夢のモラトリアム
――答えは三日後に。
イリューゼ総主教さんとそう約束し、私達は大鐘楼を辞去した。
「【テネブラエ】を防ぐ為に必要な防衛術式を用意するのに、それくらいの時間が必要になる。それまでは各自、好きなように過ごすと良い」
表向きは“防衛術式”という名目で、他の皆には説明されている。それを受けて、私達は一旦解散することにした。
「詳しいことは良く分かりませんが、聖下の仰られた防衛術式にはやはりシッスルさんが不可欠なようですね。でしたら、彼女にはそれまでこの大教会で過ごして頂くことになるでしょう」
ウィンガートさんの計らいによってイル=サント大教会の一角に宿舎が設けられ、私とシェーナは三日の間そこで過ごすこととなった。
ミレーネさん、モードさん、カティアさんには、当然ながらそんな制限は課されない。彼女達は今ひとつ釈然としない様子を見せながらも、それぞれの日常へ戻っていった。
「どうかお気をつけて。困ったことがあったら何時でも連絡して下さい。何を差し置いても、私はシッスルさんの力になりますから」
別れ際に見たミレーネさんの切実な顔が頭から離れない。正確な事情は分からなくても、直感的に何かを感じ取っている様子だった。そんな彼女に対して、私は気の利いた言い回しひとつ返せず、ただ単に当たり障りのない気休めだけを送って別れたんだ。“この世界は仮初で、デイアンさんは現実世界で生きている”、などと伝えたところでミレーネさんを困惑させるだけだろう。モードさんなら、ふざけるなと怒り出すかも知れない。
結局、私は仲間達に何ひとつ説明らしい説明をしないまま別れた。所々に予兆はあったにせよ、とんでもない真実を眼前に突き付けられて、私自身消化し切れていないのだ。こんなザマで、世界を救う決断なんて下せるのだろうか?
「はぁ……」
もう何度目になるか分からない溜息が、またしても口から漏れる。あれから既に二日。その間主に私がやったことと言えば、充てがわれた部屋の窓辺に腰掛け、窓枠に頬杖をつきながらぼんやりと外の景色を眺めることだけ。代わり映えのない小庭を惰性で鑑賞しながら、他に何をするでもなくただ無為に時を過ごしているだけの廃れ者だ。
思えば、高原薊としての私も常にこうだったな。
世の中が退屈で仕方無くて、何か特別なイベントでも起きないかといつも願っていた。勉強して、大学に進んで、社会人になって……。そんな型に嵌まったつまらない人生より、もっと刺激的でもっと面白い生き方は出来ないものかと、いつも心の片隅で無い物ねだりをしていた。
自分から、現実を楽しくしようとする努力なんて一切せずに――。
挑むことよりも逃避を選んだ私は、小説の世界に没頭していった。“此処とは違う何処か”を描いた空想の世界に心を飛ばすことで、満たされない飢えを癒そうとした。そんな私を、周囲は『地味だけど読書家で勉強熱心だ』などと評したが、それは違う。現実から逃げる為の読書に、娯楽以上の価値なんてあるものか。
「だから私は、この世界に来た。そして現実を忘れ、シッスル・ハイフィールドとしてこれまで生きてきたんだ。けど、今の私と過去の私で、何処がどう違うと言うんだろう?」
自分のアイデンティティーを確立しようとすらせずに、ただ物語に逃げて世間をやり過ごしていた現実の私。師匠に拾われ、幻術士として育てられながらも特に決まった目標を持たず、受動的に生きてきたこちらの私。
「世界が変わっても、自分が変わらなきゃ意味が無いじゃない……」
苦い言葉が、声となって喉を焼きながら吐き出される。高原薊としての自分を思い出してから、私の心は酷く空虚になってしまった。ぽっかりと穴が空いて、空々しい寒さだけが素通りする殺風景な世界。それが、私という人間の全てなのだと思うと身体が震える。
デイアンさんの死を受けて、冒険者として生きようと思った。魔界から攻めてくる魔族との戦いに身を投じることこそ、自分の進むべき道なんだと信じた。しかしその決意ももう、すっかり色褪せて枯れ木のように痩せ細っている。
夢に本気になったところで、何も残らない。
「シッスル、またそうやって黄昏れているの?」
聞き慣れた声がして、私は引き込まれるように顔を室内に戻した。腕を組んで仁王立ちになったシェーナが、厳しい顔つきで私を見下ろしている。
「聖下に何を言われたのか知らないけどね、ちょっと気が抜けすぎているわよ貴女」
「……ほっといてよ。シェーナには関係無いし」
言いたくも無いのに、刺々しい言葉が自然と口をついて出てきた。彼女は、現実世界での私の友達“久井詩絵菜”の分身、【幽幻世界】における詩絵菜そのものだ。それなのに、こんな心にもない突き放し方をしてしまうのは何故だろう?
