第80話 橋は太くなった。では、どこから動かす
重い橋が来れば、それで安心できると思いたくなる。
明智光秀が京へ入った。
それだけで、寺社の言葉は整い、公家筋の顔は張り直され、町のざわめきも“いよいよ動く”という形へ変わった。
龍之介自身も、どこかで少しだけ息をついていたのかもしれない。
だが、安心と油断はよく似ていて、たいていはそこで場を誤る。
橋は太くなった。
では、何を最初に乗せるのか。
どの顔から当てるのか。
どこまでを龍之介が持ち続け、どこからを明智の理へ渡し、秀吉の糸をどこへ残すのか。
その順を違えれば、せっかく太くした橋が、またすぐに一本へ寄りすぎる。
都は便利な方へ流れる。
それは京へ来てから何度も見てきたことだった。
「……呼んで終わりなら、どれだけ楽だったろうな」
夜の宿の奥で、龍之介がそう呟くと、影鷹がいつも通り言った。
「今さらでございます」
「本当に、それしかないのか」
「本当にその通りにございますので」
やはり腹は立つ。
だが、今日はその返しが妙にしっくり来た。
ここまでは、橋を立てる話だった。
だがここからは違う。
立った橋へ、どの荷をどの順で渡すか。
それを誤らぬための設計が要る。
◇
光秀が座についたあと、龍之介は一枚の書き付けを前へ置いた。
大仰なものではない。
だが、ここまで京で見てきたものを、いちばん崩れぬ形で並べた見取り図だった。
光秀は黙ってそれを見る。
その沈黙が、ありがたかった。
軽く口を挟まれるより、まず最後まで見てもらえる方が、この人には似合う。
紙の上には、大きく三つの列があった。
すぐに明智の橋へ渡すべきもの
まだ龍之介が持つべきもの
秀吉の糸へ残すべきもの
龍之介は、順に指を置きながら言った。
「まず」
「うむ」
「公家筋の家の面目に触れている本筋。ここは、日向守殿の理が要ります」
「……」
「都の扱われ方そのものに触れている。寺の下や町の荷の話を越え、家の顔の層へ入っている」
光秀は小さく頷いた。
ここはもう、異論の出ようがないのだろう。
龍之介の器では軽い。
秀吉の糸ではなお軽い。
だからこそ、呼んだ。
「次」
龍之介は中央の列へ指を移す。
「寺の下に残る細かな火と、町の荷の小さな歪み。ここは、まだ私が持ちます」
光秀が初めて口を開いた。
「なぜだ」
短い問いだった。
だがそこに必要なものは全部入っている。
「ここを全部、日向守殿へ持っていけば」
龍之介は答えた。
「重い橋に小荷物まで山のように積むことになります」
「……」
「それでは、明智の橋が強すぎる。しかも、下の火まで“まず明智へ”の器に戻る」
光秀は、そこで少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「下の火は、私が持つ。だが、どこが上へ響くか、その線だけは日向守殿へ渡します」
「それでよい」
その一言で、かなり救われた気がした。
もしここで光秀が“全部見せよ”という人なら、この物語の構造はかなり変わってしまう。
だがこの人は違う。
理が通れば、重い橋に余計な荷を積みすぎぬことも分かる。
「そして最後」
龍之介は右の列を示した。
「羽柴殿の糸です」
光秀の視線が少しだけ動く。
やはりそこには必ず感情の影が差す。
だがそれでも、切り捨てぬのが明智光秀という人だ。
「周りを割る」
龍之介は言った。
「家の顔そのものには軽い。だが、その周囲で“羽柴へ通せば少し早い”口はまだ要ります」
「……」
「日向守殿が本筋へ入るなら、なおさらです。周りが全部、明智の橋へ寄らぬよう、羽柴の糸を別に残しておく」
光秀は、しばらく沈黙してから言った。
「嫌な配りだな」
「はい」
