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間話5: 緋色の王子の独白

王宮の最上階、夜の静寂が支配する最高法官執務室。

 ディートリヒ・フォン・アルスハインは、執務机の上に広げられた一通の報告書――バルツァー帝国との暫定通商合意書――を、幾度目か分からぬほど読み返していた。


その文面は、あまりにも「メルセデス・フォン・ベルンハルト」そのものだった。

 帝国という強欲な巨人を相手にしながら、一切の譲歩をせず、それでいて相手に「損をさせた」と思わせない完璧な論理。魔力結晶という力を盾にするのではなく、それを共通の利益という鎖に変えて、国境を越えた均衡を創り出している。


「……君は、またしても私の想像を超えていったな、メルセデス」


ディートリヒは、羽ペンを置いて深く椅子に背を預けた。

 彼女が『最果ての砂漠』へ向かったあの日、国境で見送った際の彼女の瞳を思い出す。

 あの時、彼は王子としての理性をかなぐり捨ててでも、彼女を抱き止め、この王宮の深奥に匿いたいという衝動に駆られていた。


バルツァー帝国のカトリーナ皇女。

 彼女が「鋼の薔薇」として他国を蹂躙してきた冷徹な合理主義者であることを、ディートリヒは熟知していた。その魔の手が、まだ王都で基盤を固めたばかりのメルセデスに伸びたとき、彼は自らの無力さに、これまでにない憤りを感じたのだ。


「法を司り、国を護る立場の私が、結局は君に護られている」


ディートリヒは、机の引き出しから一振りの短剣を取り出した。

 彼女が砂漠から無事に戻り、王都の門をくぐったその日。彼女は一分の傷もなく、この「守護の短剣」を彼に返却した。

 

『お陰様で、命を拾いましたわ、殿下。……この恩は、次回の関税交渉の際に、王国に有利な条件を提示することで清算させていただきます』


そう告げた彼女の声には、一点の揺らぎもなかった。

 再会を喜ぶ言葉でもなく、死線を越えた恐怖の吐露でもなく、最初に出たのは「対価」の話。

 それが彼女という人間であり、ディートリヒが最も惹かれ、そして最も苦しめられている部分でもあった。


ディートリヒは短剣を握りしめ、目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、かつてベルンハルト伯爵家のパーティーで、周囲から「冷血な事務人形」と嘲笑われていた頃の彼女だ。

 あの頃の彼女は、自分を囲う檻のような環境の中で、ただ静かに天秤の支柱を磨き続けていた。誰も彼女の価値に気づかず、誰も彼女の献身を評価しなかった。


それを、あの愚かな元婚約者と妹が壊した。

 だが、その破壊こそが、彼女という「黄金」を内包した原石を砕き、その中から比類なき輝きを解き放ったのだ。


「私は……、あの日からずっと、君をこの手の中に閉じ込めておきたかったのかもしれない」


ディートリヒの呟きは、誰にも届かぬまま室内に溶けていった。

 彼は王子として、常に「国にとっての価値」を計るように育てられてきた。

 どの家門と結びつくのが王家にとって得か。どの法案が民を統制するのに有効か。

 

 だが、メルセデス・フォン・ベルンハルトという令嬢だけは、彼のどの計算式にも当てはまらなかった。

 彼女は誰の所有物にもならず、誰の庇護も求めない。

 ただ、自らの天秤を信じ、自らの価値を定義する。

 

 そんな彼女を愛することは、猛吹雪の中、一筋の光を追いかけるようなものだ。

 手を伸ばせば、その熱で光は消えてしまう。

 追いかけるのをやめれば、暗闇に飲み込まれてしまう。


「君との関係を、私はどう定義すればいい? パートナーか、共犯者か……、それとも、ただの『取引相手』か」


ディートリヒは、再び机に向かい、一枚の白紙を広げた。

 彼はこれまで、彼女に対して常に「王子」として接してきた。

 王家の利権を保障し、法的な後ろ盾となり、彼女の事業が円滑に進むよう根回しをする。

 それは彼女にとって、最も「利がある」振る舞いだと信じていたからだ。


だが、砂漠から戻った彼女の姿を見て、彼は気づいてしまった。

 彼女はもはや、王家の庇護など必要としていない。

 彼女は帝国を「顧客」に変え、砂漠の心臓部を「財布」に変えた。

 今や、王国の未来こそが、彼女という天秤の上に載せられた「商品」に過ぎないのだ。


ディートリヒは、慣れない手つきでペンを走らせる。

 それは、公式な親書でも、事務的な連絡でもない。


『メルセデス。

 君が砂漠で何を見たのか、私には想像もつかない。

 ただ、君が戻ってきた日の夕暮れ、君の瞳に宿っていた黄金の光は、王都のどの魔導灯よりも美しかった。

 私は君を、一国の重要人物として守りたいのではない。

 ただ、君が明日も笑い(たとえそれが冷徹な商談の笑みであっても)、君の天秤が君自身の幸福を正しく計ることを願っている。

 君に借りを返されるのは、正直に言えば心苦しい。

 恩を恩のままにしておくことは、君にとっては不快な不均衡なのだろうか。

 だとしたら、その利息として、次のティータイムでは仕事の話を一切しないという『無駄な時間』を私に売ってくれないか』


そこまで書いて、ディートリヒは自嘲気味に笑った。

 こんな手紙を、彼女がまともに受け取るはずがない。

 彼女なら、きっとこう言うだろう。

『殿下。時間の価値を放棄することは、機会損失を招きます。私のティータイムには、それ相応のコンサルティング費用が含まれているとお考えください』


ディートリヒは、書き上げたばかりの手紙を丁寧に折り畳み、ロウソクの炎に翳した。

 オレンジ色の炎が紙の端を舐め、彼の秘めたる想いを灰へと変えていく。

 

 彼は知っている。

 メルセデスは、感情という「不確定要素」を極端に嫌う。

 彼女に想いを告げることは、彼女の完璧な均衡を乱す「ノイズ」になることだ。

 彼女を本当に大切に思うのなら、彼は彼女の隣で、最も静かで、最も揺るぎない「支点」であり続けるべきなのだ。


「……今は、これでいい」


ディートリヒは立ち上がり、窓を開けた。

 夜風が緋色の髪を揺らす。

 階下の街並みには、メルセデスが創り出した青白い光が脈動している。

 

 その光は、彼女そのものだ。

 冷たくて、透き通っていて、けれど世界を確実に変えていく力強さ。


「君がこの国をどこまで連れて行くのか、私は最後まで見届けよう。……そして、君がいつか、天秤を置いて疲れたとき。その時こそ、私は王子としてではなく、ただの男として、君に割に合わない愛を提示しよう」


ディートリヒは、灰となった手紙の残骸を風に散らした。

 

 彼の胸の内に燃える情熱は、決して天秤には載らない。

 それは、対価を求めず、ただ与えることだけで完結する、メルセデスの理論から最も遠い場所にある価値。

 

 最高法官の執務室に、再び静寂が戻る。

 ディートリヒは、明日また「最高のパートナー」として彼女の前に立つために、再び机の上の山積みの書類へと手を伸ばした。

 

 彼女の歩む道に、光あれ。

 そして、その光がいつか、彼の孤独な祈りに応えてくれることを願って。

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