かわず、変わる
ヴィクター青年がミラコの街の大病院から退院して屋敷に戻ってから、早二週間が過ぎた。いまだ身体の動きはすっかり元通りではないにしろ、それでも順調に以前の状態に戻りつつある。精神的には入院期間中にはもう通常運転のヴィクター青年全開で、早く退院させろと医師に迫って、その度にわたしが叱りつけていた。
わたしはというと、あれ以来部屋にこもることを止め、少しずつだがまた外界と関わるようになった。と言っても、ヴィクター青年の入院中はずっとミラコの街に滞在していたため、個人的にはかなり外交的な生活をしていたと思う。――ほとんどを院内か宿で過ごしていたから、変化はほぼないと言われればそれまでだが。
ヴィクター青年と共に実家へと戻ってからは、まずは屋敷内できちんと家族と関わるようになった。使用人の名前もきちんと覚え、食事だってみんなでとる。この間の休日は、乗馬できるまで回復したヴィクター青年と一緒に、半日ほど馬を走らせたところにある彼の実家へと赴いた。怪我をしてからきちんとした報告が出来ていなかったため、それも含めて直接お会いするためだった。
自室にて彼の実家へと宛てた個人的な手紙をしたためていると、開け放った窓の向こうから、道場の門下生の掛け声が聞こえてきた。天高い太陽がやわらかい陽の光を机の上へ落としていて、手紙を書いているうちに大分時間が経っていたことを知る。
窓の枠に手をついて下をのぞきこむと、道場からはずれた中庭の片隅で、ヴィクター青年がひとり素振りをしていた。なんでまたそんなとこで、と考えたあとすぐに、彼の考えに思い至った。
彼は入院していた間に衰えた体力と、そして少し抜けてしまった肌の色をとみに気にしていた。道場は当然屋内にあるので、太陽光を浴びて鍛錬をすることができない。日に焼けた肌の色が好きな彼は、屋外でやれば、修行も出来るし、肌も焼けるしで一石二鳥だと考えたのだろう。現に彼は今、上半身裸である。他人の家の敷地内でやっていたら、即警邏隊にでも引き渡されてしまいそうだ。
「おーい、ヴィクター青年! あまり無理をするんじゃないぞ!」
窓の上から叫ぶと、すぐに彼はこちらを見上げて眩しそうに笑った。一体どれくらいの時間剣を振るっていたのか、全身汗だくだ。日陰もあるのに、わざわざサンサンと降りしきる太陽の元動きまわるなんて、酔狂にも程がある。
「リアンか! 心配すんなって! 今何してるんだ?」
「手紙を書いていたところだ。アルレリオ夫人に向けて」
「母さんに!?」
彼は驚いたように目を丸くした。ふふん、いつの間にそんなに仲良くなったのかと思っているのだろうな。男には分からぬ、年齢を超えた女の友情というのものが存在するのだ。
「何書いてるんだよ?」
「秘密だ! 大丈夫、心配しなくてもあんなことやこんなことはバラさぬぞ」
「なっ、そんなこと言われたら余計気になるじゃねぇか!」
彼は慌てたように窓の下まで駆け寄ってきた。しかし残念ながら、わたしの部屋は二階に位置しているので手紙の中身をすぐに検めることはできない。
見上げる彼の瞳に色濃く映る疑念に、人間、どんな者であっても、いつまでも母には弱いものだなと思う。わたしとて、過去も今もそして未来も、きっとそうなんだろう。
「ふふ、冗談だ。それよりヴィクター青年、休憩にしないか? 母上がケシャジャ公国のお土産だとかいうお菓子をくださったんだ。一緒に食べよう」
「おお、いいなそれ、食べたい。お前の部屋に行けばいいか?」
その問いにうなずくと、彼は「汗流してから行くわ」と告げた。いそいそと中庭から消えた彼を見送ってからわたしも席に戻り、再び筆をとった。アルレリオ夫人に伝えたいことはたくさんある。彼女には、この間お会いした時に一瞬でわたしの想いが見破られてしまった。「女のカンよ、カン」と心底楽しそうに言った彼女だったが、わたしとしては、そんなにわたしは分かりやすいだろうかとむしろ不安をあおられた。
応援すると約束してくださったことへの感謝と、彼に関する秘密の話を手紙に記していく。何でだか、こんなに気恥ずかしい手紙を書くのは初めてのことだった。
「髪濡れてるじゃないか。これで拭いておけ」
「おっ、ありがと。わりぃな」
