閑話 神であっても怒られる時はある
深い緑に満たされた森の奥――そこは、人の立ち入ることのない領域。
大地の精霊王が統べる、静謐にして厳かな空間である。
風は穏やかに木々を揺らし、足元には柔らかな苔が広がる。
本来であれば、訪れた者の心を安らがせるはずのその場所は――
「……」
しかし今、妙な緊張感に包まれていた。
理由は単純。
森の中心、開けた一角。
そこに――
「…………」
きっちりと正座をしている少女が一人。
理を綴る者、ミストルティンである。
普段の奔放さはどこへやら。背筋をぴんと伸ばし、膝の上に手を置いたその姿は、まるで叱られる前の子供そのものだった。
そして、その正面には――
「……ミストルティン」
腕を組み、低い声で名を呼ぶ存在。
大地の精霊王、ルヴァリオン。
その隣には、同じく腕を組みながら眉をひそめる男――
「いやぁ、さすがに今回は擁護できねぇな」
戦場を駆ける者、アルヴェク。
二柱の視線が、まっすぐにミストルティンへと突き刺さる。
「うっ……」
わずかに肩を震わせるミストルティン。
逃げ場は、ない。
ここは大地の精霊王の領域。
そして何より――
「自覚は、あるな?」
静かに、しかし逃がさぬ声音で問われる。
「……はい」
観念したように、ミストルティンは小さく頷いた。
――こうして。
神であろうと例外ではない、
ありがたい(?)説教の時間が、幕を開けたのであった。
「で?」
腕を組んだまま、ルヴァリオンが低く問う。
「なぜ、あのような真似をした」
逃げ場のない声音。
ミストルティンは一瞬だけ視線を泳がせ――
「……気になったから」
ぽつりと呟いた。
「は?」
アルヴェクの呆れた声が漏れる。
「だって! エレノアが作ったんだよ!? “防犯用の薬”って言ってたし――」
「だから試したのか」
ルヴァリオンの一言で、言葉が止まる。
「……」
「場所は」
「……中庭の……離れの実験室です……」
「状況は」
「……引っ越し準備中で……人も……出入りしてて……」
「結果は」
「……爆発しました」
小さく答える。
森の空気が、ぴたりと止まる。
「ちなみにだが」
アルヴェクが肩をすくめる。
「あそこ、薬品も資材も山積みだったよな?」
「う……」
「誘爆してたら、離れどころか本邸までいってたぞ」
「……」
ミストルティンは俯く。
そのまま、ルヴァリオンが一歩だけ踏み出した。
「ミストルティン」
「……はい」
「お前は、何のためにあの子の傍にいる」
静かな問い。
だが、その重さは明らかだった。
「……守るため、です」
小さく、しかしはっきりと答える。
「ならば」
ほんの僅かに、声が低くなる。
「なぜ、お前がその子を危険に晒した」
「――っ」
息が詰まる。
「守るべき存在のすぐ傍で」
「出入りの多い場所で」
「制御も理解もしていない物を使い」
「結果、爆発を引き起こした」
一つ一つ、逃げ道を塞ぐように言葉が重なる。
「それが、守る者の行動か」
「……ちが、」
反射的に出かけた言葉は――
続かなかった。
「違わない」
静かに、断じられる。
「結果として、お前は危険を持ち込み、拡大させた」
「……」
「守る側が、それをしてどうする」
完全な正論だった。
ミストルティンの肩が、小さく震える。
「……はい……」
消え入りそうな声。
反論は、できない。
「エレノアは」
ルヴァリオンが続ける。
「何も言わなかったな」
「……」
ミストルティンの身体が、びくりと揺れる。
「怒鳴ることも、責めることもなく」
「周囲の安全確認を優先し」
「離れの被害と、保管物の損耗を即座に把握していた」
「……うん」
「その後も」
一拍。
「お前に対して、何も言わなかった」
「……はい……」
震える声。
「どう感じた」
問われる。
「……怒ってる、って……思った……」
「違うな」
ルヴァリオンは静かに首を振る。
「……え」
「呆れている」
「――」
言葉を失う。
「怒る価値すらないと、そう判断されている」
「やめて……」
小さな拒絶。
だが止まらない。
「信頼があればこそ、怒りは生まれる」
「だがそれすら越えた時」
「残るのは、失望だ」
「……っ」
ぎゅっと拳を握るミストルティン。
何も言い返せない。
「ミストルティン」
「……はい」
「反省は」
「……してます……」
「ならば」
ルヴァリオンが告げる。
「やるべきことは分かるな」
「……」
ほんの一瞬の沈黙の後――
「……謝ります」
小さく、しかし確かに。
その言葉が落ちた。
「戻るぞ」
「……はい」
足元に淡く光が灯る。
「逃げるな」
「……逃げません……」
「向き合え」
「……はい」
光が弾ける。
次の瞬間。
中庭にある離れの実験室――その前。
扉は半壊し、壁の一部が焦げている。
中からは、まだかすかに薬品の匂いが漂っていた。
「……ミストルティン様」
静かな声。
「……はい……」
恐る恐る振り向く。
そこには――
いつも通りの、穏やかな表情のエレノア。
「少し、お時間よろしいですか?」
「……はい……」
怒気はない。
責める色もない。
ただ――淡々としている。
それが、何よりも怖い。
「今回の件ですが」
「……はい……」
「同様の事象が再度発生した場合」
一瞬の間。
「次は、実験対象として扱いますね」
「え?」
顔を上げた瞬間。
にこり、と。
柔らかな笑顔。
「もちろん、安全には最大限配慮いたしますので」
「いや全然安全じゃないよね!?」
思わず叫ぶミストルティン。
「……反省は、しているのですよね?」
「してます!! 本当にしてます!!」
即答だった。
食い気味だった。
全力だった。
――その日。
理を綴る者は。
しばらく実験室への出入りを固く禁じられた。




