第二十二章 朝の机
半年が経った。
俺は、東京の小さな雑居ビルの三階に、自分の翻訳エージェンシーを構えていた。
社名は、サクラ翻訳事務所。
社員は俺一人。専属翻訳者として業務委託契約を結んでいる仲間が、十一名。
みんな、九年間の業界で俺自身が、孤独な徹夜の合間に顔を合わせてきた仲間たちだった。
誰も、大手エージェントの中で名前を覚えてもらえていなかった人々だった。
事務所の朝は、いつも同じだった。
俺は、午前七時半に事務所に着く。
階段を上がる足音が、九年間の徹夜の足音より軽い。
ドアの鍵を開ける。
窓を開ける。
窓の外、近所の小学校の校庭から、子供たちの声が薄く上がっていた。
子供たちの言葉は、ほとんどが日本語だ。
でも、その中にときどき、別の言語の単語が混ざる。
近所には、外国人家族が数家族暮らしていて、その子供たちが日本人の子供たちと混ざって遊んでいる。
九年前、俺がレイガリアの街の角で聞いた子供たちの言葉のリズムと、似ていた。
通じる範囲で、通じている。
通じない部分は笑って、身振りで補っている。
俺は、机に座った。
机の上には、ノートパソコンと湯飲みと、薄い、薄いノートが一冊置かれていた。
ノートの表紙には、何も書かれていない。
しかし、ノートの最初の頁にはこう書かれている。
「翻訳者の名前を必ずクレジットに載せる」。
これが、サクラ翻訳事務所の唯一の創業理念だった。
九年間、どんなエージェントも翻訳者の名前を、クレジットに載せなかった。
俺は自分の事務所の取引先に、それを絶対条件として要求した。
最初の三ヶ月、契約がまったく取れなかった。
しかし、四ヶ月目にある中小の出版社が、その条件を飲んでくれた。
その出版社の編集者がこう言った。
「うちは、小さい会社ですが、翻訳者の名前を表に出すことで、訳の質の責任がお互いに明確になる、と考えています」。
俺は、その編集者に深く頭を下げた。
九年間で、いちばん深い角度の礼だった。
その出版社の依頼を皮切りに、業界の評判が少しずつ変わってきた。
翻訳者の名前をクレジットに載せる、というたった一つの方針が、業界の小さな水の流れを薄く変え始めていた。
九年前の中里PMは半年前、勤務していた翻訳会社を辞めた。
俺が過去三年分の単価減額分の差額再請求書を内容証明郵便で送り、彼の上司に報告書のコピーを送り、下請法違反の事案として公正取引委員会の下請取引適正化推進本部に申告した。
申告から二ヶ月で、彼の会社は下請事業者への約九百万円の支払い命令を受けた。
社内調査の結果、中里の単価減額交渉が組織的なものではなく、彼個人の独断による下請法違反であったと認定された。
彼は減給処分の上、本社から地方の関連会社への異動を命じられた。
異動先で彼は辞表を出した、と業界の噂で聞いた。
俺は、その噂を知り合いの翻訳者から伝え聞いた。
知り合いの翻訳者は、その話をこちらに伝えた後、こう付け加えた。
「佐久良さん、サクラさん、あなたが業界を変えました」。
俺は、首を横に振った。
業界を変えたのは俺自身ではなく、俺自身の九年分の業務記録だった、と。
あの記録の中の契約書の条文の対訳が、自分自身を守る道具になってくれた。
業界を変えたのは、地味な業務記録の蓄積だった。
ノートパソコンを開いた。
メールの受信トレイに、今日の依頼が五件。
医療機器マニュアル一件、特許明細書二件、契約書一件、それから絵本の翻訳が一件。
絵本の依頼は半年前から、新しく取り組み始めた分野だった。
近所の小学校の図書館の司書から紹介された仕事だった。
外国の絵本を日本の子供たちに届ける、という地味で温かい仕事だった。
俺は、絵本の依頼の方をまず開いた。
画面の中の絵本は、北欧の小さな村のおじいさんと孫娘の物語らしかった。
最初の頁の翻訳を始めた。
頭の中の翻訳メモリが、ゆっくり稼働した。
九年分の業務記録は、医療機器、特許、契約の三分野に偏っている。