「だが、それでよい」
その答えは、実にこの人らしかった。
◇
しばしのあと、光秀は見取り図から目を上げた。
「龍之介殿」
「は」
「どこから見る」
その問いは、短いが非常に重かった。
つまり、橋が太くなった以上、最初の一手をどこへ置くかを問うているのだ。
そしてその一手は、そのままこの先の寄り方を決める。
龍之介はあらかじめ考えていた答えを、そのまま置いた。
「家の顔そのものからは入りませぬ」
「ほう」
「まず、その家の周りの用人筋と、寺へつながる下の線を見ていただきたい」
「……」
「いきなり本丸へ入れば、京は“明智が来た、なら全部をそこへ”となる」
「そうだな」
「そうではなく、その家の面目がどこで実際の遅れとつながっているかを、まず理として見せる」
光秀は静かに頷いた。
「つまり」
「家の顔の話に見えて、実は下の遅れがどう上へ響いたかを、先に整える」
「悪くない」
その評価は、光秀としてはかなり明確な方だった。
「その次に」
龍之介は続ける。
「公家筋の用人と、日向守殿が直接お話しになる」
「うむ」
「そこでは、都の顔は軽く見ておらぬこと。だが安土の理を退けるために来たのではないこと。その二つを、明智の理で置いていただきたい」
光秀は、わずかに口元を緩めた。
「おぬし」
「は」
「人の使い方が、だいぶ上様に似てきたな」
ありがたくないような、だが少しだけ光栄でもある言葉だった。
「それは」
龍之介は苦笑する。
「褒め言葉と受け取ってよろしいので」
「半分だけな」
そういうところが、この人らしい。
◇
そこで影鷹が、外の空気を拾って戻ってきた。
「どうだ」
龍之介が問うと、影鷹はすぐに答える。
「寺社は、明智殿の最初の顔をどこへ出されるか見ております」
「うむ」
「町は、“これで一気に上だけへ行くのではないか”と半ば構えております」
「やはりな」
「羽柴の口は、周りの用人筋へ少し薄く張り直されております」
光秀がそこで初めて影鷹を真正面から見た。
「羽柴は」
「はい」
「競わぬか」
影鷹は少しだけ笑う。
「競えば負ける場は、ようご存じかと」
「……らしいな」
光秀のその一言には、苦い納得が混じっていた。
秀吉は、真正面から明智の理とぶつかるような浅い男ではない。
だからこそ厄介だ。
そして、だからこそまだ使える。
「日向守殿」
龍之介は言った。
「羽柴の糸は、切りませぬ」
「分かっておる」
「ありがたい」
「ありがたくはない」
今度は光秀がそう言い、龍之介は思わず少し笑った。
その“ありがたくはない”は、あまりに自分の感覚に近かった。
◇
夜が更ける前に、龍之介はもう一度だけ見取り図へ手を入れた。
明日、光秀が最初に見るべき相手。
その次に当てる顔。
町へどう器を見せるか。
寺の下へは何をまだこちらで持つと伝えるか。
秀吉の糸は、どこへだけ残すか。
ここまで来ると、もはやこれは単なる相談役の仕事ではない。
橋を立てる者ですらない。
橋が立ったあと、その橋へ過不足なく荷を渡す設計役 だ。
「……役目が変わったな」
龍之介が小さく言うと、影鷹が答えた。
「最初から、そのために京へ下られたのでしょう」
「今さら、か」
「今さらでございます」
やはりそこへ戻る。
だが、今日はもう腹も立たなかった。
そうなのだろう。
京へ来た時、自分は明智の代わりになるためではなく、明智が来た時に場が一本へ戻らぬよう整えるために来ていた。
そして今、その役目がようやく本当の形を持ち始めている。
「……呼んで終わりではない」
龍之介が言うと、光秀が静かに続けた。
「ここからだ」
「はい」
「では、明日より動こう」
その一言で、ようやく次の章の扉が見えた気がした。




