第1話:等価交換の誓約
「申し訳ないが、君との婚約を破棄させてもらう。……そして私は、君の妹であるフロリナに求婚する」
煌びやかなシャンデリアが照らし出す、ベルンハルト伯爵家の夜会。
楽団が奏でる軽快な音楽を掻き消すように、ギルベルト・ディ・クロフォードの尊大な声が響き渡った。
私の元婚約者であり、次期公爵でもある彼は、私の手首を掴むようにして、背後に隠れるように佇む私の義妹、フロリナを庇うように一歩前に進み出た。
「お姉様……ごめんなさい。でも私、どうしてもギルベルト様への想いを抑えきれなくて……。私を、恨まないでくださいまし」
フロリナは、その潤んだ琥珀色の瞳から今にも涙をこぼしそうなほど儚げに、それでいて確かな優越感を湛えた笑みを、私の冷めた視線の中に滑り込ませてきた。
彼女のピーチピンクの華やかなドレスが、私の纏う装飾のないアイスブルーのドレスと実に対照的だ。
周囲の貴族たちは、私を「婚約者を妹に奪われた、惨めで哀れな氷の令嬢」として、同情と好奇の視線で値踏みしている。
けれど。
俯いた私の唇の端が、ほんの少しだけ吊り上がったことに気づいた者は、誰一人としていなかった。
「……そうですか。ギルベルト様、それは真剣な決断なのですね?」
私はあえて、声音からすべての感情を排し、凍りつくような響きだけを残して問いかけた。
「ああ、そうだ。メルセデス。君は完璧だが、あまりに冷たすぎる。私の妻となる者に必要なのは、フロリナのような愛らしさと慈悲の心だ。君との婚姻は、我がクロフォード公爵家にとっても、ただの形式に過ぎなかった。君が傷つくのは心苦しいが、こればかりは、どうしようもないことなのだ」
ギルベルトはさも自分が被害者であるかのように嘆息し、胸元に手を当てた。
その滑稽さに、私は危うく声を上げて笑いそうになるのを、喉の奥で必死に押し殺した。
この男は何も分かっていない。
彼が私を「冷たい」と評したその裏で、私がどれほどの書類仕事を肩代わりし、どれほどの負債を揉み消し、どれほどの公爵家の不祥事を闇に葬ってやったかを。
私という「完璧な防波堤」がいなくなった後、彼がどうなるかなど、考えたこともないのだろう。
そして何より、彼らは今日この時をもって、取り返しのつかない契約を成立させたことに気づいていない。
(……ああ。とうとう、この時が来たのね)
私の脳裏に、五年前のある記憶が鮮明に蘇る。
母が亡くなり、父が後妻とその連れ子であるフロリナを迎え入れた日。
フロリナは私の部屋のクローゼットや宝飾品を値踏みするように見つめ、幼い無垢な顔を作りながら、こう言ったのだ。
『お姉様。私、お姉様が持っている「一番大事なもの」を、いつか頂戴したいわ。その代わり、私の「一番大事なもの」をあげる。それで等価交換にしましょう?』
当時、何も知らない周囲の大人たちは、それを「義姉妹の微笑ましい約束」として笑って見ていた。
だが、フロリナの母親――私の実母を呪い殺したと噂される、怪しげな呪術の血を引く女――は、その言葉と共に、私たち二人の手のひらを重ねさせ、ある魔術的な契約を成立させていたのだ。
それは、この国に古くから伝わる禁忌の魔法、『等価交換の誓約』。
本来ならば、言葉通りの価値の交換を行うための魔法。
だが、フロリナたちが企んだのは違った。
フロリナが姉から「婚約者(=将来の公爵夫人という最高の価値)」を奪い取ることで、メルセデスに「不幸」と「絶望」だけを押し付け、フロリナ自身が「幸福」と「栄華」を独占するための歪んだ呪いだった。
だが。
彼女たちは、致命的な誤算をしていた。
私がその呪術の存在を、そしてその解除条件と「歪み」を、最初からすべて見抜いていたということを。
私はそっと、ドレスの袖の中に隠された左手の甲に触れる。
そこには、かつて刻まれた誓約の紋章が、今も微かに青白い光を放っている。
「……承知いたしました。フロリナ。あなたがそこまでギルベルト様を愛していらっしゃるのなら、私から身を引くのが姉としての務めでしょう。彼をお譲りしますわ」
私は優雅に、完璧なカーテシーを披露した。
「お、お姉様……! ありがとうございます! なんてお優しいの……!」
フロリナが嬉しそうに、ギルベルトの腕に抱きつく。
ギルベルトもまた、私を哀れむような、あるいは勝者の余裕を持った視線で見下ろしている。
だが、彼らが勝ち誇ったその瞬間。
私の左手の紋章が、カチリ、と音を立てるようにして、静かに反転した。
『等価交換の誓約』は、奪ったものの価値に見合うだけの「対価」を、自動的に相手から引きずり出す魔法だ。
フロリナは私から「婚約者」を奪った。
しかし、彼女にとってギルベルトは「世界で一番価値のある最高のもの」だったかもしれないが、私にとってのギルベルトは、もはや価値のない「負債」でしかなかった。
つまり、フロリナが奪い取ったのは、私の「厄介な重荷」だ。
そして、誓約の魔法が認識した価値のバランスは、今、完全に崩壊した。
(あなたが奪ったのは、私が捨てたかったゴミ。――さあ、等価交換の時間よ、フロリナ)
私の心の中で、冷徹な計算が始まる。
ゴミを引き取ってもらった対価として、私はフロリナから何を奪おうか。
彼女が持つ、ベルンハルト伯爵家の第二継承権。
彼女が亡き母から相続する予定の、手つかずの広大な領地と鉱山の権利。
そして、彼女がこれまで社交界で築き上げてきた、すべての人脈と名声。
それらすべてを、私はこれから、合法的に、そして徹底的に、彼女が気づかぬうちに強奪していくのだ。
「それでは、お二人とも。どうぞお幸せに」
私は氷のように冷たく、けれど最高に美しい微笑みを二人に向けて放った。
これから始まる、割に合わない等価交換のゲーム。
その第一歩が、今、静かに踏み出されたのだった。




