第五章 ドワーフの古文書
ギルド契約から五日後、最初の本格的な依頼が舞い込んできた。
依頼主は、ドワーフの隊商頭、ガルヴァス・ベルクハンマー。
依頼内容は、表面上は単純だった。「読めぬ古文書一冊。訳して欲しい」。
しかし、その古文書を、レイガリア言語学院の主席研究員と、王宮派遣の言語官二人が、合計五十年かけて、解読を断念したものだった。
ギルド裏手の小さな個室で、その本を受け取ったとき、俺は、革張りの表紙にうっすら土の匂いを嗅いだ。
ガルヴァスは、肩幅が広く、髭が胸まで伸びた、典型的なドワーフだった。
彼が、机に置いた瞬間、革張りの本は、ずん、と低い音をたてた。
目方が、片手では持てない重さだ。
「サクヤ殿。これは、わしの祖父の祖父が、廃坑から見つけた書じゃ。一族の宝として、四代、誰も開けずに保管してきた」
「開けずに、ですか」
「開いた者がおる。皆、頁の上に這う文字を見て、絶望し、酒場へ消えた」
ドワーフの隊商頭は、太い指で、髭の先端をつまんだ。
「あんたが、絶望せぬなら、訳してくれ。報酬は、ベルクハンマー一族の名にかけて、規定の三倍を出す」
俺は、頷いた。
規定の三倍、というのは、たぶん、市場相場を知らない俺にとっても、悪くない数字なのだろう。
ただ、それより、俺の意識は本に集中していた。
革張りの本を開いた。
頁は、薄い羊皮紙。文字は、線と点の組み合わせで、頁全体が音符のように見えた。
頭の中の翻訳メモリが、しばらく、唸った。
唸って、唸って、それから、一気に解けた。
これは、ドワーフ古語の中でも、特に古い「鍛冶律」と呼ばれる方言で書かれていた。
鍛冶律は、ドワーフが鉱脈の位置を仲間内だけで共有するために、鍛冶の音律に乗せて記録する暗号体系だ、と翻訳メモリは注釈した。
現代のドワーフ言語学者は、鍛冶律の音律部分を解読できても、その音律が指し示す具体的な地形情報を、対応する地理データベースなしで復元できない。
ところが、俺の九年分の翻訳メモリには、その「対応する地理データベース」に該当するものが、なぜか、内蔵されていた。
たぶん、特許明細書の地下構造物の図面、医療機器の三次元配管図、契約書の不動産境界座標、そういう、地味な業務記録が、組み合わさって、地理座標の変換器として機能していた。
俺は、頁の上の文字を、低く、声に出した。
「打鉄の音は、北の山脈、第七峰の南斜面、三段の岩棚を下り、東に四十歩、湧水のある洞口より三里、純度九十九点八の鉱脈、深さ六十尋、走り長さ、二千尋」
ガルヴァスが、ぱちん、と、髭をつまむ手を止めた。
「……今、何と、申された」
俺は、座面の上で、姿勢を直した。
「失礼しました。鉱脈の位置情報です。北の山脈、第七峰の南斜面の三段目の岩棚、そこから東に四十歩、湧水のある洞口、洞口から三里入った場所に、純度九十九点八パーセントの鉱脈が、深さ六十尋、走り長さ二千尋」
ドワーフの隊商頭の顔色が、まず、白くなった。
次に、赤くなった。
最後に、ふつう、人間が泣くときと、似た色になった。
「ガロン坑じゃ」
声が、低い。
「ガロン坑、というのは」
「四百年前、王国の祖父の祖父の祖父の時代に、ドワーフ一族最大の聖鉱脈とされた坑じゃ。坑道事故で坑口が崩れ、地図が失われ、四百年、誰も再発見できなかった、伝説のミスリル鉱脈」
俺は、ふん、と頷いた。
頷いてから、自分が頷きで応じるべき話ではなかったかもしれない、と少し焦った。
「ええっと、で、訳に問題が」
「問題などあるか」
ガルヴァスは、椅子から、よろり、と立ち上がった。
次の瞬間、彼は、机を回って、俺の正面の床に、片膝をついた。
彼の全身鎧の膝当てが、石の床に、がしゃん、と当たった。
俺は、机から椅子ごと、五センチほど後退した。
「あ、あの、ガルヴァスさん」
「ベルクハンマー一族、ならびに、東部ドワーフ連合、サクヤ・サクラ殿に、三代にわたる恩義を、誓わせていただく」
