036 異質
「……何?」
聖女?
どういう意味だ。あまりに突飛な言葉に、思わず動きを止めてしまう。
聖女というのは、どういう意味だ。この世界において聖女とはだいたい、アルフィリア王国に数千年に一度生まれるという光魔法の使い手のことだが。
なぜ聖協会の枢機卿が私を見て『聖女の匂いがする』などと――。
「キミの正体が気になるな。なぜこんなところにキミみたいなのがいるのか、甚だ疑問だ。ぜひ正体を知りたいところだけれど、何者なのか聞いても答えてくれないのだろうね」
「何を言って……」
「やはり聖女は生まれていたということなのか……まあ、いいか。今僕が気にすべきことはそこじゃないのだし。キミのことは気になるけれど」
けぶるような白金の睫毛が、ふと銀の瞳に影を落とす。
いっそ禍々しいとすら言える美しさを持つその双眸が、ふと横で刺突剣使いを相手に防戦一方のハースを映す。
――まずい!
刹那。足元からせり上がってくるような悪寒に衝き動かされ、私は闇魔法で生成した刀を振るっていた。
「蒼月流抜刀術居合奥義――『六花』!」
横薙ぎに一閃した黒い刀から闇が膨れ上がり、生み出された刃が瞬きする間もなく枢機卿に迫る。
そして甲高い音を立てて、まさに枢機卿の手によってハースの首筋に突き立てられようとしていた錐が、粉々に砕け散った。
「おや」
枢機卿が手から落ち、割れた錐のような暗器を見てぽつりと零す。「速いね。素晴らしい」
私は闇魔法で維持していた刀を消し、額に滲んだ汗を拭う。
ハースも、刺突剣の男も、音と枢機卿を見て固まり、動かない。
……信じられん。この、化け物が。
私は肩で息をしながら片膝をつく。子どもの身体で闇魔法を使いすぎたせいで、疲労が四肢に早速響いてきたのだ。
――ハースは、戦っていた。戦っている最中だったのだ。
二人のうち一人だけとはいえ、凄腕の刺突剣使いとだ。一級騎士にも及ぶ実力の相手の攻撃を必死に躱し、防いでいる戦いの最中だ。どれほど素早く動かねばならない状況であるかは想像に難くないだろう。
それを、この枢機卿の男は、戦っているハースの首を、正確に狙った。
動きを予測して暗器を投げようとしたのではない。戦いに割り込んで首を狙おうとしたのだ――予備動作も見せず、ひどく自然な動きで。
「今の斬撃は……なんだろう。どこかで見た気がするけれど、忘れてしまった。闇魔法と併用して攻撃したのかな。速すぎて気づかなかったよ」
足元に散らばった錐の破片を拾い上げ、枢機卿はほんの僅かに微笑む。
自由に話す目の前の男以外、誰も動けない。この男の発する異様な空気に呑まれ、息をすることも難しい。
……『前回』では、聖シャルル共和国の枢機卿を目にする機会などなかった。故に彼らがどういった存在なのかを、私は詳しく知らない。知っているのは、共和国において、中央政府よりも影響力を持つ権力者だ、ということくらいだ。
しかし、違う。
なんだ、なんなんだこの異質さは。こんな空気を持つ男が、ただの権力者のはずがない。
魔法力の気配はないため、その他の共和国人と同様に魔法は使えないのだろう。
だが、強い。得体の知れない力を秘めているとしか、思えない。
「強いね、そこの仮面の子。ああ、キミにさらに興味が湧いてしまったな」
甘く溶けるような恍惚とした声に、慄く。本能的な恐怖が全神経を支配する。
……勝てるのか、この男に。『クロード』であった頃の肉体であればともかく、子どもの身体で、かつ、武器もないこの状況で。
逃げるか。否、この状況でそれは悪手だ。そもそもハースが空気に呑まれて動けていない。
「まあ、いいかな。かなり消耗するだろうからキミとはなるべく戦いたくないし、聖女の匂いも気になるし。そもそも彼らに乗ったのも、教皇様のためというよりは僕の興味だ。好きなようにやらせてもらうことにするよ」
「は……? 何をおっしゃっているのです」
「えい」
か。
眉を顰めたウェスタ侯爵が口を挟もうとした、まさにその刹那。
懐から新たなナイフを取り出した枢機卿の手によって――ウェスタ侯爵の首が、刎ね飛ばされた。
「は?」
一言、間抜けな声を漏らして――その首が地面落ちる前に、ウェスタ侯爵は目から光を消した。
そしてやや遅れて、頭を失った身体が大きく前に傾き、どさりと崩れ落ちる。
「きゃああああああ!」
エントランスから惨状が見えたのだろう、使用人たちの甲高い悲鳴が耳を劈いた。
……待て、今、何が起きた。どういうことだ。
ナイフを取り出して首を刎ねたのは見えた。……しかし、動けなかった。
小さな刃物で人の首を刎ねるということ自体は、まだいい。一級騎士くらいになれば、魔法なしでもそのくらいできる人間はいるだろう。
だが、あまりに無造作で、その動作を『首を刎ねる』ものだと認識するまでに時間がかかった。
そもそも、何故こいつはウェスタ侯爵を殺した?
協力関係ではなかったのか? 邪魔者になったという場面では、まだないはずだが――。
「お前たちは捕まって、近衛騎士隊の有利になるような証言をすること。いいね?」
「はい猊下」
「仰せのままに」
「っ、おい待て、何を」
枢機卿の命に、大人しく剣を下げる二人の護衛らしき男。
狂信者の目だ。対立する国の捕虜となれという命令でも、受け入れるのが当然という目。枢機卿の言葉に、疑いすら持たない、人形のような目。
「彼らの証言を上手く使ってくれることを願うよ。アルフィリア王家の潰し合いは楽しそうだから、もしかしたら僕もまたお邪魔することになるかもしれない」
それではね。
銀色の目を細め、枢機卿の男は笑う。
異様な空気の中、誰も動けず、何も言えないまま――彼は悠々とその場を立ち去って行った。