かわず、焦る
母にヴィクター青年の任務先を聞いてから数時間後、わたしは馬車にゆられて中心街を遠く離れた舗装されていない砂利道を行っていた。ガタガタとゆれは酷くなる一方で、荷に大量に積まれていた枕がなければ、とうにお尻が限界を迎えていただろうことは想像に難くない。
することがないと、人間がやることといえば、たいてい思考の海に沈むか、眠りにつくかのどちらかだ。今までのわたしなら迷わず後者を選び、とうの昔にはるか夢の底へと落ちていたことだろう。
だがどうしたことか、今のわたしには一向に睡魔が訪れず、また眠りたいとも思わなかった。真実に気付いた今ならば、それも当たり前のことなのかもしれない。
夢は確かに夢であった。現実にはない甘さに、絶対に裏切ることのない確かな環境。信じるものが救われる世界において、わたしは現実で生きていくための安らぎを常に求め、そして享受してきた。
(あれは、わたしの願望だったのか)
“彼”の存在も、そして目覚めたときにはすべてを忘れてしまっていることさえも。すべてが現実にはないモノを求めて、わたしが創り出した幻想だったのだ。わたしはそれに気付いていた。気付いているわたしと、気付きたくないわたし。どちらもが真実、わたし自身だった。
夢がわたしの生み出したモノだったとしたならば、何だか腑に落ちない部分もあったような気もするのだがそれがどんな違和感だったのかもはっきりとは思い出せない。恐らくそこまで重要ではなかったのだろう。
臆病者なわたしらしい結論だ。すべてを受け入れてしまえば簡単だった。“彼”の言葉はすなわち、わたし自身がもうそろそろ終わりにしなければいけないと思っている証拠。夢にさとされて現実で行動に移すだなんて、どんな皮肉だというのだろう。
(決着を、つけよう)
長かった井戸の中の生活は、もう終わりにしなければいけない。
家を飛び出したのが一般的な朝食の時刻だったというのに、ゴトゴトと絶え間なく揺れていた馬車がトルキオ山から半日ほど離れたところに位置する村へと着いた頃には、もう大分日も傾いて山のきわを赤く染め上げていた。
父とヴィクター青年の一行の野営地はここから更に山へと入ったところにある集落の一角にあるらしく、とりあえず今日のところはここで宿を取って休むこととなった。
迷惑千万の急ごしらえの旅にも関わらず、父の剣術道場の門下生で来年から王立の騎士養成学校に入学を決めている腕利きの二人が護衛として、、世話係としてターニャまでついてきてくれた。何も言わずにすべての準備を整えてくれた母とこの三人には本当に頭が上がらない。
(家に帰ったら、母上ときちんと話をしようかな)
ヴィクター青年の言うとおり、母とわたしはお互いに勘違いし合っているのかもしれない。二人の間にずっと存在し、日に日に深さを増していく溝に、怯えているだけではいけない。いつかはそれを飛び越えて、歩み寄れるようになるべきなのだろう。最初は、ヴィクター青年に協力をお願いして三人か、それか父も交えて四人で話せばいい。徐々にでも、母の考えを理解したいと思う。母が近寄ってこないのならば、“娘”のわたしが無理にでも近づけばいい。
夜の帳も下り、二部屋を借りてそこに各々荷物を置いてしばし休憩したあと、わたし達は宿の食堂でご飯を食べた。久々に屋敷の部屋の外で食べるご飯を、まさかこんな場所で、しかもこんな面々で囲むことになるとは思いもよらなかった。
広々とした食堂は、橙の明かりが木造の部屋によく合っていて、暖かな田舎の雰囲気を醸し出していた。出てくる料理も、庶民的なものながらしっかりと美味しい。コーンスープに固めのパン、野菜が多めの蒸し料理と、やはり農地らしい緑の多さだ。わたしにとっては幸運だが、騎士二人は肉料理が少ないことが少し残念なようだった。
久方ぶりのきちんとした夕ご飯は、何だかわたしを感動させるものだった。本来の甘みが強く感じられる蒸したキャベツをゆっくりと噛みながら、わたしは旅人や地域住民で賑わった食堂の喧騒を背景に、誰かと話をして食事をする心地よさに浸っていた。ずっと忘れていた感覚に胸が震える。笑顔でわたしに話しかけてくれる三人の顔を、直視することが出来なかった。
お腹も心も満たされて、しばし食堂で色々な人と話をした。隅に置いてあるピアノでターニャが演奏し、それに合わせて近所の住民だという恰幅のいい陽気なおじいさんがギターを弾き、誰かが歌い出す。正直に言って、とてつもなく楽しい時間だった。終始笑いの絶えない食堂に、自然とわたしも笑顔になっていた。
やがて、いつもならとうに寝ている時間となってしまい、馬車移動の疲れもあったことからわたし達は部屋に引き上げることになった。同室となるターニャは、父上たちに関して情報収集出来たと言ってわたしにその成果を話し始めた。
やがて、ターニャと屋敷の使用人に関するうわさ話をしている内に自然とまぶたが落ち、気付いたらわたしは寝入ってしまっていた。
もう、“彼”の夢を見ることはなかった。
翌朝、まだ日も昇っておらず、世界が静粛な青さに包まれているころ、一階から響くざわめきにわたしは目を覚ました。窓から差し込む青い光を頼りに、そっとベッドを降りて床に耳をつけた。抑えたような声ではあるが、明らかに数人が話し合っている。時折焦ったような様子で問いかける声が聞こえる。こんな朝に、一体何だと言うのだろう。
ターニャの方を見ると、まだ彼女はぐっすりと眠っていた。のんびり屋の彼女は、きっとわたしがここで歌い出しても起きないだろう。
物音を立てないように、静かに移動して服を着替え、わたしはゆっくりと部屋を出た。案の定、筋肉痛で身体のそこかしこが痛いが気にしていられない。二階の突き当りにある護衛二人組の部屋の方を見やるが、彼らもまた出てくるはずもないので気にしないで階段の方へ向かう。階段に近付くにつれて、話し声が大きく聞こえてくる。どうやら男性数名と女将さんが食堂のカウンターあたりで話しているようだ。
「――さっき旦那がミラコの街へ買い出しに言ったばっかりなのさ。昼前には帰るはずだよ」
「ってことはまだ近くにいんだろ!? 呼び戻せねえだか?」
「そんなの無理に決まってんだろう! もうモントのあたりまでは行っちゃってるはずさね」
「おめぇ、人の命がかかってんだど! んなこと言ってる場合か!」
段々と荒々しくなるやりとりに、思わず足が止まった。階段がギィと音を立てるが、向こうはこちらに気付くふしもない。
(――人の命?)
