突き付けられる選択
夢幻回廊の終わり、その果てにあったのは、人どころか竜でさえ通れそうなくらい大きな扉だった。
「これが、大鐘楼の入り口……!?」
「そうだよ。この扉の先に、聖下の行在所が設けられている」
頑丈で重厚な大扉のあまりの荘厳さに圧倒されていた私に、ウィンガートさんが説明してくれた。
「でも、これだけの大きな扉をどうやって開けば良いんでしょう?」
「それは心配いらないよ。こちらから何かせずとも、僕達はただ待っていれば良いのだから」
その言葉が終わるのを見計らったかのように、目の前に鎮座する巨大な二枚の鉄板から不協和音のようなものが上がる。驚いて視線が釘付けになる私達の前で、分厚い鉄の表層に刻まれた紋様が青い光を放ち始め、真ん中から割れて左右に広がってゆく。
「これは……!?」
「動いてはいけないよ、シェーナ。聖下が僕達を招き入れようとなさっておられるんだ。衣を正し、背筋を伸ばして粛然としていなさい」
「は、はい!」
ウィンガートさんに毅然と注意され、シェーナは元より他の皆も同様に姿勢を改めた。私はそれを、何処か醒めた目で眺めてから、私達の行く道を開こうとしている大扉へと顔を戻した。
やがて音は止み、光も消える。
「いらっしゃい、皆。【聖賢の間】へようこそ、歓迎するよ」
完全に開放された門扉の向こうにあったもの、それは壮麗な色調で整えられた、広大な礼拝堂だった。最奥に巨大な白いクリスタルがまるで御神体のように安置され、その前には祈りを捧げる為の祭壇が設けられている。
その祭壇の前に立ち、私達を迎え入れたのは誰あろう、先程幻術の中で出会ったイリューゼ総主教、その人に間違い無かった。
「聖下、この度は拝謁を賜り恐悦至極にございます」
ウィンガートさんが率先して礼を取り、場の雰囲気に呑まれていた他の皆もやや慌てて後に続く。私はというと、やや冷めた気持ちで軽く会釈をしただけだった。
「うん、わざわざ大鐘楼までご苦労さま。さあ、中に入りなさい」
イリューゼさんに促され、私達は礼拝堂の中へ足を踏み入れる。
「まさか、大鐘楼の中にこんな伽藍があったなんて……!」
シェーナは礼拝堂の持つ空気に当てられたのか、総主教のおわす座という場所柄であることも忘れてしきりに感嘆のため息を漏らしている。カティアさんも同様だ。守護聖騎士の二人には、此処の持つ雰囲気が殊更清浄で神聖なものに思えるのかも知れない。
生憎、私は感動しなかった。今しがたシェーナは此処を伽藍と形容したが、この礼拝堂の大きさと広さは正しく伽藍堂の域だろう。大鐘楼の基底がこんなに空洞で、もし地震とか起きたら大丈夫なんだろうか、と空気を読まない感想しか生まれない。
そんな私の内心を知ってか知らずか、祭壇の前に立つイリューゼさんは穏健な微笑みでじっとこちらを見ていた。
「守護聖騎士団総長ウィンガート、魔術士シッスル・ハイフィールド以下を伴い、ここに参内仕りました」
祭壇の真下に至ったウィンガートさんが、改めて恭しく頭を下げつつ来訪の意を告げる。
「よく来たね。途中で引き返すんじゃないかと思っていたけど、君は前に進むことを選んだんだね」
イリューゼさんはウィンガートさんではなく、私を見つめて言った。
「まだ、心を決めたわけではありません」
「ほう? それならどうして此処まで来たの?」
「中途半端な形であなたが去ってしまったからです。まだ、訊いていないことがあります」
「ああ、それはそうだろうね。さっきの接触では不十分だったのは認めるよ。あの辺りで幻覚を切っておかないと、君はともかく他の皆には後遺症が出ていただろうからね。さっきはあれで限界だったんだ」
私達のやり取りを、シェーナ達は目を丸くして見比べている。
「シッスル、あなた聖下と以前にもお話ししたことがあるの?」
「後で説明するよシェーナ。それよりも今は……」
私は目線でイリューゼさんに内心を訴えた。上手く伝わったのか、彼女は鷹揚に頷いて祭壇の上から手を差し伸べる。
「シッスル・ハイフィールド。まずは君の意志を確かめさせてもらおうじゃないか。上がってきたまえ。他の者達は、しばらくそこで待っていなさい」
私は皆を一瞥すると、イリューゼさんの指示に従って祭壇前に設けられた階段を上がった。背中にシェーナ達の視線を感じるが、今は無視する。
「これが何か分かるかい?」
隣に来た私に、イリューゼさんは声を落として訊いてきた。私達の正面には、あの祀られていた巨大な白いクリスタルが鎮座している。近くで見るとその表面は研磨されているとは言い難く、全体的に凸凹していた。
「多分、【聖なる護り石】の原石じゃないですか?」
「正解だよ。主神ロノクスが司る奇跡、それを扱う触媒の本体がこれさ。守護聖騎士団に配るクリスタルは、全て此処から削り出されたものだ。“お限り様”の分見に等しいこの石は、どれだけ掘削しようと減らないという特性を備えている。まさに神の石さ」
イリューゼさんは嬉しそうにクリスタルに手を伸ばす。実際に触れはしないが、彼女の指先が向けられたことで、クリスタルが一瞬輝きを放ったように見えた。
「これを使い、我々はこの世界を再構築する」
「聖術で、ですか? 幻術は、魔術の一種なのでは?」
