「私のファン、やめてくれないかな?」
天は二物を与えず、とは言うけれど、一物でも持っていさえすれば、その副産物として多くのものを得られるわけで。その一つの有無が、結果として大きな差を生むことになる。
例えばそう、彼女──美城由唯は飛び抜けた容姿を持っている。その優れた容姿によって莫大な愛情を注がれてきたのであろう、揺るぎない自信をたたえた瞳で、己に不可能はないとばかりに努力を怠らない。それらを武器にアイドルとなって、たくさんのファンをつけて、称賛を得ている。そして、その圧倒的強者の立場が心の余裕に繋がり、誰にでも等しく穏やかな眼差しを向けているのだ。……全て、外野から仰ぎ見るファンである私、立石晴香の妄言に過ぎないけれど。
それがまさしく妄言であることを知ったのは、留学から帰って来て、久々に接触イベントに参加できた日の翌日のことだった。
「ねえ。私のファン、やめてくれないかな?」
「え……」
とびきりの絵になるような微笑みを浮かべながら、推しが私の他界を願う。それはどうにも現実味を覚えられない、どこかドラマのワンシーンじみた光景だった。
だって、昨日会ったときにはあんなに嬉しそうに久し振りだと笑ってくれていたのに。今は同じ笑顔でファンをやめて欲しいだなんて。にわかには信じがたい出来事だ。
「それって、どういう……」
「そのままの意味だよ。晴香には私のファンをやめて欲しい」
こんな状況でも、ハンドルネームではなく本名で呼ばれたことにドキリとする。いや、心臓が跳ねた理由は本当のところ、それだけではないのだろう。奥底にしまい込んだ苦い思い出が、遠くからチラチラと顔を覗かせていた。追い返して、再び厳重に蓋をする。知らぬ間に嫌な汗をどっぷりかいていて、体が冷えていった。
「私のお願い、聞いてくれるよね?」
断られるなんて、微塵も考えていないような澄んだ瞳が私を捉えて離さない。推しからのおねだり。しかも、名指しでの。確かに、一介のファンが拒否することは考え難いシチュエーションだ。──その中身を勘案しなければ。
「いや、でも、私は……」
私は昔から、アイドルというものが好きだ。けれども今は、由唯のことだけが特別好きで、陳腐な表現だけれども、本気で生涯の推しだと思っている。どんなことがあったって、一生応援するつもりだった。
だからこそ、希望に沿う返事をすることができない。かといって、面と向かって断る勇気もない。
「私、何か悪いことしました?」
「ううん。いつも素直に応援してくれて、嬉しいよ」
「なら、なんで……」
自分に悪いところがあったのなら、直す努力をさせて欲しい。どんな目的があってファンをやめろだなんて言うのか。それを知らないことには、どう対処すればいいのか分からない。
「別に悪いようにはしないからさ。ただファンをやめてくれればいいの」
「そんなこと言われても……」
仮に、仮にだ。はい分かりましたファンをやめますと言ったって、何を以ってそれを判断するのだろう。こんな無理矢理に、口頭でやめさせたところで、そう簡単に想いというものはなくならない。これだけ強く深ければ、なおさらだ。きっと悪しき様にねじ曲がって変質するだけで、それは望ましくないことのはず。妥協点を探る。
「どうしても、ダメですか? ファンで居続けちゃ」
「ダメ、っていうか。……うん、やめてくれたら嬉しいな、私個人としては」
「じゃあ、現場には行かないですし、目に入らないようにします。とにかく由唯さんの気に障ることはしません。だから、想うだけなら……」
それだけなら、許してくれないか。そう言いかけて、これすら拒否されたらどうなるんだろう、と思いとどまる。それどころか、この感情の重さに引かれてしまったら?
受け容れられない愛は凶器だ。アイドルとファンという利害関係に保障されていた愛の押し付けは、当人から拒まれてしまえば控えざるを得ない。そうなれば今度こそ、自分は立ち直れないかもしれない。怯んでいると、由唯が目を丸くする。
「なんでそうなるの? 現場にも来て欲しいし、ちゃんと顔見せて。それに、むしろずっと好きでいてよ。っていうか、いてくれる約束でしょ?」
「えっ……」
いつかの特典会で話したときのことを持ち出されて、心がときめく。ファンをやめろと言っておきながら、そうやって揺さぶってくるのはなんなんだ。
「あと、私の顔色は窺わないで。絶対に」
「は……、はい」
その一言だけ今までの余裕はなく、得も言われぬ強い圧を感じて、先の言葉による動揺もあって素直に受け入れる。
そうして困惑しているうちに、由唯がちらっと時計を見やった。
「そろそろ、時間切れかな」
「え?」
「もう講義が始まる時間でしょ?」
急に現実に引き戻されて、ハッと目が覚める。
……そうだった。久々に戻った大学で、必修と必修の合間の空きコマに課題でも消化しようとしていたところに現れたのが、由唯だった。
最初は何故ここに、とかどうして私に、とか様々な疑問が湧いては新たな疑問に上塗りされていったけれど、今となっては何をどこまで把握しているのか、恐ろしくなる。
「ま、次講義なのは私もなんだけどね。いやぁ、去年はギリギリ出席日数足りなくてさぁ〜。いける計算だったんだけど体調崩したのがマズかったなぁ」
「は?」
先に立ち上がった由唯が私の手を引きながら、普通の大学生のようなことを言って笑う。私は引っ張られるがままに腰を浮かせて、間抜けな顔で由唯を見つめる。ふと繋がれた手を認識して、CDも買ってないのに手を握ってもらってしまっていいのかな、なんて見当違いな心配が頭をかすめた。
「晴香はA棟だったかな? 私は大講義室だから、途中まで一緒に行こっか」
「え、いや。そう、なんですけど……」
「──あ! そうだ、それからにしよう!」
「な、何がですか?」
戸惑いが続く中で、今度はズイ、と距離を詰められて内心黄色い悲鳴をあげた。すぐさま目を逸らして事なきを得る。
「確かにさ、いきなりファンやめろったって難しいよね。……ということで、まずは敬語やめるところからにしよっか。同い年なんだしさ」
「うぇ?」
「名前も、呼び捨てね。これくらいならいいでしょ?」
「まぁ、それくらいなら……」
ドア・イン・ザ・フェイス。普段だったら、その要求も恐れ多いと跳ね除けていただろう。けれど、ファンをやめることを突っぱね続けた罪悪感と、比較して要求が易しく感じたことが重なって、承諾してしまう。
「じゃあ、またね。晴香」
そうこうしているうち、別れ道に辿り着く。微笑みかけられて、ぼんやりと頷くけれど、一向に手が離されない。恐る恐る視線を合わせると、力強い瞳が私を射抜いた。
「またね、晴香」
「あ、ま、またね。由唯」
再度同じ言葉がかけられて、何かを要求されていると思って慌てて返事をすると、我が意を得たりといった感じで由唯がニッコリ笑った。そして、目的地に向かって歩を進める。
私はその場から動けずにその背中を眺めながら、今度こそ離された手の温もりが惜しい、と自分勝手に思うのだった。




