あふれる涙こぼれる想い
翌日のピアノのレッスンに、純は少し早く出かけた。
早目に教室に入り、発表会の課題曲へのアドバイスを先生に貰いたかった。何かと落ち着かない日々を過ごしていて、練習がうまくいってなかったから。
まだ、翔も憲人も来ていない。
純がレッスンに来たことを知った渡が、楽譜や教則本をもって、教室の脇にある自宅から出て来た。
「今日は何かあるの?」
渡がいぶかしげな顔つきで、純にたずねる。
「え?なんで?私が早く来たこと?」
「ううん、そうじゃなくて。翔さんと貴さんが一緒に教室に来るって。純ちゃん知らないの?」
「私、何にも聞いてないよ。貴兄さんがどうして来るの?お教室に遊びに来るとか?」
「僕もわからない。純ちゃんが先に来たら、待ってるように言えって、翔さんが・・・」
「そう。とりあえず、私レッスンを済ませるから」
純は課題曲の心配で頭がいっぱいになっていたし、今、レッスンをつけてもらっている人が終わりそうだったから、『話はそれから』ということになった。
そこに憲人がやって来て、渡から同じことを聞かされている。
純は、貴久が来ることを深く考えずにレッスンに集中した。貴久と翔は親友だし、この教室はかつて貴久も通っていたから、来たとしても何の不思議もない。
純のレッスンが終わって、憲人がレッスン室に入っているとき、貴久と翔がやってきた。
二人の様子が何か変だ。
不安になった純の方が先に声を掛ける。
「どうしたの?何かあった?」
「それは俺が聞きたい」
翔の綺麗な顔は、怒りを帯びている。美しい顔立ちなだけに怖い。
「どういうこと?」
純が問いかけても、貴久は暗い目をして黙ったままだ。
「先週のなんちゃら建設の社長の御一族との会食って、見合いだったんだって?」
純は翔の言葉そのものが理解できなかった。
「え?ミアイ?ミアイって?・・・何?」
「お見合い!お見合いだよ!・・・お前の親の取引先の息子と!」
翔は言葉を吐き捨てるように言った。
「え・・・?」
『・・・うまく頭が回らない・・・何を言われているのか・・・わからない・・・』
純はすっかり混乱してしまった。
「昨日、デートもしたんだろ?」
もう、翔以外誰も言葉を発することが出来ない。
「うちの母さんと貴の母さんが話してるのを聞いちゃったんだ。なんちゃら建設の社長と純の父さんが、息子と娘をくっつけようとしてるって・・・」
純は驚きすぎて、息をするのも忘れそうだ。
『・・・そういうことだったの・・・』
純の心の中で、ずっともどかしく思っていた疑問のカケラが、ピタッと嵌った。
レッスンを終えた憲人が、皆の様子がおかしいことに気付いて、そばまでやって来る。
「どうしたの?」
渡が憲人の疑問に応え、翔から聞いた話しをした。
「その人とデートしたって、本当なの?」
憲人は驚き、純を食い入るように見つめる。
純が黙ってしまったことで、皆に肯定の意味が伝わった。
「ごめん・・・」
それまで黙り込んでいた貴久の一言。
貴久の言葉のわけが分からず、全員が彼の顔を見た。
「俺が純に『デートに行け』って言った。俺たち以外のヤツとも付き合えって・・・」
苦しそうな貴久。
純の目から涙があふれる。泣いてはいけないと思っても無理だ。
「何でそんなこと言ったんだよ!」
喧嘩が始まるのかと、憲人はあわてて翔の腕をつかんだ。
でも、翔はただ哀しそうな目で、貴久を見つめただけだった。
「私、帰る・・・」
純はハンカチを出して涙を拭く。拭いても拭いても涙はあふれてくる。
「俺、一緒に行く・・・」
貴久も思いつめた表情。
憲人が純の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫だから・・・」
涙声の純。
誰も一言の挨拶さえ出来ず、別れた。
純と貴久は音楽教室を出る。
夏の日差しは傾いているけれと、まだまだ明るい。
純がうつむいて涙を拭いながら歩く。純の後ろからは貴久が付いて来る。
家に帰るには、バスに乗らなければならないけれど、泣き顔のまま乗るのは気が引けたし、それに今は家に帰りたくない。
「公園、寄って行くか?」
同じことを考えた貴久が声を掛ける。
「子供のとき、この公園にしょっちゅう寄り道したよな」
「うん」
緑の木々が茂る小さめの公園には、遊具がいくつか置いてあって、それを目的に寄り道をしたのだった。
最後に遊んだのは、もう、ずいぶん前のことになる。
「子供のとき・・・って、俺たち、まだ子供だよな?」
「子供かな?子供なのかな・・・」
「ごめんな。あんなこと、言わなきゃよかった」
「ううん、貴兄さんのせいじゃないよ」
純はさらに悲しくなって、貴久のそばからそっと離れ、木の陰に隠れて泣いた。
貴久は痛む心を押さえ、純のあとを追った。
純の目の前に貴久の胸が現れる。
貴久は泣いている純の背中にそっと腕をまわした。
「もう・・・行くな・・・」
純を強く抱きしめる。
びっくりして、抵抗もせず貴久の胸の中にすっぽり収まる純。
貴久の匂い。貴久の体温。響いてくる心音。悲しく切ないのにどこか穏やかな時間が過ぎる。
『こんなこと、いいのだろうか?』
気持ちが落ち着いてくると、純は貴久の腕の中にいる自分が怖くなった。
「貴兄さん、ダメだよ・・・」
胸に抱かれたまま、顔を上げずに小さな声で言う。
「そうだな・・・そうだよな・・・」
貴久は純の背中に回した腕のちからを少し緩めた。でも、純の巻き髪の甘い匂い、小さな胸のふくらみの柔らかさに心が痺れてしまったようだ。純をなかなか放すことが出来ない。
純がゆっくりと貴久の顔を見上げた。
貴久の切れ長の目から、純の唇にポタポタ涙が落ちる。気持ちが、胸の想いが、薄紅色の純の唇に吸い寄せられていく。貴久が顔を純のそれに傾げると、純は貴久の唇から逃げるように、泣き顔を貴久の胸に伏せた。
そして腕を伸ばして貴久をギュッと抱きしめる。従妹としての、ハグのつもり・・・。
貴久は夢から覚めたように、やっと純から離れた。
泣き顔を癒すために公園に寄ったのに、二人で泣くことになってしまった。
揺れるブランコに乗って、日が暮れるまで涙を乾かした。
一緒に住んでいたときの思い出話をして・・・。泣き笑いの思い出話。
さっきのハグは無かったみたいに・・・。
貴久が純の家まで送って行って、門の前で別れた。
純は貴久の姿が闇の中に消えるまで見送った。
貴久は街灯がともる住宅街を歩きながら、背中で純の視線を感じていた。
心の中でつぶやく。
『俺たち、もう子供じゃ無くなったんだ。もう、子供じゃいられないんだ・・・』




