『ローマ』の蘇りし技術
――闇の中に溶けていく意識。そして体から消えていく感覚。
あの夜の思い出が何度も蘇る。
エスファーノはハッとして、ベッドの中で跳ねた。
息が荒い。シーツも汗まみれになっていた。
部屋に充満する香のかおりと、外からの朝の外気が一緒になってまるで天国にでもいるような雰囲気であった。
額を拭いながら、エスファーノは我に返る。
ここは『ローマ』の客室。あの野盗の襲来で自分だけは生き残り、『ローマ』によって助け出された。自分がなんの意味もないと思っていた、『副大使』という称号によって。
エスファーノが目覚めたのを察した下男らしき人物が、そっと着替えを部屋に運ぶ。
「本日は朝食を一緒にとりたいとの、護民官さまの命令です」
下男がそう告げる。
着替えて、指定された部屋に行くとそこには護民官――リウィアの姿があった。風呂の後なのだろうか、普段はまとまりのある短めの黒い髪が、やや膨らんでいるようにも見えた。
「おはよう。副大使どの。朝食はいかがだろうか。ついでと言っては何だが、この後の朝の散歩も付き合ってくれると嬉しい」
テーブルの上には細長いパンとミルク、そして果実が数房のっているのみである。リウィアの性質なのだろうか、極めてシンプルで質素な朝食であった。
早々に朝食を済ませ、二人は街なかへと歩みを進める。
元老院がある官庁街――リウィアはそこを『フォロ=ロマーノ』の呼んでいた――を過ぎ、大通りへと向かう。
大理石のレンガでくまれた路地を歩く。まだ朝であるにも関わらず人の通りは多い。
護衛もつけずに二人はゆく。そうリウィアが命じたのだ。エスファーノの腰には先日リウィアから貰い受けた剣が一指し、さされていた。
「すごい人出ですね」
エスファーノが、自分の住んでいた街と比較してそうつぶやく。
「この『ローマ』は人口がせいぜい一万弱だ。かつての『ローマ』であればこの百倍の賑わいであろう」
広い路地の両端には、くぼみが一直線に伸びている。下水路であろうか。そして、そこかしこにある金属の管から水が流れ出ていた。古典の本で読んだことがある。これが名高い『ローマの水道』であろうかと思いながら。
市場に迷い込んだのだろうか、両側に店が連なる。露天だけではなく、常設の店も多い。時間的にもまだ早いからか、店のものらしき人が忙しそうに商売物を運んでいた。食べ物なのだろうか。籠に乾燥した草のようなものが、山盛りにされていた。
「東方の香辛料だ。本来はヨーロッパに輸出しているのだが、余ったぶんは市内で消費している」
リウィアの説明にエスファーノは驚く。あれだけの量があるのに『余り』なのか、と。この時代、香辛料貿易はヴェネツィアが一手に独占しているはずだった。
「そのヴェネツィアに少なからず我が『ローマ』は香辛料を売っている。それなりの値段でな。連中はどのくらい儲けをくわえているのやら」
西ヨーロッパでは、当時胡椒は同じ重さの金と同価とも言われていた。エスファーノ程度の貴族では日常生活で味わうことすらでキないほどの、贅沢品であった。
「わが『ローマ』の商人たちはムスリムやベネツィアの商人に身をやつし、東方の産物を買い付けてくる。それがこの国の一つの大事な産業になっているのだ」
市場を通り過ぎ、道が狭くなる。
両側には屋根のない建物がいくつも並ぶ。そこにはなにやら煙を上げる煙突や、火を使って鉄を溶かす様子が見えた。
「ここは工房が立ち並ぶ区域だ」
エスファーノは目を疑う。
鍛冶屋は見たことがあるが、その比ではない。規模や人の数、何より使っている道具が全く見たことのないものばかりであった。
「われわれはかなり早い時期に『奴隷』を捨てた」
奴隷。それはローマに不可分の存在である。奴隷労働が市民たちの豊かな生活を支えたのだった。
「『奴隷』は実はあまり、生産性の良いものではない。そして意思もあれば、理性もある。そして感情も。それを見誤った結果が、スパルタクスの反乱であった。またローマ帝国の衰退は奴隷に労働を頼り切り、その労働力不足が原因とも考えられている」
そう言いながら、工房の隅をリウィアは指差す。
「生物ではない、人間が完全にコントロールできるものに労働の原動力を求めるべきなのだ。それはすでにギリシャの時代、アレクサンドリアのヘロンが原型を作っていた――蒸気の力で回転運動の動力を得る『蒸気機関』だ」
鉄の縦に長い釜から、白い蒸気が噴き出す。それにつけられた棒が回転し、その動力が別な機械へと伝えられる。
エスファーノは見たこともない機械、ではなかった。それは水車の動力によく似ていた。いくつもの歯車で水車の回転を変換する機械である。
「石炭や木炭で大きな釜を熱して、そこで水を沸騰させる。そこで生じる蒸気の勢いで動力を得る。なんてことはない、単純なものだ」
そう言いながら、奥の工房にリウィアはエスファーノを招き入れる。
そこにはいくつもの武器が、ところ狭しと並んでいた――




