯明るく振る舞った私の声は、彼には届いていないようだった。エリアスは翳った瞳のままそっと私の手を取ると、手のひらを上に向けさせた。
気づかなかったが、左手の薬指に黒いインクが跳ねている。先ほどエリアスの訪れでペンを滑らせてしまったときに、インクが飛んだのだろう。ハンカチで拭こうにも、エリアスが左手を掴む力が強くて身じろぎできなかった。
「指輪みたいだね」
エリアスが、掠めるように薬指に触れた。確かにインクは指の根元で細い輪を描くように垂れていて、言われてみれば黒い指輪のようにも見える。
エリアスはわたしの薬指の根元に触れたかと思うと、強く擦るようにしてインクを拭った。薄く皮膚が剥けるようなひりひりとした痛みに、思わず眉をひそめる。手で拭っているせいで、インクは薄く伸びていくばかりだ。
「――ココは自分のものだとでも言いたいのか」
「え……?」
エリアスは掠れた声で、まるで吐き捨てるように呟いた。わたしに向けられた言葉ではない。
「エリアス――」
わたしが話しかけるより先に、彼はわたしをテーブルの上に座らせると、そのままくちづけてきた。愛情を確かめ合うような優しいものではない。何かを焦っているような、まるでわたしを繋ぎ止めようとするような性急なくちづけだった。
「ココはぼくの、ぼくだけのものだ。ね、そうだよね? ココ。きみもそれが嬉しいよね?」
至近距離で、翳った瞳が妖しい光を宿す。その言葉のあいだだけ息継ぎを許されたが、再び苦しいほどのくちづけが始まった。嫌ではないけれど、生理的な涙が滲んで視界がぼやけていく。
身じろぎした拍子に、指先に書き損じた手紙が触れた。それはひらひらと絨毯の上に落ちていく。
お兄さま、セルジュお兄さま。わたしわからないのです。このままで、わたしたちは大丈夫なのでしょうか。彼はほんとうに、幸せになれるのでしょうか。
胸もとで、セルジュお兄さまの形見のペンダントが揺れる。答えも救いの手も見つからないまま、わたしは今日も彼の歪んだ愛情を受け止めていた。
2026年8月25日よりマグコミさまでコミカライズ連載開始です!
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