103話 準備完了、動き出すアトリエ①
気づけば、季節が変わっていた。
「……あれ?」
窓の外を見て、ふと首を傾げる。
ついこの前まで、あんなに暑かったはずだ。
日差しは強くて、外に出るだけで体力を持っていかれて――そんな日々だったのに。
今は、空気がどこか柔らかい。
冷たい、というほどでもない。
けれど確実に、あの夏の熱気はもう残っていなかった。
「……夏、終わったんだ」
ぽつりと呟く。
――いや、正確には。
「終わったどころか……」
机の上に積み上がった書類。
試作品の山。
開発途中で放置されたままの薬品。
それらを見渡して、
「……年、越してるんだけど」
思わず遠い目になった。
忙しい、なんて言葉じゃ足りなかった。
アトリエの準備に没頭していたら、気づいたときにはもう冬に入っていて――
そして、普通に年が明けていた。
「いや、ちょっと待って……」
記憶を辿る。
去年、何してたっけ。
いや、たぶんずっと作業してた。間違いなく。
「……うん、知ってた」
現実から目を逸らすのはやめよう。
王都の冬は比較的穏やかだ。
寒いといっても、せいぜい肌寒い程度。気温も十五度前後で落ち着いている。
だからこそ――
「作業が止まらなかったのよね……」
寒さで動けない、なんて言い訳もできない。
結果、気づけばこの有様だ。
だが。
視線を、ゆっくりと上げる。
部屋の奥――
新しく整えられた設備。
整然と並ぶ器具。
そして、完成したばかりの空間。
それを見た瞬間、
ふっと、小さく笑みがこぼれた。
「……まあ、でも」
ここまで来たのだ。
時間を飛ばしただけの価値は、確かにある。
「準備は――完璧」
そう言って、軽く手を叩く。
空気が、少しだけ引き締まった気がした。
今日は――
アトリエ開業の日だ。
そう口にした瞬間、不思議と実感が湧いてくる。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴った。
「……よし」
一つ息を吐いて、部屋を出る。
向かう先は、屋敷の奥。
何度も足を運んだ場所。
今さら迷うこともない。
重厚な扉の前で足を止める。
その先にあるものも、もう見慣れている。
「最終確認も済んでるし……問題なし、っと」
軽く呟き、扉を開く。
そこにあるのは、揺らめく光の膜。
転移門。
屋敷とアトリエを繋ぐ専用通路。
試験運用も含めて、すでに何度も行き来している。
だから――
躊躇いはない。
一歩、踏み出す。
身体が一瞬だけ軽くなる感覚。
視界が歪み、
すぐに元へ戻る。
「……はい、到着」
小さく呟く。
見慣れた光景。
広々とした空間。
整然と並ぶ器具と設備。
何度も調整を重ねてきた、自分のアトリエ。
だが――
「……やっぱり、違うわね」
ぽつりと漏れる。
同じ場所のはずなのに、空気が違う。
これまでは“準備中”の場所。
けれど今日は――
「開業日、だものね」
そう言って、小さく息を整える。
いつも通りでいい。
やることは変わらない。
ただ一つ違うのは――
ここに“客”が来る、ということ。
「……まあ、やるだけやるか」
軽く肩の力を抜く。
足取りは自然と、カウンターの方へ向かっていた。
配置も動線も、すでに身体に馴染んでいる。
位置につき、
視線を入口へ向ける。
――が。
「……うん、誰もいないわよね」
小さく呟く。
特に大きな告知をしたわけでもない。
店先に「近日オープン」と書いた紙を貼っただけだ。
それで行列ができるほど世の中は甘くない。
「……まあ、そりゃそうね」
納得して、軽く肩の力を抜く。
むしろ、これで押し寄せられても困る。
最初はゆっくりでいい。
一人一人、確実に対応していけばいいのだから。
そう思いながら、ふと視線を横に流す。
少し離れた作業台。
そこでは――
「……せっせとパン焼いてるわね」
メルが、いつも通りの様子でパンを焼いていた。
開業日だというのに、妙にマイペースだ。
いや、むしろいつも通りだからこそ、少しだけ緊張が和らぐのかもしれない。
「……ありがたいわね、あれはあれで」
ぼんやりと、その様子を眺める。
焼き上がりかけのパンの香りが、ふわりと漂ってきた。
静かなアトリエに、やわらかな温もりが混ざる。
ここまで来るのに、色々あった。
設備の準備。
素材の確保。
安全対策。
動線の最適化。
一つ一つは地味なのに、どれも手を抜けないものばかりで――
「……よく間に合ったわよね」
我ながら、と思う。
その中でも、特に大変だったのが――
「……店名、ね」
思い出して、遠い目になる。
メルやカイル、
お兄様たちに加えて護衛の面々まで巻き込んで、ああでもないこうでもないと散々悩んだ。
それなのに、
「結局、いい案出なかったのよね……」
結果。
仮のまま――
「“エレノアのアトリエ”」
そのまんまである。
「……いや、仮のはずだったんだけど」
誰も代案を出せず、気づけばそのまま採用。
もはや開き直るしかない。
「……なんか、こういう名前のやつ……あった気がするのよね」
ふと、そんな記憶がよぎる。
前世の記憶。
確か、錬金術で色々作るゲームで――
「……いや、普通にやってた気がするんだけど」
思い出せそうで思い出せない。
もどかしい。
「……まあ、いいか」
軽く首を振る。
今さら名前を変える気もないし、これはこれで分かりやすい。
むしろ、
「……看板に偽りなし、ってことで」
小さく笑う。
そんな余韻に浸っていると、カウンターに置かれた置時計が開店の時刻を指していた。
「メル、そろそろ開店するけど大丈夫?」
「大丈夫です!」
元気のいい返事が返ってくる。
ちらりと横を見ると、ちょうど最後の焼き上がりを取り出しているところだった。
湯気と一緒に、香ばしい香りが広がる。
「……ほんと、準備いいわね」
「エレノア様は確認ばっかりで進まないだけです!」
「……否定できないのが悔しいわね」
小さく肩をすくめる。
けれど、そのやり取りで不思議と緊張が和らいだ。
これなら、大丈夫。
そう思える。
視線を正面へ戻す。
カウンターの向こう側。
まだ誰もいない空間。
これから、ここに人が来る。
それを迎えるのが、自分たちだ。
「……よし」
小さく息を吐く。
そして、気持ちを切り替える。
これから私とカイルは、アトリエを――
メルは、パンやおにぎりを売るお店を、それぞれ開店させる。
やることは単純だ。
来た客に対応する。
求められたものを提供する。
それだけ。
――だけど。
「……初日ね」
ぽつりと呟く。
最初の一日。
ここから、すべてが始まる。
その瞬間。
入口の扉が、静かに開いた。
一人目の客。
ほんのわずかな足音が、やけに大きく響く。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
けれど――
次の瞬間には、自然と口が動いていた。
「いらっしゃいませ」
隣からも、明るい声が重なる。
「いらっしゃいませー!」
その一言で、
“準備”は終わりを告げた。
――ここからが、本番だ。
胸の奥で、静かに何かが動き出す。
それが何なのかは、まだ分からない。
けれど――
きっと、悪いものじゃない。
そんな予感だけは、確かにあった。




