上洛
「殿、正気でございますか! 冬の海を渡るなど、自殺行為であります!」
沼田祐光は、血相を変えて主君・津軽為信の前に平伏した。
時は1585年。津軽地方を切り取り、名実ともにその地を統一した為信が次に狙うは、天下統一が目前にまで迫った豊臣秀吉への拝謁し、独立大名としての承認を取り付けることだった。
為信は、漆黒の髭をなぞりながら不敵に笑った。
「祐光、案ずるな。俺が領地を空けて大坂へ向かうとなれば、あの執念深い南部氏が必ず背後を突いてくる。奴らの侵攻を防ぎ、かつ俺が動ける好機は、陸路が雪で完全に閉ざされる冬しかない。」
「それは重々承知しております! されど、冬の海は地獄。荒れ狂う怒濤に呑まれれば、秀吉公にまみえる前に海の藻屑となりますぞ!」
「ふっ……。天が俺に味方するか否か、試すには絶好の荒波よ。船を出せ!」
――しかし、天の配剤は非情であった。
無理を押して鯵ヶ沢を出た為信の一行を待っていたのは、文字通り天を突くような怒濤と、視界を白一色に染め上げる暴風雪だった。木の葉のように揉まれる船の中で、家臣たちは必死に神仏に祈ったが、自然の猛威の前には無力。為信の乗った船は、なす術もなく北へと流されていった。
数日後。
叩きつけられる波の音と、凍てつく寒さの中で為信が目を覚ますと、そこは見知らぬ荒涼とした海岸だった。
「……ここは、どこだ?」
「殿、ご無事で! ……どうやら、蝦夷地にまで流されてしまったようです……」
息も絶え絶えの家臣が報告する。命からがら浜に打ち上げられた為信一行。しかし、一息つく間もなく、ざくざくと雪を踏みしめる無数の足音が迫ってきた。
「動くな! 何奴だ!」
現れたのは、当地を治める蠣崎氏の領民や番兵たちだった。抜き放たれた白刃が、ギラりと冬の鈍色の光を反射する。
無理もない。いくら行き倒れとはいえ、武装した一団が冬の嵐に紛れて突然上陸してきたのだ。下手をすれば、侵略の先遣隊と誤解され、その場で切り捨てられても文句は言えない。
番兵の頭領が、為信を鋭く睨みつけ、誰何の声を浴びせた。
「この大時化の冬の海を渡って、わざわざこんな北の果てまで、一体何をしに来た!?」
周囲を囲む番兵たちの緊張が高まる。家臣たちが思わず刀の柄に手をかけようとしたその時、為信はふっと表情を和らげ、事も無げに言った。
「ははは、そう警戒されるな。我らは怪しい者ではない。」
為信は立ち上がり、雪を払うと、懐から懐紙を取り出して鼻をすするような仕草を見せた。そして、満面の笑みを浮かべてこう言い放ったのだ。
「鰊を買い付けに来ました。」
「……は?」
番兵たちは呆気にとられ、構えた刀がわずかに下がった。
「いや何、今年の冬はとりわけ冷える。我が領民に美味い鰊を腹いっぱい食わせてやりたくてな。少々気が急いて、時化の海に飛び出してしまったのだ。いや、面目ない!」
あまりに堂々とした、そしてあまりに場違いな「商い」の言葉に、殺気立っていたその場は一瞬にして奇妙な静寂に包まれた。この一言が、後に天下を揺るがす津軽の雄・為信の、絶体絶命の窮地を救う劇的な大嘘となるのである。




