01話 婚約者の浮気
※19世紀前半を想定しています。
――十九世紀英国、ロンドン。
馬車の窓の外には、黄昏時の淡い藍色に染まった街並みがあった。
石畳の道の両脇に並んだガス灯が明かりを灯している。
(もう許さない……)
お茶会の帰り道。
伯爵令嬢エレノア・ウィットモアは馬車の窓の外に流れて行く風景を眺めていたが、しかし、頭の中では別の光景を見ていた。
それは、今までにエレノアが何度も見た腹立たしい光景。
エレノアの婚約者である子爵令息アンドリュー・ハーコートが、男爵令嬢リリス・ミラーと仲良く連れ立って、楽しそうにしている光景。
どこからどう見ても浮気にしか見えない光景だ。
――アンドリュー・ハーコート氏がリリス・ミラー嬢と一緒にいるのを見たわよ。
――コベント・ガーデンの劇場で。
――まるで恋人同士だったわ。
今日のお茶会でも、アンドリューがリリス・ミラーと一緒にいたという目撃情報を友人がくれた。
友人知人たちから、そんな目撃情報がぞくぞくとエレノアの元に寄せられている。
――アンドリュー・ハーコート氏は女性と一緒にカフェに来ていたわ。
――リージェント街のカフェよ。
――ええ、そう、ローズ・ブロンドの女性だった。
――ロイヤル・オペラハウスにアンドリュー氏がリリス・ミラー嬢と来ていたわ。
――アンドリュー・ハーコート氏とリリス・ミラー嬢なら私も見たわよ。
――バークリー広場で二人でアイスクリームを食べていた。
エレノア自身も、アンドリューとリリス・ミラーが連れ立っている現場を何度も見ていた。
(弁護士を探して、あの女を訴えてやるわ!)
◆
――フリート街。
その通りには、雑多な人々や馬車がせわしなく行き交っていた。
馬車を引く馬たちの馬蹄が石畳を叩く音が、遠くに近くに、ひっきりなしに聞こえる。
通りの両側に並んでいる煤けた煉瓦造りの建物たちには、様々な新聞社が看板を掲げていた。
どこかで稼働している輪転機の低い地響きのような音。
「……」
エレノアは付き添いの小間使いとともに、馬車から下りると、フリート街のその喧騒の中に立った。
そこには酷い悪臭が漂っていた。
ロンドンの背景ともいえるテムズ川のすえた泥の臭いに、フリート溝の腐敗臭が踊っている。
さらに印刷所が多いこの通りにはインクの臭いも漂っていた。
そして馬車を引くたくさんの馬たちの落とし物の臭い。
エレノアは悪臭に眉を顰め、サテンの婦人用手提げ袋からレースのハンカチを取り出すと口元に当てた。
「酷い悪臭でございますね」
小間使いもハンカチで口元を押さえ、顔を顰めている。
「行きましょう」
「はい」
エレノアは小間使いと共に石畳の道を歩き始めた。
インクで顔や手が汚れているエプロン姿の植字工たちとすれ違う。
通りの向こうを歩いている紳士は、シルクハットにフロックコートという隙の無い身なり。
鬘箱や書類を持った事務員を引き連れて歩いているので、おそらく法廷に向かう弁護士だろう。
フリート街の東には新聞社や印刷所がひしめき合う喧騒があるが、西には法曹院が集中する静謐がある。
そのためこの通りには、新聞記者と植字工と法律家たちが入り乱れることとなった。
フリート街のパブで、新聞記者と印刷工と弁護士とが麦酒を酌み交わしていることは珍しくない。
「新聞、新聞! 号外だよ!」
煤で汚れた顔の新聞売りの少年が、細い腕に新聞の束を抱えて、ロンドンっ子訛りで売り口上を叫んでいる。
「前線の最新ニュースだよ! さあ、買った買った! たったの1ペニー!」
みすぼらしい新聞売りの少年の様子をチラリと見やり、エレノアは小間使いを連れて目的の雑居ビルに向かって歩を進めた。
◆
エレノアと小間使いは煤けた煉瓦造りの雑居ビルに入った。
建物の中に入ると、外の喧騒が少し遠ざかる。
――アーサー・ホルト弁護士事務所。
そう書かれた真鍮のプレートが掲げられている扉の前でエレノアと小間使いは立ち止まった。
小間使いが金属製のドアノッカーに手をかけ、住人を呼ぶ音を鳴らした。
――コン、コン。
◆
「と、いうわけなのです」
法律書や判例集がぎっしりと詰まった本棚が壁一面に並び、あちこちに紙束が積まれ、古紙の臭いが充満する弁護士事務所で。
エレノアは、重厚なマホガニーの机の向こうにいる眼鏡を掛けた男、アーサー・ホルト弁護士に滔々と語った。
婚約者である子爵令息アンドリュー・ハーコートが男爵令嬢リリス・ミラーに浮気している状況を。
そして自分がどうしたいのかを。
「私の婚約者を略奪したあの女、リリス・ミラーを訴えて、損害賠償金を取ってやりたいのです!」
「ふむ……」
弁護士は少し難しい顔をして唸った。
「レディ・エレノア、どうか落ち着いて聞いてください。まず、結論から申し上げます。リリス・ミラー嬢を訴えることは不可能です」
「何ですって!」
エレノアは声を荒らげて不服を述べた。
「どうしてよ!」
「落ち着いてください」
弁護士はエレノアを落ち着かせようとしてか、おだやかな口調で言った。
「訴えることはできませんが、しかし報復する方法はあります」
「……!」
「順を追ってご説明します」
弁護士は紳士的な物腰で、ゆったりと語り始めた。
「アンドリュー氏とリリス・ミラー嬢が二人だけで出かけていたとおっしゃいますが、これは一般法において罪ではありません。女性が、婚約者がいる男性と二人きりで出掛けることは、不道徳なことです。しかし道徳は法律ではありません。我が英国の一般法において、男女が二人で出かけることは罪ではありませんので、罰を与えることはできないのです」
「でも私とアンドリューは婚約しているわ。不貞行為は罪のはずよ」
「不貞罪という罪はあります。しかしそれを訴えることができるのは結婚している者だけです。あなたはまだ彼と結婚しておらず、彼の妻ではないので、不貞罪で訴えることはできません」
「婚約しているのに……」
理不尽を感じたエレノアは、盛大に眉を歪めた。
「婚約者を略奪され、私の名誉が傷つけられたのです。あの女を名誉棄損で訴えることはできませんか?」
「レディ・エレノア、あなたはリリス・ミラー嬢に悪評を流されましたか?」
「いいえ」
「名誉棄損で訴えることは難しいです」
「……」
エレノアはぎりっと唇を噛んだ。
しかし弁護士は次の句でエレノアに希望を提示した。
「しかし別の方法で報復することはできます」