十数分後、ありえない速度でわたしの部屋を訪れた彼は、さっぱりした様子で当たり前だがきちんと服も着ていた。濡れた髪をそのままにする癖は相変わらず抜けていないらしい。タオルを差し出すと素直に受け取って髪を拭い始めた。
落ち着いてから向かい合って席につき、自ずから淹れたお茶をたしなみながら、公国の土産を一緒につまむ。
「……香辛料の香りが強いな」
「うん、まずくもねえけどうまくもねえ」
バッサリと切り捨てる彼には呆れを通り越して敬服する。これくらい物事に単純でいられたら、きっと非常に楽なんだろう。
二人とも同じタイミングで紅茶を口にする。それに気付いて目線を交差させ、そして二人してくすりと笑った。
「ところでさ、リアン」
「なんだ?」
「お前、俺が元気になったら話したいことあるって言ってなかったか?」
もう一口、と口にした紅茶をぶはっと思わず吹き出してしまうところだった。おかげで変に器官に入ってしまった紅茶にむせ、ごほごほと咳をする。どうしようもなく苦しい。しかも、考えてみるとかなりまずい話題だ。
「お、おい、大丈夫か?」
「へ、平気だ……」
ごほごほとしばらくむせていると、ようやく落ち着いてきた。自然と出た涙を拭って恨めしく彼を睨む。
「何か……ごめん」
「全くだ」
憮然ともう一口紅茶を飲んだ。今度は気をつけて。この紅茶は冷めてもおいしいから好きだ。さわやかな柑橘系の香りが口の中に広がる。
「でも、お前話したいことって……」
彼が納得行かないように再度呟く。わたしはそれを無言を貫くことによって黙殺した。確かに、ある。ずっとずっと言いたかったことがある。今だって胸の内に確かにくすぶっている。だけど――。
(いざとなると、やっぱり言えないだろ)
あの時、弱り切った彼を目の前にするとわたしの口も滑らかだったのだ。しかし、普段の彼に戻ってしまった今ではやはり先に皮肉の方が口を付いてしまい、結局言いたいことも言えなくなってしまう。
「あれは……まだ、いい」
「はあ? じゃあいつ言うんだよ」
「……いつか」
結局わたしは臆病者のままだった。彼ならきっと待ってくれるという信頼があるから、臆病な自分を許容してそこに甘んじてしまう。このままじゃいけないのに、少しずつしか前へと進めない弱虫だ。
「なんだそれ。……じゃあ、今日は俺からお前に言いたいことを言うぞ」
「……なんだ?」
そう言うと、ヴィクター青年は立ち上がってわたしの元へと近付いてきた。わたしが不思議に思って見つめていると、彼はふっと笑ってわたしの手を取った。そして勢い良く上へと引き寄せると、そのままわたしを立たせ、共に部屋の中央へと移動する。なんだ、とわたしが混乱のさなかにいると、突然彼がわたしの前にひざまずいた。
「――リアニール・フォンセスタ嬢、僕と結婚していただけますか?」
「……え」
突然のことに頭が付いていかない。目を見開いて彼の顔をまじまじと見ると、彼はより一層笑みを深めてわたしを見つめてくる。いつもは優しい茶色の瞳が、今はいたずらっぽく光っている。
ふいに、彼がわたしの左手を取り、手の甲にキスを落とした。その瞬間、体中の熱が顔に集まってきたかのように顔が熱くなる。火照っているのが自分でもわかるくらいだ。心臓が爆発しそうなくらいドクドクと音を立てて暴れだす。
(なっ、なっ――なんなんだ!?)
思わず手を引っ込めようとするが、あいにくと彼の力は強く叶わなかった。その動きに気付いたのか、はたまたわたしの血流の激しさに気付いたのか、彼が面白そうにこちらを見上げた。さっきよりもいたずらっぽさが増している。――こいつ、この状況を楽しんでる!
「――お返事は?」
もう、逃げ場がない。手を振り払って逃げることも出来るだろうが、先ほどから足まで震えて到底走り出せそうもない。ごまかしようもない程、顔は熱いし鼓動は速い。手の震えが彼に伝わっていないわけがないのだ。
(なんで、こんな簡単に……こっちの苦労も知らないで)
わたしはずっと悩んでたのに、こんなにもあっさりと、しかも告白じゃなくて結婚だって? 信じられない飛躍だ。――彼もわたしのことを好きでいてくれたってこと自体、信じられないのに。
だって、普通に考えたって、こんな外見にも内面にもひとつも取り柄がない女に求婚だなんて、冗談だろう?
