第6話 瘴気病は、呪いではありません
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「ふぅ。……ごちそうさまでした」
温かいシチューを完食した俺は、黒い往診バッグの持ち手を握り直した。
「気に入ったよ。やっぱり、やる気と食い気はセットじゃないとね!」
ガハハと豪快に笑ったモルガナが、俺の背中をバチンと叩いた。
「さあ、ぐずぐずしなさんな。ゴランの家はこっちだよ」
彼女は派手なエプロンを翻し、ギルドの重い扉を勢いよく開けて外へ出た。
俺は、足元で弾むプルと、背後で不安そうにブランケットの端を握りしめているリコを振り返り、小さく頷いてから後に続いた。
ルミナ村の通りは、建ち並ぶ家々の影が長く伸び、独特の閉塞感に包まれていた。瘴気の森が近いせいか、どの建物の壁も心なしか黒ずんで見える。
村の空気そのものは致命的ではないはずだが、住人たちの顔には、目に見えない汚染への怯えが張り付いていた。リコはタオルで隠した耳をそばだて、すれ違う村人の視線を避けるように、俺の影に隠れて歩いている。
「村の連中はみんな、瘴気を恐れて内側に、内側にと家を建てたがる。だから、道がこんなに狭っ苦しいのさ」
モルガナの言葉通り、石造りの家々がひしめき合う迷路のような細い路地を進んでいく。
やがて、村の中央部、少し開けた場所にその建物はあった。
「あそこだよ。この村で一番マシな石材を使って建てられた、村長の屋敷さ」
モルガナが指差したのは、他の民家とは一線を画す、威厳のある二階建ての石造りの屋敷だった。頑丈そうな石積みの壁と、鉄の補強が入った重厚な木製の門扉が、村を束ねる一族の歴史を物語っている。
「さあ、行くよ。あんたが『医者』だってところ、見せてもらうからね」
モルガナが迷いなく重厚な門を叩き、俺たちは静まり返った屋敷へと足を踏み入れた。
リコは一瞬、門の前で足が止まったが、俺が「大丈夫だ」と短く声をかけると、意を決したように深く外套を被り直して門を潜った。
案内された二階の寝室は、瘴気を恐れて窓がすべて固く閉め切られ、独特の澱んだ匂いが充満していた。
「……ああ、ゴランさん。ごめんなさい、私の力が、足りなくて……」
ベッドの傍らでは、二十代後半ほどの女性――治癒士のエーリスが、疲労で青ざめた顔を上げた。
涙は浮かんでいる。だが、乱れた袖口をすぐに整え、ミーナの手を離さない姿勢には、最後まで患者のそばを離れない者の意地があった。
その視線の先では、十歳くらいの少女ミーナが、浅く速い呼吸を繰り返している。喉からは「ひゅう、ひゅう」と、嫌な音が漏れていた。
「ゴラン、連れてきたよ。こいつはワタル。見た目は頼りないが、診る目はある」
モルガナはそう言って、親指で俺を示した。
「ワタル……? 治癒士なのか?」
「治癒士ではありません。ただ、診察はできます」
部屋の隅で気配を消し、壁に背を預けるリコの視線を感じながら、俺は一歩前へ出た。
「まず、窓を開けて換気してください」
俺の声に、村長ゴランが血相を変えて食ってかかった。
「何を言っている! 村には瘴気はないとはいえ、瘴気の森にも近いんだぞ。仮に瘴気を引き込んだらどうなるか。ミーナを殺す気か!」
「黙って見てな、ゴラン。あたしが保証する男だ」
後ろに控えていたモルガナの一喝に続き、俺は冷静に付け加えた。
「閉め切った空気の中に、汚染がこもっています。今危険なのは、外気ではなくこの部屋の空気です。窓を開けてください。プルが流れ込む空気ごと浄化します」
俺は窓を開け放つと、窓際にプルを置いた。
「プル、頼むぞ」
『ぷるるっ!』
窓を開けると清涼な風が室内へ流れ込む。それだけで、ミーナの表情がわずかに和らいだ。プルはミーナの周りの僅かな汚染をじゅうじゅうと音を立てて浄化した。
俺はベッドに歩み寄り、『絶対診察眼』を起動した。
視界に透過図が重なる。喉元から鎖骨の下にかけて、気道周辺の組織に絡みつくように蠢く「黒い糸」のような影が見えた。
「これは、呪いではありません」
俺の言葉に、部屋の空気が凍りついた。
「瘴気病は、呪いではありません。だからこそ、治療できます」
「うそっ……! 治癒魔法が効かないのは、魔物の強力な呪いだからだと、どの本にも……!」
エーリスがすがるように俺を見た。
