第二十一章 帰還と対峙
頬に、硬いベンチの感触が当たった。
目を開けた。
駅のホームの蛍光灯の青白い光が、視界を染めた。
始発の電車の発車を告げるアナウンスが、低くホームに響いていた。
俺はベンチの上で、肩に自分のショルダーバッグを引っ掛けたまま、寝ていたらしかった。
顔を上げた。
手の中に、コンビニで買った温かい缶コーヒーが、握られていた。
缶の温度が、まだ温かい。
窓ガラスに、自分の顔が薄く映った。
徹夜明けの顔、伸びた無精髭、隈の濃い目。
九年間、毎週見続けてきた、自分自身の顔だった。
頬を撫でた。
頬の温度が寒かった。
ポケットの中で、スマートフォンが振動した。
画面に、中里からの着信。
九年前の徹夜明けの朝の、続きの場面だった。
俺はしばらく、画面を見つめた。
画面の点滅は、神聖言語の鋳型の発動前の青い火の点滅と、似ていた。
俺は息を整えた。
頭の中の翻訳メモリのフォルダのアイコンを確認した。
異世界の禁書庫の文書も、神聖言語の鋳型の発動記録も、もうフォルダの中にはなかった。
しかし、九年分の業務記録はちゃんと、フォルダの中に残っていた。
俺の九年は消えていなかった。
ただ、その九年の意味がたぶん、向こうの世界で世界一周分の出力を終えた後、自分の世界に戻ってきていた。
俺は、通話ボタンを押した。
「もしもし、サクヤ・サクラ、です」
声に、自分でも驚いた。
九年間、卑屈な「もしもし、佐久良です」しか口に出せなかったはずだった。
しかし、今、俺は自分の名前を姓と名の順序を入れ替えて、堂々と名乗っていた。
通話の向こうで、中里がぱちりと瞬きをした音がした。
しかし、彼はすぐに、いつもの合理性を取り戻した。
「あっ、佐久良さん? 中里です。さっき言った単価半額の件、書面で、送りましたから。確認、よろしくね」
俺は頷きの代わりに、短く息を吐いた。
「中里さん」
「はい」
「単価半額の交渉は、承れません」
「えっ?」
「契約書上、単価変更は双方の合意が必要です。私は合意を撤回いたします。納品は本日中、当初の単価で行います」
通話の向こうで、中里がしばらく黙った。
「佐久良さん、ねえ、こちらも、立場というものが、ありましてね」
「ええ、立場、ございますね」
「君みたいな、替えのきく翻訳者を、抱えてあげているのは、こちらの厚意なのよ」
「中里さん」
「はい」
「あなたが九年間、私に行ってきた契約後の単価減額は、下請法上の禁止行為に該当します。本日中の納品分を当初単価で支払えない場合、私は本件を、公正取引委員会の下請取引適正化推進本部に申告いたします。九年分の取引記録は、私の業務記録の中にすべて保存されています」
通話の向こうで、中里の息が止まった。
俺は、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
コーヒーはたぶん、九年間で最も苦かった。
しかし、その苦みが今は、覚醒の苦みとして染み込んだ。
頭の中の翻訳メモリの、契約書の不可抗力条項の対訳が勝手に注釈を加えてきた。
下請法第四条、第一項、第五号。下請代金の減額の禁止。
九年間、俺はこの条文を何百回と、契約書の翻訳の中で訳していた。
しかし、その条文が自分自身を守る道具になるということを、考えたことがなかった。
今、俺は自分の九年間の業務記録の中の、ある条文を自分の防具として使った。
神聖言語の鋳型の発動と、構造がまったく同じだった。
地味な業務記録はたぶん、自分自身を守る道具にもなる。
「ま、待って、佐久良さん」
中里の声が、初めて震えた。
「いや、書面送る前に、ね、もう一度、相談しましょうよ。お互いの立場で、ね、調整できる範囲で、調整しましょうよ」
「中里さん」
「はい」
「単価は当初契約通りです。納期は本日九時。納品先、当初指定先。納品書のサイン欄に御社の押印をお願いします。さらに、過去九年分の契約後単価減額分の差額再請求書を、本日午後、御社にお送りします。差額の合計は約四百二十万円です。期限は二週間後。期限内に支払いがない場合、下請法違反として本件を申告いたします」
通話の向こうで、中里の呼吸の音が激しくなっていた。
俺は息を整えて続けた。
「中里さん。あなたが九年間、私を使い捨てと呼んでこられた事実、私は書面ですべて記録しております。電話の録音もメールの文面もすべて保存しております。下請法の二年の時効に関わらず、最近三年分の事案について申告可能です。三年分の差額は約百四十万円。これに遅延損害金が加算されます」
俺の声は、淡々としていた。
九年間、徹夜で訳した契約書の中の損害賠償条項の対訳が、頭の中で勝手に計算を始めた。
遅延損害金、年率十四・六パーセント、日割り計算。
俺は、その計算結果を口に出した。
中里はようやく、こう絞り出した。
「わ、分かりました。本日、当初単価で納品書、押印いたします。過去分の差額についても社内で確認の上、ご返答いたします」
俺は頷きの代わりに、短く息を吐いた。
「ありがとうございます。それと、中里さん」
「はい」
「九年間、私に対して『使い捨ての翻訳者』と仰った言葉、本日付で撤回をお願いいたします。撤回の有無に関わらず、私は来月以降、御社との取引をすべて終了いたします。新しい取引先はすでに複数、当たっております」
通話の向こうで、中里が息を呑んだ。
「佐久良さん、それは」
「人ひとりを九年間、使い捨てと呼び続けた人物の発注は、私自身の業務記録の品質保持のためにもお受けできなくなりました。私はこれから、自分の名前で自分の翻訳を納品します」
「いえ、いえ、佐久良さん、ね、私も、表現が」
「失礼します」
俺は、通話を切った。
切った後、ホームのベンチの背にゆっくりもたれた。
空が、薄く明るくなり始めていた。
ホームの蛍光灯の青白い光が、薄く薄くなり、朝の白い光に置き換わっていく。
俺は、自分の手のひらを見た。
九年間、徹夜でキーボードを叩いてきた手。
その手は、薄く震えていた。
しかし、震えは恐怖ではなく、覚醒の震えだった。
立ち上がった。
立ち上がった瞬間、ポケットの中で何かが当たった。
手を入れた。
桜色の組紐が、ポケットの中にしっかりと握られていた。
国王アルセイア五世が最後に預けてくれた、桜色の組紐。
俺は、その組紐を手のひらに握った。
組紐の薄い色が、夜明けの空の色と薄く重なった。
始発の電車が、ホームに滑り込んできた。
乗り込む足が、九年間でいちばん軽かった。
車内で、俺は座席に座ってノートパソコンを開いた。
画面に、ヴァルティウス老師の万年筆の銘文が、薄く頭の中で浮かんだ。
翻訳とは、他者を理解しようとする勇気である。
俺は、新規メールの作成画面を開いた。
宛先に、別の翻訳エージェントの新規開拓担当者のアドレスを入力した。
件名に、こう書いた。
「翻訳者、佐久良朔也、九年分の業務実績付き、新規取引のご相談」。
九年間で初めて、自分の名前を件名の中に堂々と書いた。
車窓の外で、桜の花びらが線路の脇をゆっくり流れていた。




