57話 王国の要請、毒の町④
食堂での昼食を終え、私たちはオスバルト伯爵様の別荘へと戻ることにした。
さっきまで食べていたエビの塩焼きや、スモークされたお魚のカルパッチョ、ソテーされたお魚――そのすべての余韻が、まだ口の中に残っていた。
潮風に混ざった香ばしい香りと、港町の活気ある喧騒の記憶が、なんとも心地よく胸に残る。
歩きながら、私は無意識に深く息を吸い込み、満ち足りた気持ちを噛みしめた。
――今日一日の港町散策と食べ歩きは、ただの観光以上のものだった。
小さな冒険のような興奮と、誰かと共有する安心感。そんな些細な瞬間が、まるで宝物のように感じられた。
カイルも、メルも、アメリアも、それぞれ満足そうに顔をほころばせながら、別荘へと向かう道を歩く。
そして、私は少しだけ考えた――この後、私たちを待つのは調査と、あの少女の治療なのだ、と。
心の奥で、少しだけ緊張が混ざる。
でも、今日の港町の空気と食事の余韻が、私をしっかりと支えてくれているようだった。
相変わらず、街の人々の視線を感じながら歩き続け、オスバルト伯爵様の別荘の門までたどり着くと、門番と揉めている二人の姿が目に入った。知った顔と、完全に見知らぬ人。
「ここは、オスバルト伯爵様の別荘です! 部外者を通すことはできません!」
「だから、ここにエレノア嬢が滞在しているだろ! 俺たちは護衛として来た神族だ!!」
「神族がそんなダルそうな顔を浮かべたり、馴れ馴れしいわけがないだろ! 衛兵に突き出すぞ!」
「もう帰ろうよ……僕、眠いしめんどくさいから、あとはミストルティンに押し付けようよ……」
――状況が一目でわかる。揉める二人を前に、門番は硬直し、見ている私たちも思わず立ち止まる。
「アル! クロノ!」
その声に二人は後ろを振り向いた。
「ミストルティン助けてくれよ! こいつ何言っても聞く耳を持たないんだ!」
「僕は門番さんが通してくれないから帰るねー」
「待てやクロノア!」
クロノアは本気で踵を返しかけ、アルが慌ててその肩を掴む。門番はというと、目の前で繰り広げられるやり取りに完全に混乱していた。
「……ミストルティン様?」
門番が恐る恐る視線をこちらへ向ける。
ミストルティン様は一歩前に出ると、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。けれど、その背後に漂う気配は、ほんのわずかに“格”の違いを滲ませている。
「門番さん、ご苦労さま。彼らは本当に神族よ。態度はアレだけど」
「アレってなんだよ」
アルが小さく抗議する。
「事実でしょう?」
さらりと言い切るミストルティン様に、アルは口を噤んだ。
門番はごくりと喉を鳴らし、慌てて姿勢を正す。
「し、失礼いたしました! しかし確認が取れませんでしたので……!」
「それで正解よ。むしろ褒めてあげたいくらい」
ミストルティン様は穏やかに頷いた。
「職務に忠実なのは良いことだわ」
その一言で、張り詰めていた空気がふっと緩む。
クロノアと呼ばれた少女は大きくあくびをしながら、
「ほらぁ、ちゃんとした神族でしょ? だから早く中に入れてよ。僕ほんとに眠いんだって……」
「お前はもう少し威厳を持て」
アルが額を押さえる。
私は思わず苦笑する。
緊張感のあったはずの門前が、いつの間にかいつもの調子に戻っていた。
「エレノア嬢もお戻りですし、通していただけますか?」
アメリアが穏やかに補足する。
「は、はい! どうぞお通りください!」
門がゆっくりと開かれる。
アルは肩を回しながら中へ入り、クロノアはひらひらと手を振った。
「じゃあ僕、客間で寝てるから。起こさないでねー」
「勝手に決めるな!」
再びアルの声が響く。
私は小さく息を吐く。
別荘へ戻ったというのに、静かなはずの午後は、どうやら賑やかになりそうだった。
けれど――その賑やかさが、どこか安心感を伴っていることに、私は気づいていた。
客室に通され、ひと息ついたところで、改めて向き直る。
広めの応接室。窓からは港町の海が見え、潮の匂いがわずかに漂っていた。
アルは壁にもたれ、腕を組んでいる。
そしてクロノアはというと――ソファに深く沈み込み、すでに半分寝かけていた。
「……起きなさい、クロノア」
ミストルティン様が淡々と言う。
「んー……起きてるよぉ……たぶん」
全然起きていない。
アルがため息をつき、軽く頭を小突いた。
「ほら、自己紹介くらいちゃんとしろ」
クロノアはゆっくりと身体を起こし、眠たげな目をこちらに向けた。
そして、ひらりと片手を振る。
「えーと、はじめまして……じゃないか。噂は聞いてるよ、エレノア。
僕はクロノア。まぁ、一応“時”を司る側の神族ってことになってる」
その瞬間、空気がわずかに揺らいだ気がした。
気のせいではない。ほんの一瞬、部屋の時計の針が止まったような錯覚。
「戦いはあんまり好きじゃないし、基本めんどくさいことも嫌い。
でもまぁ、今回は護衛任務ってことで来た。よろしく」
言葉は軽い。態度も緩い。
けれど、その奥にある圧は隠しきれていない。
アメリアお姉さまが静かに目を細める。
カイルは「時って……」と小さく呟き、メルは純粋に「すごーい」と目を輝かせていた。
