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第82話 「昼下がりの街――買い物と、ほどけない距離」


昼の街は、午前よりもさらに穏やかになっていた。


観光客の流れは一定で、店の前には小さな列ができたり消えたりを繰り返している。


時間そのものが、少しだけゆっくりと溶けていくような場所だった。


⸻


昼食を終えた三人は、観光通りをそのまま歩いていた。


桜は手をつないだまま、目につくものすべてに反応する。


「これかわいい!」

「おみせ入るの?」

「ねえ見て!」


⸻


菫はそのたびに優しく答えながら歩く。


その横で榮助は、少し後ろから全体を見ている。


だが、その視線はもう“監視”ではなかった。


⸻


ただの確認。


ただの同行。


そして、少しだけ“家族の距離”に近いもの。


⸻


「ここで少し買い物をしましょうか」


菫が言うと、桜はすぐに頷く。


「いく!」


⸻


店の中は木の香りがする土産物屋だった。


地元の菓子、工芸品、雑貨。


観光地らしい落ち着いた空気。


⸻


桜は小さなキーホルダーを見つけては手に取る。


「これママにあげる!」


⸻


菫は少し驚いてから微笑む。


「ありがとう、嬉しいわ」


⸻


榮助はその様子を見ながら、静かにカゴを手に取る。


⸻


そして、そこから“買い物モード”に入った。


⸻


彼の選び方は迷いがない。


一つずつ、目的別に分けていくような動きだった。


⸻


「これは柊木家へ」


「これは柿沼家へ」


「これは会社関係者へ」


⸻


菫が横で見ながら少し呟く。


「そんなに買うんですか?」


⸻


榮助は短く答える。


「必要数です」


⸻


「……必要数って」


菫は少しだけ困ったように笑う。


⸻


だが、その中にはちゃんと“気遣い”があった。


⸻


柊木斗真、鳴海、燈子、玲子。


柿沼健二郎、美枝子、智恵子。


それぞれに合う土産を選び分けていく。


⸻


菫はその横顔を見ながら、少しだけ目を細める。


(本当に、こういうところは変わらない)


⸻


桜はその間、店の中を楽しそうに歩き回っている。


⸻


そして買い物を終えた三人は、再び外へ出た。


⸻


午後の光はさらに柔らかくなっていた。


影が長く伸び始める時間。


⸻


歩きながら、桜がふと立ち止まる。


「ねえ、あれ!」


⸻


小さな広場だった。


噴水とベンチがあるだけの静かな場所。


⸻


「少し休みましょうか」


菫が言うと、桜はすぐにベンチへ駆けていく。


⸻


榮助と菫もその後ろに続いた。


⸻


ベンチに座った瞬間、街の音が少し遠くなる。


⸻


桜は飲み物を飲みながら、足をぶらぶらさせている。


完全に安心した顔だった。


⸻


菫はその横で静かに息を吐く。


「少し落ち着きますね」


⸻


榮助は短く頷く。


「環境は安定しています」


⸻


その言葉に、菫は軽く笑う。


「今日は評価じゃなくていいんですよ」


⸻


榮助は少しだけ間を置く。


「……理解しています」


⸻


その瞬間だった。


⸻


榮助がわずかに身体を動かし、菫の方へ視線を向ける。


⸻


距離は近い。


誰にも邪魔されない空間。


⸻


「失礼します」


⸻


その言葉はいつもの癖のようなものだった。


⸻


次の瞬間、榮助は菫の唇に静かに触れた。


⸻


最初は短く、軽い接触。


しかし、すぐにそれは深さを増す。


⸻


菫は一瞬だけ驚いたように目を見開く。


「……っ」


⸻


だが離れない。


離れられないというより、榮助の手がそれを許さない。


⸻


自然と、時間が止まるような感覚。


⸻


その横で――


⸻


「また、2人ともキスしてるー」


⸻


桜の声が響く。


⸻


その一言で、菫の意識が現実に引き戻される。


⸻


「さ、桜……!」


⸻


菫は慌てて離れようとする。


だが榮助は、まだ少しだけ距離を保ったままだった。


⸻


唇が離れない。


というより、離すタイミングが遅れている。


⸻


ほんの数秒。


しかしその数秒がやけに長く感じられる。


⸻


やがて、ようやく距離が戻る。


⸻


菫は少し息を整えながら榮助を見る。


「……もう」


⸻


榮助はいつも通りの表情だった。


だが、視線だけが少しだけ柔らかい。


⸻


「問題ありません」


⸻


菫は小さくため息をつく。


「問題あると思います」


⸻


桜は楽しそうに笑っている。


「ママとパパ、なかよしー!」


⸻


その無邪気な一言に、菫は何も言えなくなる。


⸻


榮助は静かに立ち上がる。


そして桜の方へ手を伸ばす。


⸻


「そろそろ移動しますか」


⸻


桜はすぐに立ち上がる。


「うん!」


⸻


菫も立ち上がる。


少しだけ頬を整えながら。


⸻


三人は再び歩き出す。


⸻


夕方へ向かう街の中で、影が少しずつ伸びていく。


⸻


その中で、菫は小さく呟く。


「今日は……よく動きますね」


⸻


榮助は前を見ながら答える。


「時間があるためです」


⸻


菫は少しだけ笑う。


「そういう意味じゃないんですけど」


⸻


桜は二人の間で楽しそうに歩いている。


⸻


その光景は、どこから見ても“家族”だった。


⸻


ただ少しだけ、距離が近すぎる家族だった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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