移りゆく世界
「ん……んぅ?」
重い目蓋を持ち上げると、そこはほとんど光の差さない暗がりだった。なんだと一瞬思ったけど、おでこと頬に当たる自分の腕の感触に気付いた時、そうだ机に突っ伏して寝てしまっていたんだと直前の状況を思い出した。
「ふぁ~……ぁ」
もそもそと上体を起こし、あくびを噛み殺しながら伸びをする。目尻に浮かんだ涙を拭い、寝ぼけ眼をこすりながら周囲を見た。
「ああ、いつの間にか教室で寝ちゃってたんだ」
見慣れた、というより見飽きた光景が私に今の状況を教えてくれる。
規則正しく並べられたたくさんの机や正面中央にでんと構える教卓が、窓から差し込む夕陽に照らされて朱色に染まっていた。
教室の中に、他の人間は残っていない。この時間だし、みんな部活に精を出しているか既に帰宅しているのだろう。
耳を澄ましてみるまでもなく、外のグラウンドから運動部の活発な声が届いてきて、しんと静まり返った教室に賑やかな空気をおすそ分けしていく。
「もうこんな時間……。一体どれくらい寝ちゃってたんだろ、私」
首元や肩周りをほぐしつつ、私は寝る前のことを頑張って思い出そうとする。
確か、あれは今日の最後の授業を眠ってやり過ごした後だ。詩絵菜のツッコミで起こされて、彼女と少し話してから別れた。
うん、ここまでは覚えている。その後は、どうだったっけ?
「ん~……ん?」
ぼんやりと追憶にふけっていると、頭の奥から何かが込み上げてくるような感覚がした。
コップに並々と注がれた水が、ついには容量を超えて溢れ出すように、その記憶はたちまち溢れ返って私の心身に流れ込む。
「あ……! あああ……っ!」
洪水のように次から次に押し寄せる記憶の奔流に耐えきれず、私は頭を抱えてうずくまった。ガンガンと目の奥が殴りつけられるように震え、胃液が喉をせり上がって口から零れそうになる。
「思い、だした……! マゴリア、教国での記憶……!」
情報の暴力に揉まれながらも、私はその意味を理解していた。
もうひとつの世界、もうひとつの人生。そこで私は何を目の当たりにし、どんな選択をしてここに帰ってきたのかを。
「私、やり遂げたんだ……! 夢を、幻を、ちゃんと現実に繋げることが、出来たんだ……!」
歓喜。苦痛に苛まれながらも、私を満たしていたものは代えがたい喜びと、達成感だった。
これで、【幽幻世界】での人生を無駄にしなくて済む。目覚めと共に薄れて消えていくだけだった泡沫の夢は、もうひとつの現実として私達の中に生き続ける。
これこそが、私の望んだ結末だ。
「アザミ……!」
教室の扉が開く音がして、向こうに居た誰かが私の名を呼ぶ。
聞き慣れた、あっちの世界でも常に傍らにあった声。それでいてどこか、たまらなく懐かしい気持ちにさせる声。
私は未だに痛む頭を抑えながら顔を上げた。後ろで一本に纏めた、艷やかな新緑色の髪。上気した顔にスタイル抜群の肢体。耳だけが、リョス・ヒュム族の尖ったそれではなく、私と同じ人間のものに戻っている。
「ただいま、シェーナ」
眠る前に他愛もない話をして別れた親友を、私はあえてあちらでの名前で読んだ。
シェーナが――現実での九井詩絵菜が、目に涙を溜めて慈母のように微笑む。
「おかえり、シッスル」
お互いの、不格好な泣き笑いが、他に誰も居ない教室の中を満たしていった。
◆◆◆
「これで、停滞の時代は終わったわね」
マゴリア教国アヌルーンの街。そこを統治するイル=サント大教会の大鐘楼で、二人の女性がテーブルを囲みながら話している。
「夢は流れ行き、新たな風が吹き込む。袋小路に陥って、いずれは【闇】に還る運命もこれで覆っただろう」
カップの中の紅茶を飲み干し、白い髪の少女がおもむろに立ち上がって遠くを見渡す。
巨大な鐘を背景に、開けたベル・コートから遠望出来るのは、復興が進む街並みと国土を囲う長大なオーロラだ。
「【幽幻世界】は再生し、【闇】の脅威は退けられた。これも全て、我が愛弟子のおかげね」
腰まで届く長い赤髪を優雅に掻き上げながら、もうひとりの女性も席を立つ。彼女の眼差しの先にはアヌルーンの中央に位置する広場があり、そこではひとつの巨大な彫像がこれみよがしにそびえ立っていた。
「でもあの彫像はやり過ぎじゃない? 魔術士をあんなに大々的に称えるなんて、って国教会から強い不満が上がっているらしいじゃない」
「一顧だに値しない。常識を重んじるのと、常識を盾にするのは別だからな」
白い髪の少女はそうして疑問を一刀両断すると、赤髪の女性の隣に立って彫像を眺めた。
貫頭衣のローブを着た少女の像、その下方部にはこう刻まれている。
《独立不羈の幻術士 シッスル・ハイフィールド》
《その比類なき功績を称え、彼女の英姿を永遠に留め置く》
碑文を思い返す白い髪の少女の口元に、イタズラっぽい笑みが浮かんだ。
「それに、この選択をしたのは彼女なんだ。責任を持って、その名は語り継がなければならないだろう」
「意地の悪い総主教様だこと。そんなことを続けてたら、いつか人望を失くすわよ、イリューゼ」
白い髪の少女――総主教イリューゼは、不敵な笑みで赤髪の女性を振り返る。
「キミこそ、自分でやらず彼女に委ねておいて今更そんな非難めいたことを言うのかい? ろくでもない師匠もいたものだね、サレナ」
