伊藤家との会食
西山高校も夏休みに入った。
純はピアノの練習に一生懸命だ。発表会の曲に手こずっていたのだ。
通っている音楽教室のピアノ部門は、秋に発表会がある。
ピアノの先生・・・清水渡の母親は、毎回ちょっとだけ難しい曲を選んで来る。
クラシックならまだしも、今回はジャズだ。
独特なリズムの変化と転調が難しく、純には、乗れない曲、相性の良くない曲に思えて仕方なかった。
夏休みに入っても、父親の勝の出勤時間が変わるわけではないから、純の起床時間も変わらない。
勝が出かけた後、普段は家政婦の藤井に任せている洗濯や自室の掃除をしたあと、勉強したりバイオリンやピアノの練習をする。
昼過ぎに藤井は出勤して来て、残りの家事を済ませてくれ、夕食の準備を一緒にする。
藤井と共に料理をするのは、いろいろ覚えられるし、毎日の楽しみだった。
夏休みの初めての土曜日。勝が言っていた、取引先の社長さんとその御家族との『会食』の日がやって来た。
純は全然気が進まなかった。仕方なしに、買ったばかりのキャラメル色のワンピースを着て、白いソックスにバックベルトの付いたサンダルを履いて、音楽教室に出掛けた。
カチューシャをレッスンバッグに入れる。
『会食』の前にカチューシャを付けるつもりだ。
音楽教室の仲間に髪にカチューシャを着けているところなど見られるのは、なんとなく恥ずかしかったから。
音楽教室の待合室に入ったとたん、純の姿を見て加賀美翔と清水渡がそばに寄って来る。
「どうしたんだ、その恰好・・・」
「純ちゃん、めずらしい・・・」
翔も渡も、純の見慣れぬワンピース姿に、声をあげる。
「好きで着てるわけじゃないよ」
着慣れぬワンピースが恥ずかしくてたまらない。
純が理由を説明しようとしているところに、辺見憲人も入って来た。
声には出さないけれど、憲人も驚きの色をかくせない。
「父の仕事関係の・・・知らない人たちと食事をすることになって・・・しかたなく・・・」
翔は眉をひそめる。
「楽しくなさそうだな・・・大丈夫なのか?」
「知らない人と食事なんて、純ちゃんが一番いやがることじゃない?大丈夫?」
憲人が口をひらく。
「本当にイヤ・・・憂うつ」
純はため息をついた。
「でも、ワンピース、似合ってるよ」
渡が励ますように言った。
チラリと翔が渡の顔を見る。
「そうかな?自分では違和感満載なんだけど・・・」
純のため息交じりの言葉。
「うちの店の服?」
翔が微笑む。
「そう」
「じゃ、似合って当然だ」
翔は、わけの分からない言葉で純を励ましたつもりになった。
レッスンのあと、父親の勝が純を迎えに来た。
純が車に乗り込むと、
「会食にいらっしゃるのは、伊藤建設の社長さんのご夫婦とお子さん達だよ」
と、エンジンを掛け車を走らせながら勝が説明を始める。
「ふうん・・・」
全然興味のない純は、父親の言葉にも生返事だ。
「お子さんは、社長の秘書をしている娘さんと、和同大学の学生の息子さんだよ」
「そう・・・」
純はますます憂うつになる。
『娘さんはまだしも、息子さんまで・・・』
膝に置いたレッスンバッグの中からカチューシャを出した。手ぐして前髪をかき上げてカチューシャを付ける。なんかいい加減。テキトーな気分。
予約してあるという素敵なホテルのレストランに到着した。
『こうなったら、食事だけ楽しもう』
と、決心して、純は勝の後に続いた。
個室に通されると、すでに相手は到着していた。
「遅くなってすみません。娘の純です」
勝が紹介する。
純はうっかりしていて会食の席までレッスンバッグを持って来ていた。バッグを持ったまま、彼女にとっては最大に丁寧なお辞儀をする。
伊藤建設の社長さんは、家族を順番に紹介した。
奥様は亮子さんとういう、ふっくら優しそうな雰囲気の方。
娘は真理さん、25歳。
息子さんは和幸さんで、和同大学の建築学部の一年生。
純にしてみたら、真理ははるかに大人で、その女性らしい美しさに圧倒されそうだった。
和幸は細面の綺麗な男の人だ。
優しそうな人たちに思えたから、純も少しはリラックスして食事が出来そうだった。
全員テーブルについて、メニューを選ぶ。
伊藤夫妻が並んで、奥様の隣に和幸。
純を挟んで左右に勝と真理。
真理からは、ほのかに良い匂いがする・・・素敵なお姉さま・・・。
純がレッスンバッグの置き場に困っていると、真理がそっとバッグを取って、椅子の背もたれの耳に掛けてくれた。
「ピアノを習っているのね?」
社長夫人が聞いてくる。ピアノの絵柄のバッグだから、一目瞭然だ。
「あ、はい・・・」
「とってもいい趣味だね」
「え?」
伊藤社長の言葉に、純は思わず反応してしまった。
『趣味・・・そんなふうに、知らない人には思われてしまうんだ』
少なからずショックを受ける。
皆、強張った表情の純を見つめた。