俺は彼女の目を見て、穏やかに、しかし断定的に告げた。
「エーリスさん。あなたの力が足りないのではありません。『順番』が違うだけです」
「……順番?」
「魔物から人にうつる病気です。俺のいた世界では、人と動物の間でうつる病気を、人獣共通感染症――ズーノーシスと呼んでいました。今回のこれは、寄生虫に近い。大事なのは、原因が物理的に体の中にあるということです」
俺は往診バッグからメスとピンセットを取り出した。
「エーリスさん。俺が異物を摘出します。その間、バイタルの監視をお願いできますか?」
「……バイタル?」
「ミーナちゃんの脈拍や、魔力の流れです。変化があったらすぐに教えてほしい」
エーリスは戸惑い、しかし俺の「道具」の清潔な輝きと迷いのない手つきを見て、一瞬で「現場の顔」に戻った。
「……わかりました。脈が弱くなったら、すぐに伝えます」
「プル、少しだけ冷やせるか。痛みを抑えたい」
プルが切開予定の周囲だけを、ひんやりと冷やす。冷却で痛覚を鈍らせ、同時に滲み出る黒い汚染を吸い取っていく。
俺は慎重に、黒い影が最も密集している箇所の皮膚をわずかに切開した。
「一本、二本……」
組織の奥に絡みついていた黒い糸のようなそれを、切らないよう、絡ませないよう、ピンセットで慎重に引き出していく。摘出されたものはプルの体表に触れた瞬間、じゅっと煙を上げて消滅していった。
リコは、息を呑んで俺の横顔を見つめていた。さっき男たちを言葉で追い払った時とは違う。今の俺は、ただ患者だけを見ていた。
「脈、少し速くなっています。……でも、呼吸が、深くなってきました!」
エーリスの声に力が宿る。
「よし、最後の一本だ。……抜けた」
絶対診察眼の透過図から、黒い影が消える。俺は生理食塩水で切開部を洗い、残った黒い滲出液をプルに吸わせた。生理食塩水は本当なら惜しむべき残量だったが、ここで使わない理由はない。
それを確認した瞬間、ミーナの荒かった呼吸が少しずつ深くなり、喉の「ひゅうひゅう」という音が弱まっていった。
「エーリスさん、今です。魔法を。……ただし、完全には塞がないでください。排出路を少し残して、止血と組織の安定化に留めて」
「はいっ!」
彼女の手から放たれた柔らかな光が、俺の切開した傷を優しく包み込む。魔法が「弾かれる」ことは、もうなかった。医学が道を作り、魔法がそれを補完する。
「……ふぅ」
プルは足元で、少しだけ平たくなっていた。
「……お前も疲れたな。あとで休もう」
俺は道具を消毒し、往診バッグに収めた。
「完治ではありません。ですが、峠は越えました。水分をこまめに摂らせて、このまま換気を続けてください。明日の朝、もう一度診ます」
ゴランが腰を抜かしたように座り込み、ミーナの手を握って泣き始めた。
エーリスもまた、安堵の涙を拭いながら、俺をまっすぐに見つめた。
「ワタルさん……私、もっと勉強しなきゃいけませんね。また、教えていただけますか?」
「俺こそ、あなたの正確な観察と魔法に助けられました。また明日、相談させてください」
俺は立ち上がり、ゴランに向き直った。
「今日はこのまま、換気とこまめな水分補給を続けてください。経過を診るために、明日の朝もう一度往診に来ます」
ゴランは、まだ震える声で何度も頷いた。
「……ああ、恩に着る。先生、報酬については、明日の診察の時にまとめて支払わせてくれ。必ず、相応の用意をさせてもらう」
俺は「わかりました。では、失礼します」と短く返し、バッグを肩にかけた。
屋敷を出ると、夜の空気は驚くほど静かだった。リコは俺の半歩後ろを歩きながら、ふと夜空を見上げた。変装のタオルの下で、彼女の耳がわずかに動いたような気がした。
俺は歩きながら、頭の中に新しいカルテを書き込んだ。
【患者個別カルテ:ミーナ】
年齢:10歳。
主訴:瘴気病と診断された発熱、呼吸苦。
所見:魔物由来寄生虫、黒色汚染を伴う喉元組織の炎症。
処置:換気、寄生虫摘出、洗浄、プルによる汚染除去、治癒魔法による組織安定化。
経過:峠は越えた。翌朝再診。
特記事項:治癒士エーリスとの連携、有効。
村の夜風は、これまでよりもずっと軽く感じられた。
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