最終話 ある令嬢が見届けた、幸福な御伽噺について
それは、雲一つなく晴れ渡ったある初夏の日のことだった。
その日、フォートリエ侯爵領の屋敷に遊びに来ていた私、ベアトリス・フォートリエは、このところ臥せっておられるお祖母様と一緒にお茶を飲もうと、お祖母様の寝室をノックした。
お祖母様――巷に言う聖女コレット様は、とてもお優しい方で、愛情深く、私の大好きなお祖母様だ。私の自慢の灰色の髪は、お祖母様とそっくりな色合いで、そのせいか私は仲の良い家族の中でも一層お祖母様に親しみを感じている。
お祖母様が聖女と言われる所以はいくつもあるが、やはり多くの人々の中で最も印象深いのは、大神官ルヴェルによって描かれた絵画「星鏡の誓い」の花嫁のモデルである、ということだろうか。
お祖母様とお祖父様の結婚式は、それはもう王国中を沸かせる大変な儀式となった。なんと、お二人の結婚式の最中に「星鏡の天使」が現れ、お二人の前に跪き、お二人を守ると誓ったらしいのだ。
貴族とはいえ、一介の人間が、天使に傅かれるなんて、まず、今までの歴史を遡っても例を見なかった。
お祖母様はその結婚式の前から、天使と共にいる姿がたびたび目撃されていたという、何とも神秘的なお方なのだが、その天使の加護をお祖父様も授かっていたなんて、ますます不思議な話だ。
当然ながら、お祖母様は思わずこちらが感激してしまうほどの敬虔な信者で、一日の終わりには星鏡の大樹へのお祈りを忘れなかった。「今日が今までの人生で一番幸せな日です」と毎晩胸を張って言えるお祖母様の生き方が眩しくて、私もお祖母様のように悔いのない毎日を歩もうと心に決めたものだ。
そんなお祖母様は、聖女として公的な行事に参加したりすることは無かったのだが、一つだけ、神殿に改革を起こしたことでも有名だ。
それは、長年続いていた悪しき風習である「生贄」の制度を廃止させたこと。聖女とまで呼ばれるお祖母様の力をもってしても、随分長くかかった改革だったが、お祖母様は一時も諦めることは無かったという。そしてそんなお祖母様を、お祖父様は献身的に支えていたという美談も有名だ。
そう、お祖母様とお祖父様は、稀に見るおしどり夫婦としても有名なのだ。結婚後間もなくして、私のお父様を始めとする三人の子供に恵まれたあとも、二人の愛は薄れるどころかますます深まっていったという。時折見ていて恥ずかしくなるくらいだった、とお父様は語っていた。
実際、私もこの目で見たことがあるからよく分かる。お祖母様とお祖父様は、時間が許す限りいつでもぴったりと寄り添い、庭を散歩していたり、星空を眺めていたりと、いつ見てもまるで恋人同士のような二人の世界を満喫しているようだった。
だが、そんなお祖父様も一月ほど前に病でこの世を去ってしまった。寿命を全うしたと言える年で、お祖母様を始め、家族に見守られながら息を引き取る安らかな最期だった。
お祖母様は三日ほど遠くを眺めるようにお祖父様の死を悼んでいたけれど、激しい悲しみに暮れている様子は見受けられなかった。恐らく、ご自分も直にお祖父様の元へ行くから、などと考えているのだろう。あの静かな眼差しを見ていれば、それくらい想像がつく。
それに、心配事はもう一つあった。
お祖父様がいなくなってしまった寝室は、今はお祖母様お一人で使用なさっているはずなのに、夜、時折楽し気な笑い声が聞こえてくるのだ。
不審に思って部屋を訪ねて見ても、当然そこにいるのはお祖母様一人だけ。お祖母様に至っては「どうかしたの?」と優し気な笑顔で問いかけてくる始末だ。
これには、家族一同不安になった。お祖母様はお祖父様を亡くされた衝撃で、少しお心を病まれてしまったのではないか、と。
お医者様に相談しても、記憶力にも認知能力にも問題はないと繰り返すばかりであてにならない。こうなったら、家族でお祖母様のお心をお慰めする他に無かった。
それ以来、かわるがわる家族がお祖母様の元を訪ねては、励ましたり、お茶会の約束をしたりしているのだが、お祖母様は静かに微笑んで「ありがとう」と繰り返すばかりだった。