両想い、だったなんて。信じがたい。けれど、わたしは彼が絶対にわたしに嘘をつかないでいてくれることをよく知っているから、否定ができない。いつだって真正面からぶつかってくれるから、疑問をはさむ必要なんてなくて。
(どうしよう……でも、嬉しい)
わたしはどうしようもない奴だ。自分に対してすら素直になれないところを変えようと、せめて彼に関することだけは、ありのままを受け容れようと決めたではないか。ここで照れてばかりいては駄目なのだ。憤りなんて、そんなのわたしの本来の感情じゃない。
しかしながら、返事を言葉にする勇気はもう残っていなかった。元々人と触れ合うのが苦手なのに、もう何もかもが限界だ。
だから、わたしはせめてもの意趣返しにと、そっと右手を彼の頬にそえて身体をかがめ、わたしの精一杯のキスをした。
くちびるが触れ合うだけの、初歩的なキス。暖かくて柔らかいそれに、心がふるえる。
彼から身を離し、まぶたを開けると彼が目を丸くしていた。大成功だ。やられたらやり返すがわたし達のやり方だろう?
「っくそ……やられた」
彼はそうぼやくと、突然握ったままのわたしの左手を引っ張った。衝撃にわたしがよろめいて倒れこむと、彼がそれをやさしく受け止めた。自然と、わたし達は膝立ちで抱き合った形になる。
「……やべえ、すげー嬉しい」
彼がわたしの髪に顔を埋めてそう呟く。耳元に直接低音が吹き込まれて身体が震えた。こんな刺激は心臓に悪すぎる。しかし、ずっと欲しかったぬくもりが直接身体に流れ込んできて、何かが満たされていくのを感じた。彼の肩にあごを乗せると、ほのかに土の香りがした。
「うるさい。結婚するとは、言ってないぞ」
「……ってことは?」
(――墓穴掘った)
あくまでわたしに言わせたいらしい。もしやわたしの“言いたいこと”を理解していたな。何て性格の悪い。読心の心得があるんじゃないかとつくづく思う。
こうなってしまっては、仕方がない。運良く、この体制なら彼に顔を見られることもないし、大分言いたいことが言いやすくなった。
彼の背に腕を回し、ぎゅっと抱きついてささやく。
「ヴィクター、好きだ。ずっと……わたしを見守っててくれて、ありがとう」
――夢の中でも、現実でも。
ずっと、ずうっと憧れてて好きでたまらなくて、その姿を追いかけてきて、わたしは今生きているんだ。そのことをあなたは知らないだろうけれど、そして恥ずかしいからもうきっと言えないけれど、わたしは本当に感謝しているんだ。
あなたとなら、息苦しいばかりだと感じていたこの世界を、今度は新たな気持ちで歩んでいけると思うんだ。色々な失敗を繰り返してきて、自分勝手な考えで周りの人と共に歩めなかったわたしを、いまいちど、陽の当たる場所へと連れ出して欲しい。わたしに、勇気と、その機会を。
今はまだちっぽけなわたしの、精一杯の小さな告白を聞き届けて、彼はぎゅうっとわたしを抱きしめてくれた。
終わり
眠れるなんちゃらのなんちゃらら、お読みいただき、ありがとうございました。
軽い気持ちで冒頭のことわざをぼやく女の子の話を軽くサクッと書きたいと思ったら、なぜか想像のはるか遠くをいく長さになってしまったシリーズ。
私自身の当分の目標は、「短編を書くこと」。
物語について少しだけ補足。
リアンは両親にとても愛されています。基本口下手しかあの一家にはいないので、ああいった誤解をし合ったまま過ごしていました。
ヴィクターの助けがなければ、結局そのまま疎遠になる可能性もあったでしょう。
そして、ヴィクターが毎日リアンの部屋を訪れていたのは、父の命令があったからではありません。そんなものはそもそもありませんでした。
似非父親病のリアン父は、“娘に反抗される父”を演じるのに必死です。
登場人物はみな、基本不器用、です。
あとがきまで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございました。