目覚めれば劉禅 ―― 現代日本人は「阿斗」として立ち上がる
暗闇の底から浮かび上がるように、意識が戻った。
石川裕介は、まず自分の呼吸の音を聞いた。
浅く、どこか他人のもののような息づかい。
目を開けると、見知らぬ天井があった。
木の梁、揺れる香煙、薄い絹の帳。
アパートの天井でもない。
ここは、どこだ。
身体を起こそうとした瞬間、腕が妙に軽い。
自分のものではないような、細く柔らかい感触。
視界の端に、絹の袖が揺れた。
(……え?)
混乱が胸を締めつける。
自分の手ではない。
肌の色も、骨格も、指の長さも違う。
そのとき、部屋の隅で衣擦れの音がした。
「陛下。お気づきになられましたか」
低く落ち着いた声。
振り向くと、鎧をまとった男が、深く頭を下げていた。
陛下。
その言葉が、裕介の思考を一瞬止める。
「え、あ?」
声が掠れ、知らない響きが喉から漏れた。
自分の声ではない。
だが、確かに自分が発している。
紅陽は慎重に近づき、表情を崩さずに言う。
「草原で気を失っておられました。
お怪我はありません。どうかご安心を」
草原?
気を失った?
いや、それ以前に――。
(俺は、死んだのか?)
最後の記憶が、胸の奥で鈍く疼く。
事故の衝撃。
途切れた意識。
そして、暗闇。
裕介は震える指先を見つめた。
そして、どこか、歴史の教科書で見たような衣装。
「ここはどこなんだ」
思わず漏れた呟きに、紅陽がわずかに眉を寄せた。
「宮中でございます、陛下。
ご気分が優れぬのは、気絶の影響でしょう」
宮中。
陛下。
その単語が、ゆっくりと、しかし確実に現実を形づくっていく。
紅陽が続ける。
「劉禅陛下。どうか、今はお休みを」
劉禅。
その名が、胸の奥に冷たい衝撃となって落ちた。
――俺は、劉禅になっている。
理解が追いつかない。
だが、目の前の現実は揺らがない。
自分の手、自分の声、自分を“陛下”と呼ぶ男。
裕介は、喉の奥で乾いた息を呑んだ。
(……転生したのか。
しかも、よりによって……劉禅、蜀の皇帝に)
冬の風が障子を鳴らした。
その音が、現実を突きつけるように冷たかった。