純はあわてて、気持ちを整えようと必死になる。
「ピアノだけじゃなく、娘はバイオリンも習っているんですよ。むしろ、そっちの方が一生懸命で・・・」
勝が助け舟を出してくれた。
「お勉強も成績優秀なんですって?」
社長夫人が話題を変えてくれて、純はホッとした。
「それほどでもありません」
「西山高校で二番だったって、お父様が自慢なさってたのよ」
社長夫人が微笑む。
びっくりして、純は父の方を見てしまった。娘自慢をする父親など、自分には想像出来なかったから。
「何の科目が得意なの?」
真理が優しくたずねる。
「数学と物理です」
伊藤社長が嬉しそうに、
「さすがは住吉さんの娘さんだ。お父さんも優秀だったんだよ」
と、純に話しかける。
「主人とお父様は、大学が一緒だったんですって」
伊藤夫人が微笑んでいる。
純は知らない父親の一面を見たように思う。
料理が運ばれて来て、話題は和幸のことになっていく。
和同大学の話し。今の建築学の話し。建築業界の話しなど。
純は黙って、食べることに専念した。
和幸と勝はにこやかに話している。
純は、真理のことが知りたかった。
黙ったままの純を気遣ったのか、真理が話しかける。
「今、夏休みでしょ?毎日何をしているの?あ、お勉強以外でね?」
「秋にピアノの発表会があるので、練習とか。あと、お洗濯をしたり、ご飯も作らなきゃならないし」
真理は驚きの表情をした。
「お料理も出来るの?」
「簡単なものなら」
「すごいわね。高校生なのに・・・。私なんか全然だめ」
真理は『家事は全然だめ』『女らしいことがだめ』と、見かけとは反対な言葉を並べた。
料理や家事での失敗を、おもしろおかしく披露してくれた。
純も真理に『秘書の仕事とはどんなことをするのか』『休日は何をしているのか』など質問して、その場の雰囲気にすっかり馴染んでいた。
食事の最後のデザートは、ケーキとレモンシャーベットの盛り合わせだった。
実は、純はケーキが苦手だ。生クリームが食べられない。そもそも甘い物が得意ではない。
「真理さん、私の分のケーキ、食べてもらえませんか?」
「食べられないの?」
「ちょっと苦手なんです」
「それなら、和幸にあげて・・・私もおなかいっぱい」
「僕、頂いていいですか?」
和幸が声をかけた。
「シャーベットはたべられる?」
「ええ、シャーベットなら」
「じゃ、交換しましょう」
純と和幸のやりとりを、大人たちが満足そうに見ていた。
デザートも終わり、
『ホテルの中庭が綺麗だから散歩してきなさい』
純と和幸は、レストランから追い出された。
純は真理も出てくるのかと思ったのに、彼女は大人たちの会話の中にいる。
和幸と二人きりになって、純は気詰まりを感じていた。
中庭に出ると、ちょっと蒸し暑かったが、心地よい風が吹いている。
ライトアップされた噴水が綺麗だ。
和幸は純と並んで歩く。
水色のカッターシャツに細めのネクタイをした和幸。長めのストレートヘアが、風にサラサラなびく。
純は、話題を探しながら、そんな和幸の姿を見つめた。
「綺麗だね」
和幸の声に、純は我に返る。
「あぁ。噴水のお水がキラキラしてて、本当に綺麗ですね」
ライトアップされた噴水は、涼しげに輝いていた。
「ん?ああ、噴水ね。噴水もだけど・・・。君が・・」
「え?君が?・・・わ、わたし?」
初対面の女の子に言う言葉がソレなの?・・・純は警戒した。
和幸は、急に照れた顔になり、自分の言葉の説明をする。
「いや、さ・・・。西山高校で学年二番を取るような女の子って聞いたから、もっと違う想像をしてたんだよ」
「違う想像?・・・ですか?」
思わず和幸の横顔を見る。
「もっと、ガツガツした・・・イカツい、男みたいな・・・」
純は思わず笑ってしまった。
「想像どおりだったと思います」
和幸は驚いた顔で、純の方に向き直った。
「どういうこと?」
純はしょっちゅう男の子に間違えられることを伝えた。
和幸は声をあげて笑っている。
「純ちゃんは理知的だからだよ」
「理知的?」
初めて言われた言葉かもしれない。
「他の女の子には無い雰囲気があるよ。男の子にモテるでしょ?」
「ぜんぜん」
そっけない純の言葉に、和幸が微笑む。
「彼氏とか、いないの?」
「え?彼氏?」
純の胸に一瞬浮かんだのは、何故か村上敏の面影とたった一度しか聞いてない『そうだね』と言う声。
「いるんだ・・・」
「いません」
純はあわてて否定した。その否定は、和幸の言葉に向けてというより、胸の内の幻影に対して。
「それはウソだな」
和幸は意地悪い表情を作って、純をにらんだ。
「僕にウソは通用しないよ。本当のことを言わなきゃ、でしょ?」
「本当にいません」
純は困った顔をする。
和幸は笑って左頬にえくぼを見せた。
男の人にえくぼがあるのが、純には不思議に思えてしかたなかった。




