第六章 イリスとの出会い
彼女は、酒場の奥の席を指差した。
石造りの壁に囲まれた、四人掛けの小卓。蝋燭が一本、卓の真ん中で揺れている。
俺は、頷いて、後を追った。
着いた席で、彼女は、フードを脱いだ。
長い銀髪が、肩に落ちた。
耳が、緩く尖っていた。
二十七歳、と彼女は最初に名乗った。エルフ族としては、人間で言えば二十代後半の感覚らしい。
「イリス・カラスティアと申します。森林辺境の弓士です」
彼女の声は、低めで、節のある話し方をした。
言葉の選び方が、慎重だった。
俺は、メニューも見ずに、湯気の上がる粥と、薄い葡萄酒を頼んだ。
九年間、徹夜のときに飲んでいたインスタントスープより、ずっと、温かい匂いがする。
「ご相談、というのは」
「両親の遺品の中に、どうしても読めない一頁が、ございます」
彼女は、布で包んだ薄い手記を、卓の上に置いた。
表紙の革が擦り切れている。長く、誰かが指で繰り返し撫でた跡。
俺は、布を解いた。
布の中から、葉脈のように細い文字の並ぶ羊皮紙が現れた。
「両親は、人間語とエルフ語の通訳を、生業にしておりました」
俺は、頁の上の文字を、目で追った。
頭の中の翻訳メモリが、ゆっくり、静かに、答えを返してきた。
俺は、息を整えた。
それから、口を、開いた。
「私たちの娘、イリスへ」
イリスの肩が、わずかに、震えた。
「言葉が違うから人は殺し合うのではない。理解しようとする勇気が足りないから殺し合うのだ。お前は、両方の世界の橋になれる子だ。橋であることは、孤独な仕事だ。でも、橋の上で出会う人々のために、ふらつかず、立ち続けなさい。
お前を、いつでも、誇りに思っている。母さんと父さんより」
卓の上で、蝋燭の炎が、一度、深く息をした。
イリスは、しばらく、無言だった。
声を出さずに、唇だけが、何度も、両親、と動いた。
彼女の頬の上を、一筋、銀のものが、滑り落ちた。
彼女は、すぐに、それを指で拭った。
拭った指を、もう一度、卓の縁に揃えて、姿勢を正した。
俺は、何も言わずに、葡萄酒の杯を、彼女の前に滑らせた。
彼女は、それを、両手で受け取った。
「ありがとうございます。サクヤ殿」
「いえ。お役に立てて、よかったです」
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
酒場の喧騒が、卓のまわりだけ、薄かった。
ややあって、イリスは、薄い葡萄酒を一口、飲んだ。
飲んでから、彼女は、両親について話し始めた。
彼女の両親は、二十年前、人間とエルフの和平交渉で、通訳の任を負っていた。
会談は順調に進んでいた。だが、会場の外で、強硬派の人間兵士が、エルフの旗手と口論になり、その口論の最中、両親の通訳の一言が「侵略の意図あり」と、両陣営の強硬派双方に誤解された。
訳した本人たちは、その瞬間、自分たちの訳が誤解されたことすら知らなかった。
両軍が混乱した状況下で、両親は、人間側からも、エルフ側からも、互いの矢を受けて死んだ。
会場の混乱が収まったあと、誰も、両親の名前を覚えていなかった。
ただ、両親が訳した最後の一言が、史書に「両親の最後の通訳」と一行だけ、残った。
イリスは、淡々と、それを語った。
淡々と語る声が、かえって、痛々しかった。
「私は、両親のように、人間とエルフの間に立つのが、怖いのです」
彼女の指が、卓の上で、一度、強く握られた。
「両親が殺されたのは、両親が悪かったのではない、と頭では分かります。でも、橋であることは、両方から矢を受ける覚悟がいる仕事です。両親の遺した最後の頁を、私は、長年、読みたくありませんでした。読んでしまえば、橋になれと言われる気がして」
俺は、頷きながら、自分の麦粥の匙を、止めていた。
「私は、結局、弓士になりました。森林辺境の、人間とエルフの境界線で、双方の密猟者を、双方の言葉を使わずに、ただの侵入者として処理する仕事です。両方の言葉を、両方を裁く道具にしか、使ってきませんでした」
彼女の言葉は、整っていた。
整いすぎていた。
たぶん、長年、自分の中で、何度も、こうやって整理してきたのだろう。
「両親の手紙を、サクヤ殿に読んでいただきたかったのは、私自身は、両親の遺言を、聞くのが、怖かったからです」
俺は、麦粥の匙を、皿の縁に、そっと置いた。
「読んでみて、いかがでしたか」
イリスは、長い間、答えなかった。
答えなかった彼女の沈黙が、たぶん、答えだった。
しばらくして、彼女は、薄く笑った。
「両親は、誇りに思っていた、と書いてくれていました」
卓の上の蝋燭が、また、深く息をした。
俺は、内側の何かが、緩むのを、感じていた。
九年間、誰も俺の名を覚えなかった。
九年間、誰も俺の仕事を、誇りに思ったりしなかった。
でも、今、目の前で、二十年前に殺された通訳の両親が、二十年越しに、娘を誇りに思っていた。
その事実が、生きていた。
言葉は、訳されさえすれば、二十年経っても、生きていた。
俺は、自分の九年分の翻訳メモリが、今、どこかで、別の誰かの二十年を、繋いでいるかもしれない、ということを、初めて、想像した。
その想像が、たぶん、俺の人生で、初めて、自分の仕事を、誇らしく感じた瞬間だった。
「サクヤ殿」
イリスが、両手で杯を抱えたまま、こちらを見た。
「失礼を承知で、申し上げます」
「はい」
「明日、王都アルセラへ、発たれてはいかがでしょうか」
俺は、首を傾げた。
彼女は、続けた。
「ドワーフ古文書の件は、明日には、王宮にまで伝わります。王宮の言語学者であるヴァルティウス老師が、御身を、必ず、呼びにこさせます。あの方は、半世紀、神聖言語の解読に挑み続けて、敗れた老人です。御身の能力が、あの方の最後の希望になります」
神聖言語。
頭の中の翻訳メモリが、ぴくり、と反応した。
訳語が、まだ、降りてこない。
訳語が降りない単語は、九年間で、ほとんど初めてだった。
「神聖言語、というのは」
「神々が、世界を創られた時に使われた、と言い伝えられる言語です。今は、誰も読めません。教会が、その解読権を独占しています」
俺は、麦粥の匙を、もう一度、手に取った。
卓の蝋燭が、揺れていた。
窓の外、二つの月が、雲の間に、薄く透けていた。
「明日、ご一緒します。御身の護衛を、私に、させてください」
イリスは、頭を下げた。
俺は、しばらく、麦粥の湯気を見つめてから、頷いた。
「よろしく、お願いします」
外で、笛の音がしていた。
その夜の笛の音は、低くて、長くて、橋の上で立ち続ける人を、励ます音色に聞こえた。