「関係無くなんか無いわよ。私は貴女の専属騎士だし、そうでなくとも幼馴染の友達でしょ? 心配するに決まっているじゃない。それに、そんな個人的な事情を抜きにしても、今がどんな状況か嫌というほど分かっている筈でしょう? いつ魔族が攻めて来てもおかしくないのに、それを防ぐ要の貴女がこんなに腑抜けていたんじゃどうしようも無いわ。そんな態度を見せていると、周囲にも不安と疑心を与えるのよ。大概にしておきなさい」
如何にも優等生然としたシェーナの物言いが、逆に私の神経を逆撫でる。
「あっそ。じゃあ何? 優しいシェーナは、私を心配しているから、今がアヌルーンの存亡が掛かっている大事な時期だから、相談でも何でもしろって言いたいの? 総主教さんの指図で、誰にも相談出来ないことを私が抱え込んでいるかもとか考えもしないで?」
「そうは言って――」
「言ってるよ! 詩絵菜……シェーナはいっつもそう! 勉強も出来て、運動も出来て、視野も広くて、周囲の人達から正しい評価を受けて、自分の道をきちんと見据えてる! それは確かに凄いよ! でもね、皆が皆シェーナみたいにちゃんと出来る人ばかりじゃないんだよ! 現状に馴染めなくて、誰も自分を知らない世界に逃げたいって思って、毎日をやり過ごすしか無い弱い人間だってたくさん居るんだよ! 流されることでしか、自分と世界をすり合わせられない弱虫だって、確かに存在するんだよ!」
「シッスル……? 貴女、何を言って……」
「自分で、自分の人生を選び取れる人には、私のことなんて絶対分かんないよ!!」
……ああ、そうか。私はずっと、こんなことを詩絵菜に言いたかったのか。
私のことを“やれば出来る子”だと勝手に思い込んで、過度な期待を寄せて、対等な友達として傍に立とうとしている彼女を、本心では疎ましがっていたのか。
自分では、友達として絶対に釣り合わない相手だと、最初から分かっていたから……。
「…………」
シェーナは唇を引き結び、じっと私を見つめている。その視線は鋭く、痛かった。興奮で荒くなった息を整えるにつれて、彼女のそんな眼差しに耐え難くなってくる。
「……ごめん。こんなことを言ってもしょうがないのに……。今はそんなことを言ってる場合じゃないって、頭ではちゃんと分かってるのに……」
私は俯いて、シェーナの足元に視線を落としながらポツポツと吐き出す。完全に情緒不安定のメンヘラだ。自分で自分の感情をコントロール出来ないのが、途轍もなく悔しい。
「シッスル」
シェーナがこちらに足を踏み出す。彼女の手が持ち上がったのを視界の端に捉えて、私は身体を固くしてじっと耐えた。怒った彼女に折檻されるかも、と思うと今更ながら後悔と恐怖がやってくる。
「来て」
「え……?」
意外なことに、シェーナの手は私の手に伸びてくると、壊れ物を扱うかのように柔らかく手の平を掴んだ。
「一緒に来て」
同じ言葉を繰り返すシェーナが、繋いだ手を優しく、だけど確かな力で引っ張る。私は抗えず、彼女のなすがままに身体を動かしていく。
「ど、何処に行くの? 大教会から出るなって、ウィンガートさんから言われてるのに……」
「中を歩き回るな、とは命令されていないわ。貴女に見せたいものがあるの。もし何か言われたら、私が責任を持つから。行きましょう、シッスル」
シェーナの目には、確固たる意志が宿っていた。自信に満ち溢れた、強い瞳。私が一番欲しくて、ついに得られなかったもの。
――ああ、やっぱり私は何も変わっていない。いつものように、何度も繰り返してきたように、シェーナに引っ張っていってもらうだけだ。
……もう、それでいいや。ただ流されるだけの人生で。それはそれで、きっと楽なんだろうし。
「……分かったよ。シェーナがそういうなら、私は従う。好きなところに連れて行って」
完全に投げ槍になった私は、力無く首を落とすように頷いたのだった。




