夢見
パチリパチリと炎が揺れる。その明かりを頼りに、シュテルンで新たに購入したばかりの本を読み進めていた。今日は私が夜番なので、他の者達はテントで眠っている。
こうして人と共に時を過ごすのは実に二十五年ぶりだ。そのせいだろうか? 昨晩は遠い昔の夢を見た。何も知らずに弟の前で笑っていた、愚かな自分の夢を。
世界の理、その一端を知った今でも時折思うことがある。あれが運命ではなく、可変的なものであればどんなに良かっただろうと。
ページをめくる手を止める。紙の上で整列する文字を指先でなぞり、遠いあの日を思った。
焚き火が記憶の中の暖炉と重なる。あれは雪が降りしきる日だった。
「兄さん、今日は卒業試験の合否が分かる日なんでしょ?」
暖炉の火が暖かなリビングにて。三歳下の弟、レギネが教本を読みながら問う。長く伸ばされたオレンジの前髪が目に被さって、私と同じ金色の目がよく見えない。
「ああ、そうだが……レギネ、お前はそろそろ髪を切るべきじゃないか?」
「……別にいいよ。俺は勉強を頑張らないといけないし、適当に切って変な髪型になるのもイヤ」
ぽつりと呟いたレギネは教本に栞を挟んで閉じ、別の教本へと手を伸ばす。栞に結ばれた深い青色の結び紐が揺れる。
今年で十一歳になる彼だが、母さん曰く今年は進級できなかったらしい。あの学校で留年するというのは私にはよく分からないが……人には得意不得意があるということくらいは私でも知っている。つまりそういうことなのだろう。
落ち込むことはない。まだクラスの低い学校へ転校させられた訳じゃないのだから。真面目な私の弟ならば、ここから巻き返せるだろう。
「一年余分に時間ができたんだ、基礎を固める良い機会じゃないか」
「そうかもね」
レギネは保有魔力量が少ない私と違って、平均的な人と比べても保有魔力量が多い。だが魔法の才はあまりないようだった。ただその代わりに剣術の才があると思っている。
「帰ってきたら私が勉強を教えよう。それに身体強化の方法も教える。そうすればその魔力も活用できるだろう?」
「なに、また夢の話?」
「そうだ。私が魔術を、そしてお前が剣術を。きっと私達は最高のパーティになる。問題は私の保有魔力量だが、それは補う方法を模索すればいい」
「兄さんはそればっかりだ」
ハッと笑ったレギネの小さな指がページをめくる。
どうも彼には学校という場は合っていないように思う。彼は勉学よりも、冒険に身を置いた方が輝ける……そう私の直感が言っていた。
「悪くないだろう? 一緒に世界中を冒険するんだ。なにも勉強にこだわることはない、できることをやればいい」
レギネはちらりとこちらを見ると、玄関の方を向く。
「……そろそろ行ったら? 母さん達、もう準備して待ってるんでしょ」
「ああ、そうだな。ついてこなくてもいいと思うんだが……」
「卒業できるかどうかがかかってるんだ、それくらいするんじゃないの?」
再び教本に目を向けたレギネの肩に手を置いた。
「レギネは来ないのか?」
「いいよ。俺は勉強しないとだし……どうせ合格してるって分かるから」
そっと肩に置いた手を外される。
「……そうか。お前にそう言われるのは、なんだか照れるな」
たしかに合格している自信はあった。共に勉学に励む者達からも「レイスなら絶対合格してるよ」と声をかけられていた。中には媚びへつらう愚か者も多かったが。
でも、レギネの信頼はそんな者達の言葉とは違う。
世間は私を神童と呼んだ。保有魔力量の少なさを指し、悲劇の神童だとも。
私からすれば、できて当然のことをしているだけに過ぎない。それを外野からどうのこうのと口を出されるのは耳障りとさえ思う。母さんや父さんまで乗るのだから困ったものだ。
それでもレギネだけは私自身を見てくれる。だから彼の隣はとても心が安らぐのだ。
「ほら、母さんが呼んでるよ。早く行ったらどう? そろそろ時間でしょ」
「そうだな、流石に遅刻するのはよくない。行ってくる」
返事はなかった。振り返ると、真剣に教本を読み込んでいる。これ以上は邪魔になってしまう。いい兄として、それは避けなければならない。
玄関では母さんと父さんが待っていた。連れ立って大学へ向かう。
結果は予想通り満点の合格だった。何度も見直し、ミスを徹底的に潰したのだから当然とも言える。
自分よりも背の高い学生達に埋もれながらも自分の順位を確認する。満点なのだから当然だが、私が首席のようだ。
「よくやったわ、レイス。さすがよ」
「お前は自慢の息子だな」
母さんと父さんに頭を撫でられる。我が物顔なのは気に食わないが、頭を撫でるこの手はそこまで嫌いではない。
今日は短時間で終わるから、三人でシュトレンを買って家に帰る。レギネはシュトレンがあまり好きじゃないから、代わりに好きだっていうケーゼトルテも買った。彼はこのさっぱりとしたチーズの風味豊かなケーキが好物らしいから。母さんと父さんは知らないみたいだけど、ケーキを買って帰るとレギネは決まってこのケーキを取っていたから好きなんだと思う。
「ただいま、レギネ」
家に帰ると、リビングの明かりが消えていた。自室に戻ったのだろうか?
