第23話:最果ての契約者
月光に照らされた砂漠は、死の静寂と、息を呑むような美しさが同居する異界であった。
地下水路の激流に流され、砂の斜面へと打ち上げられたメルセデスは、濡れた髪をかき上げながら立ち上がった。背後では、脱出の際に崩落した水路の入り口が完全に砂に埋もれ、帝国の追っ手を一時的に遮断している。
「……お怪我はございませんか、お嬢様」
すぐ傍らで、セバスチャンが自身の衣服の水を絞りながら、影のように寄り添った。彼の呼吸は一切乱れていない。この極限状態において、その変わらぬ忠誠心と冷静さは、メルセデスにとって何よりも心強い「資産」だった。
「ええ、大丈夫よ。ディートリヒ殿下の短剣が、衝撃を和らげてくれたみたい」
メルセデスは腰の短剣に触れた。王家の守護石が淡く明滅し、役目を果たしたと言わぬばかりに静まっていく。彼女はそのまま視線を前方へと向けた。
そこには、地平線の彼方まで続く銀色の砂丘と、夜空を支配する巨大な星々の群れがあった。そして、その砂の海の中心に、まるで蜃気楼のように揺らめく「黒い塔」がそびえ立っていた。
「あれが……母の言っていた『星の観測所』。最果ての地の入り口ね」
「これより先は、地図も道もございません。ただ、お嬢様の『直感』と、あの方との契約が導く場所へ行くしかございませんな」
二人は歩き出した。一歩ごとに足が砂に沈み、体力が削られていく。王都の舗装された道を歩いていた頃とは比べ物にならない苦行だ。しかし、メルセデスの瞳には、かつてないほどの輝きが宿っていた。
彼女は理解していた。カトリーナ皇女が「鋼の法」で奪おうとしているのは、この過酷な環境を支配する力だ。だが、支配とは対象を屈服させることではない。対象の持つ価値を正しく理解し、それと同等の対価を支払うことで、世界の理の一部になることなのだ。
数時間の行軍の末、二人はその「黒い塔」の麓に辿り着いた。
塔は石造りではなく、まるで巨大な黒い結晶が地中から生えてきたかのような、不気味な光沢を放っている。その入り口には、一人の男が立っていた。
男は、肌を露出させない砂漠民の衣装を纏っていたが、その手には、メルセデスが見覚えのある「天秤」の紋章が刻まれた杖が握られていた。
「……止まれ、異邦の契約者よ」
男の声は、風が砂を噛むような響きを持っていた。
「この地は、価値を持たぬ者が踏み入れば、魂ごと砂に還る聖域。お前が持つ『黄金の輝き』は、ただの欲か、それとも救いか」
メルセデスは一歩前に出た。彼女はあえてセバスチャンを後ろに留め、一人の商売人として、男と対峙した。
「私は、どちらも持ち合わせておりません。私が持っているのは、過去の過ちを正し、未来の価値を確定させるための『対価』だけです。……二十年前、エルザ・フォン・ベルンハルトが結び、未完のまま残された契約。その残債を、私が支払いに来ました」
男の瞳が、ヴェールの奥で鋭く光った。
「エルザの娘か……。あのおなごは、砂漠の心臓部に触れながら、それを王国の利権という名の鎖に繋ぐことを拒んだ。結果、彼女は富を失い、家を追われ、その知性を呪われながら死んだ。……お前も、同じ道を歩むつもりか?」
「いいえ。母は、あまりにも優しすぎたのです」
メルセデスは、懐から「オアシス・ラピス」の老人から受け取った砂時計を取り出した。
「母は均衡を守るために自分を犠牲にしましたが、私は違います。私は、私を脅かす者からすべてを奪い、私を助ける者に正当な報酬を与える。……この砂漠に眠る原石の価値を、私は『帝国を退けるための盾』として買い取ります。その代価として、あなたたち『星を読む一族』に、王国の保護と、永遠に枯れぬ『水と叡智』の循環を約束しましょう」
「水と叡智……。言葉だけならば、帝国も同じことを言った。だが、奴らの天秤は常に自分の方に重りを隠している。お前の誠実さは、何で証明する?」
メルセデスは、迷わず自分の左手を差し出した。
そこには、かつて「等価交換の誓約」が刻まれていた痕跡がある。彼女は自らの魔力を集中させ、その紋章を一時的に浮かび上がらせた。
「私の命。……もし私が契約を違えれば、私の魔力は結晶化し、この砂漠の一部となる。私は自分の存在そのものを担保に、この商談を申し込んでいます。――これが、私の誠実さの証明です」
静寂が流れた。風が止まり、星々の光が黒い塔に反射して、複雑な幾何学模様を描き出す。
男はゆっくりと杖を下ろした。
「……良いだろう。その覚悟、砂漠の星々が聞き届けた。エルザの娘よ、お前を『心臓部』へと案内しよう。だが、忘れるな。帝国はすぐそこまで来ている。奴らは砂漠を愛してはいないが、砂漠を壊す術は持っている」
塔の入り口が開き、内部から眩いばかりの、しかし冷徹な魔力の波動が溢れ出した。
メルセデスは、セバスチャンと視線を交わし、一歩を踏み出した。
塔の内部は、外観からは想像もつかないほど広大な、結晶の洞窟となっていた。
壁一面に埋め込まれた原石が、外界の魔力に反応して歌うように鳴り響いている。その最深部、透明な結晶の祭壇の上に、一つの「小さな石」が浮いていた。
それは、既存のどんな宝石よりも美しく、そして危うい。王国のすべての街灯を、一万年灯し続けても枯れないほどのエネルギーが凝縮された、「始原の魔力結晶」だった。
「これこそが、均衡の要。カトリーナが求めている『究極の力』ね」
メルセデスがその石に手を伸ばそうとした瞬間、背後の空間が、凄まじい衝撃と共に弾け飛んだ。
「――そこまでです、メルセデス!」
崩落した壁の向こうから、砂塵を振り払って現れたのは、ボロボロになった軍服を纏いながらも、その覇気を一切失っていないカトリーナ皇女だった。彼女の瞳は、祭壇の上の石を捉え、狂気にも似た歓喜に染まっている。
「地下水路を爆破して逃げ延びるとは、恐れ入りました。ですが、貴女の読みもここまで。その石をこちらに渡しなさい。そうすれば、貴女の命と、セバスチャンの命だけは保証してあげましょう」
「カトリーナ様、貴女はまだ、この石の『価格』を理解していないようですね」
メルセデスは、石を手に取ることなく、皇女に向き直った。
「これは奪うための道具ではありません。……これは、世界と対話するための『秤の支点』。これを手にする者は、その重圧に耐えうるだけの『空っぽの魂』を持っていなければならない。……貴女のような野心に満ちた魂が触れれば、帝国ごと自壊することになりますわ」
「戯言を! 価値を決めるのは力だ!」
カトリーナが剣を構え、一気に距離を詰める。
だが、メルセデスは動かない。彼女はただ、そっと祭壇の横に置かれた「母の古い万年筆」に触れた。
「……セバスチャン、準備は?」
「いつでも。……お嬢様の仰る『最高の取引』を始めましょう」
メルセデスの黄金の瞳が、カトリーナの細剣を真っ向から見据えた。