その静けさに引き寄せられるようにして、この一週間ほど、お祖母様は体調を崩されている。お医者様が言うには風邪だということだったが、ご高齢であることを考えると油断はできない。栄養のある料理や果物を、食べきれないくらいに運ぶ毎日だ。
そんな中でも、お祖母様は葡萄を好んで召し上がる。多分、お祖父様の好きな果物だったから、お祖父様を懐かしんでおられるのだろう。
そう思い、お祖母様をお茶会に誘うがてら、私は葡萄を詰めた籠を手にしてお祖母様の寝室に向かっていた。お茶を準備する間にでも、つまんでいただければいいのだけれど。
お祖母様の寝室のドアをノックして、柔らかな返事が返ってくるのを待つ。手に持った籠からは、豊潤な葡萄の香りが漂っていた。
だが、しばらく待っても音沙汰がない。聞こえなかっただろうか、と、もう一度大きめにドアをノックする。
「お祖母様?」
お眠りになられているのだろうか、だとしたら邪魔をしてはいけないと思いつつも、このところ体調を崩されていることもあって、お姿だけは確認しておこう、と僅かにドアを開けて部屋の中を覗き込む。
「お祖母様? 入りますよ」
その言葉と共に寝室の中に足を踏み出した瞬間、私は信じられない光景を目の当たりにした。
一瞬、お祖父様かと思った。
そう、若い頃のお祖父様の肖像画によく似た青年が、部屋の中に佇んでいたのだ。
柔らかそうな白金の髪、目を見張るほどの整った目鼻立ち、優し気な横顔。どちらかと言えば少し冷たそうな印象を与えるお祖父様と雰囲気は違ったが、顔立ちはとてもよく似ていた。
何より私を驚かせたのは、その青年の背中に真っ白な翼が生えていたことだった。
青年は淡い紺碧の瞳で、ベッドの上で眠るお祖母様を静かに見つめていたが、私の登場に柔らかな微笑みを湛えながら、ゆっくりとこちらに視線を送る。
「っ……あなたは――」
ほとんど叫ぶように問いかけようとした瞬間、青年は長い人差し指を自身の唇に当て、意味ありげに微笑む。そのあまりの美しさに、思わず言葉を失ってしまった。
「静かに。ココは今、眠ったところなんだから」
青年は、再びゆったりと視線をお祖母様に向ける。その眼差しには慈愛が満ちていて、何となく、この青年がお祖母様の天使様なのではないかと直感した。
「……もう、エリアスと再会したころかな。あいつは意外に寂しがり屋だから、一月もココに放っておかれて案外拗ねているかもなあ」
この後が思いやられるよ、と青年はどこか愉しげに笑うと、静かに私と向き直った。
「……君は、ココの孫のベアトリスだね。驚いたなあ、君は若い頃のココにそっくりだよ。瞳が紺碧であることを除けば、生き写しみたいだ。よく言われない?」
「あ……髪は、お祖母様と同じ色だから……よく、言われます」
何だか緊張してしまって上手く話せない。青年はくすくすと笑いながら私と距離を詰め、そっと私の髪に触れた。
「そうだね、とても綺麗な色だ。……ベアトリス、君はこの色が好き?」
「はい! 自慢の髪ですわ!」
これだけは自信を持って言える。思わずはしゃぐような声を出せば、青年は慈しむように私を見下ろした。見かけの年齢は私とほとんど変わらないように見えるのに、その眼差しは不思議とお祖父様を彷彿とさせる、どこか懐かしいものだった。
「良かった、君がそう思ってくれていて。……ココの幸せの証は、この先もこうして繋がっていくんだね」
ねえ、ココ、と青年は眠るお祖母様に語りかけるように微笑んだ。とても穏やかで、優しい光景なのに、胸騒ぎがするのはなぜだろう。
「……ココもエリアスも、君たちのことをそれはもう愛していたよ。あの二人がこんなにも温かい家族を作り上げる様子を傍で見られた僕は、本当に幸せ者だ」
お祖母様とお祖父様が家族を愛していらっしゃったことは、誰より私たちがよく知っている。疑いようのない、包み込むようなどこまでも深い愛だった。
「……あなたは、お祖母様とお祖父様の天使様?」