「レギネ? ケーゼトルテを買ってきたから、一緒に食べよう」
階段を登り、彼の自室の扉を叩く。さてはまた集中しているのだな。それかうたた寝でもしているのだろうか。だとしたら風邪をひいてしまう。
「レギネ、ずっと勉強していたのか? そろそろ疲れただろう。休憩でも」
扉を開ける。
宙に浮く足が視界に入った。
指先が赤く染まった腕がだらんと垂れている。
「レギネ……?」
乱れたオレンジの髪の奥、濁った金色の目と目が合う。縄が食い込んだ首には無数の掻き傷がついていた。
ああ、そうだ。私は愚かだった。それを突きつけたのは、他ならない彼の遺書。
そこには彼が抱えていた劣等感が、私へ向けた恨みが、憎悪が……彼らしくもない乱暴な字で書かれていた。
――いつも、いつもいつもいつも、兄さんばかりが持ち上げられる。俺だって全てを投げ打って勉強しているのに、どうして俺は報われないんだ? どうして誰も俺を見てくれないんだ? なのにどうして、兄さんだけは俺を見るんだ。
誰も彼も、見ず知らずの他人さえも俺と兄さんを比べたがる。せっかく兄さんが忘れてきた魔力量を持って生まれてきたのにって、いつもそればかり。
知ってた? 兄さんが褒めてくれた剣術。俺だって、あれなら兄さんに勝てると思っていたよ。なのに母さんも父さんも、そんな遊びは何の役にも立たないって言ったんだ。
兄さんはどんな気持ちで俺を見ていたの? 馬鹿だなって思ってた?
知ってるよ。きっと今日、兄さんは首席で合格するんだ。そして俺の分のケーキまで買って帰ってくる。もううんざりなんだよ。
だから俺は全てを捨てることにしたんだ。兄さんが輝かしい未来への一歩を踏み出す今日のような良き日に俺がいなくなれば、少しくらい母さんも父さんも俺を見てくれるはずだから。
卒業おめでとう。さよなら、大嫌いな兄さん。
何も知らなかった。彼がそんなものを抱えていただなんて。
なにより信じられなかったのは、母さんの言葉だった。
「よりによって今日だなんて、最後まで出来損ないなのね」
それを父さんも、世間も、誰も彼もが否定しないから。だから私は世を隔てることにした。母さんと父さんには何も言わないで、私の私物だけを持って家を出た。たった一枚の書き置きだけを残して。
目を開ければ、揺れる炎が見える。
そろそろ世間は私を忘れているだろう。そして私は忘却ノ迷宮に興味があった。だからこそ、彼らの誘いに乗った。これも何かの縁なのだろうと。
私が私の意思で動いたところで、それらはすべて定められた運命なのだと知っている。だからこそ私は私の選択を尊重する。他ならない私が決めたものとして、私自身が後悔のない選択をし、その先にある運命を享受すると決めた。
嗚呼、レギネ。あの日お前と共にしたいと思っていた夢を、今になって追いかけている。そんな私をお前はどのような思いで見ているのだろう。
彼らは羨み妬むばかりしか、そして媚びへつらうばかりしか能のない愚者とは違う。お前のように自らの手で欲しいものを掴み取ろうとする者達だった。無駄に広まってしまった私の名を知らない、私自身を見てくれる者達だった。
ならば私は、それに恥じない働きをするべきだろうか。
この選択がどのような運命へ繋がるのか、まだ知らない。だからこそ後悔のない選択を選びたいと思う。
レギネ。私の愛する弟。どうか愚かな兄の行先を見守っていてくれ。