絵本のような感情を含む文章の訳には、必ずしも向いていない。
でも、翻訳メモリの中の医療機器の「警告」の頁の訳、その「警告」という単語の文脈分岐の中に、ときどき子供向けの注意事項の訳が混ざっている。
その混ざりがたぶん、絵本の訳の優しさの根拠になる。
俺は、最初の頁を丁寧に、丁寧に訳した。
翻訳の手を止めて、ふと顔を上げた。
午前十一時すぎ、近所の小学校の図書館の司書が、事務所を訪ねてきた。
司書は四十代の、痩せた、優しい目の女性だった。
彼女は最近、サクラ翻訳事務所が絵本の翻訳で原作者と訳者の両方の名前を表紙に必ず併記している方針について、感謝を伝えてくれた。
「最近、子供たちが絵本の訳者の名前を覚え始めました」
司書は薄く笑った。
「『これは、サクヤさんが訳した絵本だね』と、子供同士で確認するようになりました。訳者の名前を覚えてもらえるというのは、業界の習慣にとって、たぶん小さな革命なのです」
俺は頷いた。
頷きながら、九年前、徹夜明けの会議室で誰一人俺の名前を覚えてくれなかった頃を、思い出した。
名前を覚えてもらえるというのは、たぶん人生のある種の確認のようなものだ。
名前を覚えてもらえなかった九年間が、今、別の誰かの名前を覚えてもらうための仕組みを作り始めている。
俺はその因果を、ゆっくり咀嚼した。
司書は、帰り際、机の上に置いてあったメモ用紙の隅の、自分の落書きに目を留めた。
俺がさっき、絵本の中の一語を訳しあぐねて、頭の中の翻訳メモリの索引を、葉脈のような線で書き出していた紙だった。
「不思議な模様ですね」
「ええ、業界の癖でして」
「言葉の地図、みたいに見えます」
「そう言われてみると、そうかもしれません」
俺は薄く笑った。
司書は深く頷いて、事務所のドアを丁寧に閉めて帰っていった。
ドアが閉まる音が、廊下に薄く響いた。
その音が消えてから、俺はもう一度絵本の翻訳に戻った。
頭の中の翻訳メモリのフォルダが、ゆっくり稼働を続けていた。
九年分の業務記録、二十万件の文脈分岐、そして新たに追加された、異世界アルテリア大陸の二十一名の古老の言語的記憶の補助索引。
すべてが、絵本の中の一語を選ぶために、静かに整列していた。
絵本の中のおじいさんが、孫娘に古い手紙を読み聞かせる場面で、俺は訳語を一つ、慎重に選んだ。
頭の中の翻訳メモリの索引が、エルフの森林詩集の対訳の頁を、勝手に開いた。
葉の数を数える者は、森を見ず。
その一節の文脈分岐の中に、孫娘への手紙の優しい言葉づかいが、薄く重なった。
九年分の業務記録と、異世界の古老の補助索引が、ようやく、一つの絵本の中で握手をしていた。
昼前、ふと机の引き出しの中の書類を、整理しようと思った。
半年間、整理を後回しにしてきた、いちばん下の引き出し。
引き出しを引いた。
引き出しの中に、見慣れない長い薄い布の包みが、入っていた。
布の包みを取り出した。
包みを開いた。
黒い軸の、銀の縁取りの古い万年筆が出てきた。
軸には、見たことのない葉脈のように細い銘文が、彫られていた。
俺は、自分の頭の中の翻訳メモリの索引を開いた。
索引が、その銘文をエルフ古語と識別した。
訳すると、こうなる。
「翻訳とは、他者を理解しようとする勇気である」。
俺の指が震えた。
万年筆を、両手で握った。
握った瞬間、半年前の湖のほとりの桜色の光の感触が、手のひらに戻ってきた。
ヴァルティウス老師の万年筆。
俺がイリスに別れ際に渡した、はずの万年筆。
それがなぜ、こちらの引き出しのいちばん下の、半年間開けなかった場所に入っているのか。
俺は、引き出しの底をもう一度見た。
万年筆の下に、小さく折りたたまれた薄い羊皮紙が敷かれていた。
羊皮紙を開いた。
羊皮紙の上に、エルフ古語の文字が二行書かれていた。
頭の中の翻訳メモリが、勝手に訳した。