「それは半分当たりで、半分外れだよ。そもそも聖術と魔術は、主神ロノクスが内包していた神の力の、それぞれ側面を成しているんだ。魔の力を保有する魔族は、【幽幻世界】が生まれた際に生じた副産物だって話をしただろう? 正確に言えば、神が持っていた負の側面を受け継いで誕生した存在が彼らなんだ。世界というものは、正負両面の性質を併せ持ってこそ均衡を得られる。主神ロノクスはその理に従って、聖術と魔術という相反する力を【幽幻世界】に注ぎ込んだ。で、ここからが大事なんだけど、幻術というものは、まさにこの両者の力をひとつに纏め上げた力なのさ」
「…………」
私は驚かなかった。この世界が【究極幻術】とやらで創造され、そして存続してきた世界だと言うなら、幻術こそが全ての根幹を成す力であることは自明の理だ。
「つまり、私や師匠は神の力とやらを扱える魔術士だと?」
「有り体に言ってしまえばそうなるね。ただ単に扱うだけなら、幻術を行使できる魔術士くらい他にも居る。ただそれを、【究極幻術】を発動出来るまでに鍛え上げられる者となると話は別だ。本人の努力も勿論だけど、結局は持って生まれた資質が左右する。君は運良く、その資格を有していたというわけさ」
「だから師匠も私も、特別な待遇を許された」
「そう。余人から見れば不公平な話だったかも知れないけどね。世界とは往々にしてそういうものだよ。“此処ではない何処か”を目指して創造されたこの【幽幻世界】であっても、そこは変わらない」
イリューゼさんの顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「さっき、あなたは私に言いましたね。【究極幻術】を使う代償は、私の存在そのものだって。あれは、どういう意味なんですか?」
「ああ、少し曖昧だったかな? ボクとしては直球だったつもりなんだけどね。より正確な意味を教えてほしいというなら、そうだな……」
イリューゼさんは笑みを収め、私を試すような眼差しでそれを口にした。
「【究極幻術】というのはね、術者である幻術士そのものを触媒として発動させるものなんだ。つまり、術者の生命と引き換えに【テネブラエ】を防ぐ。ボクが君に求めたのは、そういう役割さ」
流石に、これには冷めつつある私も息を呑んだ。
「死ぬ、ってことですよね? 私が……」
「それ以外の意味には捉えようも無いだろう。【究極幻術】を発動させた幻術士は、この世界での肉体と魂を依り代に世界を構築する理を書き換えるんだ。それによって、魔族が解析したオーロラに関する情報を全て白紙に戻す。そうすれば彼らが地上へ侵攻することなど夢のまた夢となり、【幽幻世界】の均衡は保たれる」
「ゆ、夢の世界で“夢のまた夢”なんて、何とも皮肉が利いた言い回しですね……!」
私は精一杯の虚勢を張って笑おうとした。だが、震える唇からかろうじて紡ぎ出されたのは、苛立ちを含んだ問いかけだった。
「し、死んだら……! こっちの世界で死んだら、私はどうなるんですか……!?」
「心配は要らない。この世界での生を終えた者は、例外なく全て【現実世界】へと還る。夢から醒め、目覚めるようにね。君もそうなるというだけのことだ」
それは、シッスル・ハイフィールドであることを捨て、再び高原薊に戻るということか。イリューゼさんの返事を聴いて、ほんの少しだけ心のざわめきが落ち着いた。
「この世界での記憶は?」
「消える。覚醒した直後から夢の内容が薄れ、霞のように消えていくように。【幽幻世界】で君が体験した全ては、現実に戻った瞬間から曖昧になって忘却の彼方へと去る。それがこの世界での定めだよ」
「消える……? 師匠と暮らした記憶も、シェーナと過ごした日々も、ミレーネさん達と出会った事実も……?」
「全部だ。君の知り合いで例えるなら、デイアンという冒険者が居ただろう? 彼もまた、現実に還った時にこちらの世界に関する一切合切を忘れた。【幽幻世界】を引きずらず、ひとりの青年として、あちらでの人生を再開したよ」
デイアンさんは現実世界で生きている。それ自体は朗報と言えた。しかし……。
「それじゃあ、何の為に私達はこの世界に来たんですか!? あっちに戻っても何も残らないなら、此処での人生にどんな意味があるっていうんですか!?」
「言っただろう? 【幽幻世界】は、“此処では無い何処か”を求める人々の集合的無意識を具現化する為に主神ロノクスが創造した、夢の世界なんだ。夢と現実は決して交わらず、双方が干渉し合ってはならない。この世界は、人々のささやかな願いを叶えるだけの場所だ。堪能するだけ堪能したら、現実に戻らなくてはならない。此処で過ごしたという、事実だけを残して……ね」
私は真っ直ぐ立っていられなくなった。ぐらつき、思わず膝をついたところに、祭壇の下からシェーナの「シッスル!」という心配そうな声が飛んでくる。だが、私はもう彼女の顔を見ていられなかった。
シェーナのことをいくら想ったって、そこに意味は……!
「【テネブラエ】が起きるまで、まだ少し時間がある。それまでにどうするか、良く考えておくんだ」
項垂れた私に、イリューゼさんの無情な言葉が降り注ぐ。
「【幽幻世界】は、空間も時間も完全に独立している。此処でどれだけの時を費やそうと、現実での君の時間は全く動いていない。【究極幻術】の触媒となり、世界の理を再生する礎となって現実に還るか、その役目は師に委ねてまだまだこちらの世界を生きるか。それは自分に決めるんだ。どちらの道を選ぼうと、その意志こそが大事なんだよ。シッスル・ハイフィールド」
私、は…………。