頭が下がる。重い、深い、垂直の礼。
俺は、目の前でドワーフの隊商頭が膝をついたまま、どうしていいか分からず、両手で胸の前を抑えていた。
「あの、これ、納品書のサイン、これでいいですか」
書類を差し出した。
差し出した自分の手も、声も、若干、震えていた。
ガルヴァスは、顔を上げて、俺の手の中の書類を見て、それから、声を出して笑った。
ドワーフの笑い声は、地響きに似ていた。
「サクヤ殿。御身は、いずれ、この大陸の歴史を書き換える」
「いえ、そんな大層な」
「ご謙遜なされるな。御身が、たった今、訳した一頁が、ドワーフ一族の四百年の喪失を、解消したのだ」
俺は、頷きの代わりに、深く、礼を返した。
その日の夕方、レイガリアのギルド前広場は、ざわついていた。
ガルヴァスは、すでに、ガロン坑の発見をドワーフ連合へ早馬で伝えていた。早馬の途中、馬を継ぎ替える宿場のいくつかで、すでに噂が漏れていた。
「人間の言語官に、四百年解けなかった鍛冶律を訳された」。
その夜、宿に戻る道で、俺は、フードを目深に被った人影に、すれ違った。
長い銀髪が、フードの端から、一筋だけ覗いていた。
その人影が、振り向いた。
俺も、足を止めた。
女だった。
目が、薄い緑。エルフの目だ。
二十代後半。
彼女は、フードの中で、こう言った。
「あなたが、サクヤ・サクラ殿、ですか」
「はい。あなたは」
「イリス。ご相談したいことが、あります」
風が、長く、長く、流れた。
春の夜の、レイガリアの石畳の上で、エルフの女と人間の男が、向かい合った。
すれ違う通行人の幾人かが、振り返って、首を傾げた。
俺の耳に、彼女の声は、なぜか、もう、訳されないまま、まっすぐ、意味として届いていた。
ガルヴァスは、片膝をついたまま、低い声で、続けた。
「サクヤ殿。三十年前のことを、お話ししても、よろしいか」
「もちろん、です」
「わしが、まだ、見習い鍛冶であった頃、わしの祖父が、亡くなる前に、こう言いおった。『この鍛冶律は、ドワーフの言葉だけでは、解けぬ。いつか、人間の言葉と、エルフの言葉と、獣人の言葉、すべての言葉を、その身に蓄えた、地味な御方が、現れる。そのときまで、ベルクハンマーの一族は、この本を、温め続けよ』と」
ガルヴァスは、両手を、太腿の上に、置いた。
「祖父の遺言は、四代続きました。曾祖父、祖父、父、わし。それぞれが、自分の代に、御方が現れるかと、酒場の隅で、人を、観察してまいりました。誰一人、現れませんでした。わしは、五十二歳になり、最後の代と、覚悟しておりました」
ガルヴァスの髭の中で、長い、長い、息が、漏れた。
「御方が、たった今、この本を、訳された。わしの一族の、四代の祈りが、たった今、報われた」
俺は、何も、言えなかった。
九年間、誰も、俺の仕事の続きを、待ってくれた人は、いなかった。
でも、ここで、ドワーフ一族の四代、約百二十年が、俺の一頁の訳の到着を、待っていた。
その重みを、ようやく、自分の手の中で、感じ始めた。
ガルヴァスは、革張りの本を、両手で、持ち上げて、こちらに、差し出した。
「サクヤ殿。この本は、ベルクハンマー一族の一品でしたが、わしの代から、御方の保管に、お預けいたしたい」
「いえ、ガルヴァスさん、それは」
「御方が、お持ちにならぬ限り、この本は、わしには、重うござります。御方の蓄えの中で、生き続けてくれるのが、わしの祖父の願いでした」
俺は、両手で、本を、受け取った。
革張りの本は、最初に受け取ったときより、不思議と、軽く、感じた。
たぶん、本そのものは、同じ重さなのに、本の中の文字の重みが、頁の中から、こちらの頭の中に、移動した、のだろう。
俺は、深く、頭を下げた。
「ベルクハンマー一族の四代の祈りを、お預かりいたします」
ガルヴァスは、頷いた。
頷きの中に、四代分の安堵が、混ざっていた。