言い返された赤髪の女性――《幽幻の魔女》サレナ・バーンスピアは肩を竦めた。
「シッスルが夢の解放を望むだろうことは分かっていた。それが一筋の希望に繋がると見込みを持ったからこそ、私も貴女に手を貸したんじゃない。それで? 結局は上手くいったんでしょう?」
「ああ、緩やかな滅びに向かっていた【幽幻世界】も、これで本当に再生される」
イリューゼは笑みを収めて、真面目な顔で話を続ける。
「現実から切り離された夢は、独立した時間と空間で独自の歴史を重ねてきた。だがそれでも、永遠に同じ形を保ち続けることは出来ない。閉塞した世界の理は徐々に綻びを見せ始め、やがては〈究極幻術〉でも【闇】を押し返すことは出来なくなっていただろう。根本的な変革が必要だったのさ。そしてそれは、キミでも私でも成し得なかった」
「【幽幻世界】にすっかり染まって、半ば理の一部に組み込まれちゃってるからね、私達は。これも神々が創った【模造世界】に生きる者の定めかしら」
「そうだな。本来、理を決めるのは神にあらず、世界そのものだ。【真造世界】の管理者に過ぎない神は、己が望む世界をまだ見ぬ次元に創るしかない。不完全で、様々な歪みを内包していると承知していながらな」
神が世界を創る、と多くの神話で語り継がれてきた。ある意味それは間違いでは無い。
しかし世界という概念は、実のところ神が登場する遥か以前から存在するものだ。神ありきではなく、世界ありき。それが真理であり、神以前に誕生した世界を【真造世界】と呼ぶ。
そして伝承にあるような、神々が生み出した世界というのが、この【幽幻世界】を始めとする【模造世界】群だ。
「【幽幻世界】は夢という媒介を通し、現実に生きる人々の共通理念を土台にすることで完成した。それは小さくまとまっているが故に、破綻の無い【模造世界】である――。主神ロノクスは、此処を創る際にそう思ったことだろう」
「きっと《時軸の竜》と《対の女神》が創ったっていう世界を反面教師にしたんでしょうね。あっちは現実での地球とほぼ同じ形を目指し、果ては宇宙という概念まで枠組みに組み込もうとした結果、制御が利かなくなって彼らの手を離れたらしいじゃない。その失敗を鑑みて、【幽幻世界】をアヌルーンとその周辺だけに限定したって寸法でしょう」
神々が創った【模造世界】にも様々な種類があり、此処と同じような夢の世界もあれば、次元の異なるもうひとつの現実として定着させたものも当然存在する。
しかしそうした世界は、往々にして【真造世界】のように神の想像を超えた変化を勝手に行う。
世界とは、本来神の手には余るものだ。
「だがこの【幽幻世界】にも、停滞という重大な難問が立ち塞がった。街に住む人々が夢での人生を全うし、継代を繰り返しても、世界そのものの時間はどうしようもなく止まっていた。それが淀みを生み、【闇】を強め、正と負のバランスは次第に傾いてきた」
「私達以外の誰も、気付かなかったことでしょうけどね」
サレナは深く溜息を吐き、広場に建てられた愛弟子の彫像にもう一度目をやる。
世界を破滅の運命から救ったその少女は、もう此処には居ない。
「シッスルのおかげで、夢と現実に繋がりが生まれた。もう【幽幻世界】はただの夢じゃない。やがてはもうひとつの現実として、いずれかの次元に根を下ろすだろう。そうすればきっと、あのオーロラの先にも世界が広がる」
彼方のオーロラ・ウォールを指差すイリューゼの横顔は、希望と期待で満ち溢れていた。
「勿論、【闇】の尖兵たる魔族の動きにはより一層の注意が必要だろう。世界が変わったことは、あれらにも少なからず影響を与えている筈だからな。しかしそうした懸念を加味しても、これからの未来は明るい。ずっと退屈だった、閉ざされた世界もこれでようやく終わりだ。あの光の銀幕の向こうに行ける日が今から待ち遠しくならないか、サレナ?」
子供のようにはしゃぎつつ未来に想いを馳せるイリューゼを、サレナは苦笑いと共に眺めた。
「影響が出るのはこの世界だけじゃないでしょう。シッスルが帰っていった現実世界にだって、これから変化が顕れる筈よ」
何せ、この【幽幻世界】での記憶を向こうに持ち帰れるようにしたのだ。間違いなく、その影響は何処かに顕現する。
真っ先に思いつくのは、時間の流れだ。これまでは、【幽幻世界】で過ごした時間は現実に影響を及ぼさなかった。しかしこれからは、その限りではない。
眠って【幽幻世界】に旅立ったのが夜だったとしても、目覚めて現実に帰った時は翌朝になっていた、みたいなことは充分に起こり得る。
目に見える大きな混乱は起きないかも知れない。しかし人々の意識は、確実に変わる。
夢を夢として捉えられなくなった現実の人間達がどのような動きを見せるのか。シッスルはきっと、そこまでの深い予測は持っていなかっただろう。彼女自身が望む世界の形を、現実と夢の双方を巻き込む大きな決断を、恐らくはしっかりとその重さを自覚しないまま〈究極幻術〉に臨んだのだ。
「どうか、あの子が後悔をしないよう。責任を受け止め、尚且つ未来に向かって真っ直ぐ進めるよう、祈りましょうか」
育ての親、魔術の師としてサレナは、シッスルの幸せをひとり願ったのだった。