「そりゃそうだけど……でもそりゃあ無理だよアンタ。そんなに急ぐのかい? どのくらいの容態なのさ」
「詳しくは知らねえが、大分酷くやられちまったらしい。意識があるんだかないんだかってさ」
「あらま……そりゃ早くしないとだね。馬車くらい持ってるもん他にいなかったかい?」
「ダガーんとこも駄目だった。ありゃちょっと小せぇんだ、何人も乗せられるもんじゃねえ。キリクんとこは今カイゼフが訊きに行ってるが、駄目だろうな。あいつはけちんぼだかんな」
「ううん、協力してやりたいけどねえ、でもやっぱし……」
声が急激に小さくなり、やがて沈黙が落ちた。絶望の空気が重く広がっていく。
人の命と、馬車。それが示すことって、そんなの一つしかない。わたしは再びゆっくりと階段を降りて食堂へと歩みを進めた。すると、突然興奮した男の声が上がった。
「あっ! そうだ、昨日ここに来てたお客人が持ってなかっただか!? あの身なりの良いべっぴんなねーちゃん!」
「えっ、ああ、あの小奇麗な子ね。何だかよく分からない四人組の……。そういえば馬車に乗ってきてたなあ。裏にとめてあるはずさね。……でもまだみな寝ちまってるよ」
食堂に入ると、やはりカウンターの近くで顔を寄せあって三人の男女が話をしていた。わたしの位置から割烹着をまとった恰幅のいい女将さんが見えるが、彼女はこちらに気付いていないようだった。わたしが至った結論と同じように、彼らもまたわたし達一行の存在に気付いたようだった。この辺境になかなかいない身なりの良さと、妙な面々は想像以上に人々の目を引いていたらしい。
「わたしの馬車を使ってください」
声を掛けると、弾かれたように彼らはわたしの方を振り向いた。近付いていくと、女将さんが口を開いた。
「……おはようさん。話、聞こえちゃったかい。ごめんなさいね、起こしちゃって」
「いいえ、構いません。それよりも、早く行ってあげてください。その方はまだ助かるのでしょう?」
「たぶんね……だけどいいのかいお嬢ちゃん。あんな立派な馬車使っちまって」
「構いません。人の命には代えられませんから」
「悪いね、こいつらも乗るけどいいかい?」
その問いに「はい」と答えて二人を見ると、ようやく彼らは笑顔になった。どこか緊張の拭えない笑みだが、とりあえず希望の綱はつながった。馬車の使い方を教えるために、宿の外に一緒に出た。もう大分明るくなってきて、足元も見やすい。少し気になったので、一応首を突っ込みすぎない程度に、患者について伺うことにした。
「ああ、トルキオ山の方でな、山賊退治の特務に付いてくだすってる騎士様なんだ。あんまこの地方は栄えてねえだが、山ぁ超えたら国境ってんで、向こうの国さんのもんも加わってる、何やら怪しい山賊組織らしくてなあ。国からの要請があったんだと。最近でも――」
「――名前は?」
「え?」
「その方の、名前は……?」
「なんつったかなあ。一回しか聞いてないもんでちょっとな……。なかなか良い顔しとった。確か、“ト”とか“キ”とか……」
「“ヴィクター・アルレリオ”?」
わたしの問いに、「ソレだ!」と手を打つおじさんの顔を見たまま、わたしはしばし硬直してしまった。「有名人だか?」と訊くその声が遠い。ぞわりと頭から血が下がって、手足が急激に冷えていく。先を歩くおじさん達にふらふらとついていき、馬車の手前で足を止めた。
「――わたしも、行きます。馬車、動かせますから。案内してください」