第2章 ユリアとの日常
姉という家族が一人増えて、今までの生活が一変するかと思いきや、別にそんなことはなかった。
平日の昼はほとんど小学校にいるし、家に帰ってからも大概は遊びに行ってしまう。よってユリアと一緒にいられる時間は、朝起きてから登校するまで、帰ってから寝るまで、そして休日だけだ。
ただ姉の存在自体は素直に受け入れられたとはいえ、彼女が僕の生活にどのように影響するのか、最初は戸惑いを隠せなかった。その彼女がアンドロイドだから、特に。
***
「たっくぅん。たっくぅん」
朝、起床時間。
夢と現の間を行ったり来たりしながら床に伏せていると、意識の端で僕の名前を呼ぶそんな甘ったるい声が聞こえた。普段の起床時には、常に母親が起こしてくれる。けど母親の声はこんな猫を撫でるような優しいものではないし、しかも近い。いつもは部屋の扉を開け、朝だよと呼びかけるだけなのに。
自分はまだ夢の中にいるんだろうか?
そんな結論で、浮かんだ疑問を払拭させたのだが。
徐々に現実へとピントが合わさる視界と同時に、下腹部に違和感を覚えた。変に重い。
耳では外で鳴く鳥の囀りを拾い、肌には柔らかい布団の質感が蘇ってくる。電灯は消えているものの、窓から差し込む朝の日差しが、自室内を鮮明に映し出していた。
間違いなく、いつもの朝だ。たった一つを除いて。
布団に横たわる僕の腰辺りで、ユリアが跨るようにして座っていた。
しかも、何故か裸の上にYシャツ一枚の姿で。
「うわああぁ!」
驚きのあまり、叫んでしまった。ただ身体を退けようにも、彼女の体重で下腹部を拘束されているため、まったく動くことができない。故に、真正面から姉と対峙しながら叫び声を上げるという滑稽な形になってしまった。
「おはよう」
しかし彼女は、僕の驚愕を意にも介さず、清々しい朝を具現化した笑顔でそう宣った。
「お……」
ようやく現状に理解が追い付き、朝の挨拶を返そうと思うも、声が詰まってしまった。
僕の視線の先は、ユリアの胸元。いくらアンドロイドとわかっているとはいえ、起きぬけに胸の谷間が見える美人なお姉さんが目の前にいたら、そりゃ照れる。ウブで女の子と会話した経験がそんなにない僕にとっては、刺激が強い。
「……おはよう」
彼女から視線を引き剥がし、唇を尖らして挨拶を返した。それに対し、彼女はニコニコと擬音語が目に見えるくらいの笑顔を披露するばかり。
そして拒否することもできないまま、ユリアが僕を起こすのは、いつの間にか毎日の日課となってしまった。
***
朝食時。
両親が共働きとはいえ、時間の関係上、朝食時には全員揃う。いつもなら、これまた母親が簡素な朝食を用意してくれているものの、今日に限って……いや、その日からほぼ毎日、ユリアがキッチンに立つことになっていた。当然のことながら立っているだけではなく、母の手助けなしで朝食を作っている。しかも味も見た目も、母親に勝るとも劣らない出来だ。
「助かるわぁ」
これもデータ採取の一環らしいのだが、母のその感想は本音に違いない。家事だけならともかく、その後に仕事に行くとなれば、それなりに辛いものがあっただろうから。
そして父親の感想は、声ではなく顔に出ていた。
上半身は裸の上にYシャツ一枚、下半身は下着一枚という恰好でキッチンに立つユリアを眺めながら、鼻の下を伸ばすエロ親父。その後、不満を漏らした母親が父親をどつき、ユリアがしっかりと服を着るようになったことは、言うまでもない。
うーん。実は僕としても、ちょっと残念だったりする。
***
昼。
僕は小学校に通い、両親が会社に行っている間、もちろんユリアは家にいる。そのとき彼女が一人で何をしているのかは、僕にとって知る由もない。
だからそこは、母親から大まかなことを聞いた。
なんでもユリアには、家事全般を任せているらしい。掃除、洗濯、買い物。家の中ではともかく、アンドロイドであるユリアが、外で他人と円滑に触れ合えるのかは疑問である。
がしかし、ユリアを造った後の最初の仕事として、母親は陰ながら彼女を監視しているらしいのだ。日常生活が送れるかどうかのデータを集めているのだから、当然といえば当然か。しかも母親が言うには、対人関係はすべて良好、オールクリアらしい。これで主観的にも客観的にも、ユリアが人間とほぼ同等の行動ができることが証明された。
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夕方。そして夜。
その時間帯では、姉ができたことは僕にとって劇的な変化だったと言えよう。
家に帰っても、必ず誰かいる。「ただいま」の声に、ちゃんと「おかえり」を返してくれる。友達と遊ぶ約束がない日であっても、遠慮なく甘えられるユリアが側にいることが、僕を孤独という文字から遠ざけてくれた。
それに帰りが遅い両親。母親の手料理など休日にしか食べられず、いつもコンビニ弁当かカップラーメンで済ませていた僕にとって、ユリアが夕食を作ってくれることは、神の恵みに等しい幸福感をもたらしてくれた。
栄養の整った食卓はもちろんのこと、食事中に誰かと会話をできることが、何よりも。
「い、いいよ! 僕はもう四年生なんだから、子供じゃないよ!」
「たっくんはまだまだお子様だよ」
うふふと愛嬌のある笑みを浮かべて、ユリアが僕の額を人差指で小突いた。
いくら僕がユリアに甘えているからといって、添い寝だけは断固として拒否した。小学四年生にもなって、お姉ちゃんと一緒に寝るのは恥ずかしいにも程がある。
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このようにして、ユリアが小宮山家に迎え入れられてからの一日は終了する。
しかし忘れてはいけない。外見も振る舞いもどれだけ人間らしく見えようとも、ユリアは人型ロボット――アンドロイドなのだ。