「よく知ってるね、そうだよ。君の父君の名前は僕が名付けたんだ。父君の兄弟の名前もね」
天使様に名前を付けてもらっているなんて。それだけで、我が父ながら、何だかものすごく特別な存在のように思えてしまう。
「お祖父様とお祖母様と、とても仲がよろしいんですね」
「それはもう、ね。僕は彼らの『兄』だから」
意味ありげに笑った青年の表情は、やっぱりお祖父様によく似ていて、「兄」という言葉に何だか引っかかるものがあった。
そういえば、お祖父様には若い頃に亡くなられたお兄様がいらっしゃったんだっけ……。
詳しい事情は知らないけれど、目の前の青年を見ていると、不思議とその亡き大伯父様のことが思い浮かんできて、妙な気持ちになった。
「ああ、でも、そっか」
徐々に平常心を取り戻しつつある私は、天使様を見上げてふっと笑ってみせる。
「お祖母様が夜一人でお話になられていたように感じたのは、天使様とお話になっていたからなのね」
「ああ、そうだね。……そっか、エリアスが亡くなったのに、今までと同じように話していたら君たちは心配しただろうね。ごめんね、ベアトリス」
謝られるような話ではない。むしろ、尊敬するお祖母様がお心を病まれていないと確信できたのが嬉しかった。
「もう大丈夫ですわ。私が家族には上手く話しておきますから、今後もどうぞお気になさらずお話してくださいませ」
「……いや……その必要はないかな。ココは、もう……」
青年は酷く穏やかな眼差しで眠るお祖母様を見つめていたが、その横顔には哀愁や懐古の情など、複雑な想いが混ざり合っているようだった。
「さて、僕ももう行かなくちゃ。あんまり遅いと、エリアスには嫌味を言われるんだろうし、ココに心配をかけてしまう」
なんだかんだ言って、僕、好かれているよねえ、と笑う青年を横目に、私は先ほど感じた胸騒ぎが膨らんでいるのを感じた。ただ眠っているだけのはずのお祖母様の胸が動いていないような気がして、思わず私はお祖母様のベッドに駆け寄る。
「お祖母様……?」
触れた手は、温かい。でも、いつもは安らかに上下する胸が、微動だにしていないのを見てしまった。
衝撃を受ける私の後姿に、青年は優しく、心地の良い声音で語り掛ける。
「じゃあね、ベアトリス。この先もずっと末永く、幸せに生きるんだよ」
思わず青年の方を振り返ったその瞬間、彼の姿はすでにそこに無かった。
代わりにひらひらと舞い落ちる数枚の羽根だけが、確かにここに「星鏡の天使」がいたことの証明となっていた。
……そうか、あの人は、お祖母様をお祖父様のもとへ連れて行ってくださったのね。
思わず涙目になるのは致し方ないだろう。大好きなお祖母様のとのお別れなのだから。
だが、それ以上に私の心は何か温かいもので満たされているような気がしてならなかった。
お祖母様とお祖父様の幸せの証。それが、私たち家族だというのなら。
「……幸せになりますわ、お祖母様、お祖父様、天使様。それはもう、お祖母様にもお祖父様にも負けないくらい」
ぽたりと涙を流しながらも、私は安らかに眠るお祖母様の横顔に誓った。今頃、天使様に導かれてお祖父様と再会を果たしているのだろうか。
ハッピーエンドの続きは、天国で繰り広げられるのだろう。どこへ行ったって、あの三人は変わらないのだろうな、というくすぐったいような幸せの予感を感じながら、私はお祖母様の手を握りしめて窓から差し込む陽だまりを見つめた。
それは、とある二人の深い愛と、彼らを見守り続けた天使の、幸せな御伽噺を見届けた瞬間なのであった。
これにてこの物語はおしまいです!
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!
例のごとく、この最終話の公開日に新作の第一話を公開します。
新作のタイトルは「身代わり侯爵令嬢セレスティアの初恋」です!
私の作品にしては珍しくそこまで病んでいないすれ違いの恋愛ものですので、良ければそちらでまたお会いしましょう!