「サクヤ殿。橋の上から、こちら側の言葉を、そちら側に、お返しします。私は、こちらの橋の上で、立ち続けています。あなたは、そちらの橋の上で、立ち続けてください。生き続ける言葉は、死なないのですから」
俺は長い間、その羊皮紙を見つめていた。
見つめながら、自分の頬の上に薄く熱いものが流れているのに気づいた。
九年間、自分の頬の上で熱いものが流れることが、なかった。
俺は、それを両手で拭った。
拭った両手で、もう一度万年筆を握った。
万年筆の軸の銘文を、指で撫でた。
窓の外、近所の小学校の校庭から、子供たちの声が薄く上がっていた。
子供たちの言葉のリズムは、レイガリアの街の角で聞いた子供たちのリズムと、たぶん同じ角度で混ざっていた。
俺は、机に向き直った。
ノートパソコンの絵本の翻訳の画面を、もう一度開いた。
画面の隣に、ヴァルティウス老師の万年筆を置いた。
万年筆の軸の銀の縁取りが、窓からの朝の光の中で薄く輝いた。
俺は、絵本の翻訳の続きを訳した。
訳しながら、頭の中で九年分の翻訳メモリの、新しいフォルダを一つ追加した。
フォルダの名前は、こう付けた。
「異世界アルテリア大陸、二十一名の古老の言語的記憶、翻訳メモリ用補助索引」。
誰も見ない、誰も信じない、誰も検索しない、新しいフォルダ。
しかし、俺の中ではそれは確かに稼働していた。
そのフォルダの中の単語の一つ一つが、絵本の訳の優しさの根拠に加わった。
夕方、窓の外の空が、薄く桜色に傾いた。
俺は、机の上でその日の最後の納品書を書いた。
納品書の翻訳者欄に、こう書いた。
「翻訳者、佐久良朔也」。
筆跡が、九年前の卑屈な筆跡より少しだけ深かった。
窓の外、近所の桜の木が薄く揺れていた。
桜の花びらが一枚、窓の縁に薄く張りついた。
俺は、その花びらを指で摘もうとして止めた。
花びらはたぶん、橋の向こうからこちらに届いた、何かの欠片だった。
俺は、その欠片をしばらく見つめた。
ノートを開いた。
ノートの最後の頁に、こう書いた。
「九年間、誰の名前も覚えてもらえなかった翻訳者は、その日から、自分自身の名前で生き始めた」
ペンを置いた。
万年筆の軸が、夕暮れの桜色の光の中で薄く温かかった。
窓の外、子供たちの声が、低く、低く薄くなっていった。
子供たちが、それぞれの家に帰っていく時間。
俺は、自分の机の前でしばらく座っていた。
座っている自分の前に、九年間見たことのない種類の、長い、長い夕暮れが流れていた。
その夕暮れの中で、頭の中の翻訳メモリのフォルダが、薄く、薄く回転を続けていた。
誰の名前も必要としない、地味な業務記録の回転が、その日も明日もたぶんずっと続いていく。
俺は、湯飲みに温かい茶を注いだ。
茶の湯気が、長く、長く机の上を流れていた。
その湯気の中で、橋の向こう側の誰かが今日の夜も、橋の上で立ち続けているような気がした。
俺は、その湯気をしばらく見つめた。
見つめていたら、湯気の中に薄く、薄く二つの月が透けて浮かんでいる、ような気がした。
もちろん、東京の夕暮れには月はまだ出ていない。
しかし、湯気の中の薄い、薄い円の影は、たぶん今夜の夢の予兆だった。
俺は、湯飲みを両手で握った。
握りながら、自分の名前を口の中で薄くつぶやいた。
「佐久良朔也、三十歳、フリーランス翻訳者、十年目」
声に、自分の九年分の重みが、薄く、薄く混ざっていた。
しかし、その重みは徹夜明けの重みではなく、橋の上で立ち続ける者の重みだった。
俺は、もう一度深呼吸をした。
深呼吸の中で、九年間の徹夜の疲れが、薄く、薄く消えていった。
代わりに、自分の名前で生き始めた十年目の、最初の朝の軽さが、薄く、薄く染み込んだ。
窓の外で、桜の花びらがもう一枚、薄く、薄く流れていった。
俺は、その流れを見送った。
見送りながら、橋の向こう側にこちらの今日の最後の一行を、薄く、薄く伝えた。
伝えた一行はたぶん、橋の向こう側の誰かの中で生き続ける。
生き続ける言葉は、死なないのだから。