クロノアはあくびをひとつ。
「あと忠告ね。僕が本気で怒る状況は、たぶんこの世界にとって最悪だから、そこは期待しないで。
平和が一番。うん、ほんとそれ」
にへら、と気の抜けた笑み。
アルが横から口を挟む。
「こいつはこんな感じだが、能力は本物だ。信用していい」
「フォローありがと。でも僕ほんとに眠いから、続きはあとでね?」
そう言うと、再びソファに沈み込む。
……とんでもない存在なのに、どうしてこうも緊張感がないのだろう。
けれど私は、直感的に理解していた。
この人は――いや、この神は、必要なときには確実に動く。
「よろしくお願いします、クロノア様」
私が頭を下げると、ソファの背もたれ越しに片手がひらひらと揺れた。
「うん、よろしく。エレノア」
その声音だけは、不思議と優しかった。
そう思っていると、クロノア様はそのままソファに深く沈み込み、規則正しい寝息を立て始めた。
「おいクロノア! 起きろ!」
アルが額に青筋を浮かべながら揺さぶる。
「ん……任務中だから静かに……」
何を言っているのか分からない寝言が返ってくる。
「任務中に寝るな!」
アルの怒鳴り声が部屋に響くが、クロノア様は微動だにしない。
むしろ空気が、ほんのわずかに穏やかになった気がした。
ミストルティン様が小さく息をつく。
「放っておきなさい。必要なときには起きるわ」
「信用しすぎじゃないか?」
アルが半眼になる。
「大丈夫よ。クロノアは“必要な瞬間”を逃さない」
その言葉には、長い付き合いから来る確信があった。
私はそっとクロノア様を見つめる。
眠っているはずなのに、その存在感は消えない。
まるで部屋そのものが、彼を中心に静かに回っているかのようだった。
ふと、窓辺のカーテンが揺れる。
風は吹いていない。
けれど――時間が、ほんの一瞬だけ、柔らかく伸びたような感覚があった。
アルもそれに気づいたのか、舌打ちを一つ。
「……やっぱり起きてるだろ、こいつ」
クロノア様の寝息は、相変わらず穏やかだ。
私は小さく微笑む。
賑やかな神族たちに囲まれながら、別荘の客室には、不思議な安心感が満ちていった。
賑やかな空気がひととき部屋を満たしたあと、ミストルティン様が軽く手を叩いた。
「――さて、雑談はここまでにしましょう。そろそろ本題よ」
その一言で、空気が静かに引き締まる。
アルは壁から背を離し、腕を組み直した。アメリアお姉さまも自然と姿勢を正す。
クロノア様は――相変わらず寝ている。
「少女の状態を、改めて整理するわ」
ミストルティン様が淡く光る魔法陣を空中に展開する。
そこに映し出されたのは、複雑に絡み合う光の流れ。
生命力、魔力、そして精神の波動――そのすべてが、どこか不自然に固定されている。
「数千万年、術式に接続され続けていた影響で、生命の流れが“停滞”している状態ね。止まってはいないけれど、本来の循環を失っている」
「肉体は生きている。でも、動かせない」
アメリアが静かに補足する。
「ええ。そして問題は精神よ」
ミストルティン様の指先が、精神の領域を示す光に触れる。
そこは霧がかかったように不安定で、ところどころに断絶が見える。
「記憶と感覚が断片化している。無理に刺激すれば、崩壊する可能性もあるわ」
私は息を呑んだ。
「……だから、少しずつ繋ぎ合わせる必要があるんですね」
「そう。まずは“安心”を与えること。ここが安全であると、魂に理解させる。そこから、微弱な神聖魔法で精神の深層に触れる」
アルが低く問う。
「術式の残滓は?」
「ほぼ除去済み。でも完全じゃない」
ミストルティン様の表情がわずかに険しくなる。
「深層に、ごく薄く残っている可能性がある」
そのとき――
「残滓は三層目に薄く絡んでるよ」
静かな声。
全員の視線がソファへ向く。
クロノア様は目を閉じたまま、寝返りすら打たずに続けた。
「時間軸の歪みが、そこだけほんの少し遅れてる。今は安定してるけど、刺激が強いと再活性するかもね」
アルが呆れたように言う。
「……起きてるじゃないか」
「寝てるよ?」
即答だった。
ミストルティン様は小さく笑う。
「助かるわ、クロノア」
「貸し一つねー」
再び静かな寝息。
私は改めて光の流れを見つめた。
三層目――精神のさらに奥。魂に近い領域。
「なら、最初は肉体の循環回復から始めますか?」
私は提案する。
「筋肉と神経の再活性をゆっくり行いながら、精神層への負荷を最小限に抑える」
「良い判断ね」
ミストルティン様が頷く。
「エレノアが循環制御を担当。私は精神修復。アルは外部干渉の遮断」
「任せろ」
アルの声は短く、力強い。
「クロノア様は……」
メルが恐る恐る視線を向ける。
「僕は最悪の未来を潰す係」
目を開けないままの返答。
けれど、その言葉は冗談には聞こえなかった。
部屋の空気が、静かに重みを帯びる。
少女の治療は、ただの回復ではない。
数千万年の歪みと向き合う行為だ。
私はゆっくりと息を整える。
「いつ始めますか?」
ミストルティン様の瞳が、まっすぐ私を捉えた。
「今夜。環境を整えてから、第一段階に入るわ」
窓の外では、港町の午後が静かに傾き始めていた。
そして、別荘の客室で――
私たちの本当の任務が、ようやく動き出そうとしていた。




