第23話 丹羽長秀、静かに試す
安土において、派手な圧はむしろ分かりやすい。
柴田勝家のように、大きく、重く、武で立ってきた男の威は、ぶつけられれば誰にでも伝わる。
強い。
近づけば折られかねぬ。
だからこそ、備えようもある。
だが、丹羽長秀のような男は違う。
静かで、穏やかで、無駄に声を荒げぬ。
そのぶん、どこで試されているのかが見えにくい。
人を威で押さぬ代わりに、気づけば理の中でじわじわと詰められている。
龍之介はそういう相手の方が、ある意味ではよほど怖いと思っていた。
実際、その日の夕刻近く、龍之介が机に向かって線を引き直していたところへ現れたのは、まさにその静かな圧だった。
「お忙しいか」
障子の向こうから、柔らかな声がする。
丹羽長秀だ。
「忙しいと申せば、帰られますか」
龍之介がそう返すと、向こうでほんのわずかに笑う気配がした。
「帰ってもよいが、その場合はおぬしの損になる」
「では入っていただくしかありますまい」
障子が開き、丹羽が入ってくる。
今日も整っている。
服装にも所作にも乱れがない。
だが綺麗すぎるわけではない。実務の場へそのまま出られる整い方だ。
こういう人間が一番信用を集めるのだろうな、と龍之介は思う。
丹羽は机の前へ来ると、紙を見下ろした。
そこには都、安土、寺社、公家、奉行衆、上意といった文字が並び、それらを結ぶ線がいくつも走っている。
線の太さもまちまちだ。
寄りすぎているところ、逆に細すぎるところ、まだ線すら引けぬところ。
龍之介にとっては、それがいまの“安土と都のあいだの見取り図”だった。
「見ても」
丹羽が問う。
「どうぞ」
丹羽は黙って紙を見た。
長い。
だが焦らない。
この男は、黙っている時間そのものでも相手を測る。
こちらが不用意に喋り始めるか、言い訳を足すか、過剰に説明したくなるか。
そういう揺れも見ているのだろう。
龍之介は喋らなかった。
丹羽が何をどう見るかは分からぬ。
だが、ここで先回りの弁を重ねるのはよくないと感じた。
「……なるほど」
やがて丹羽がそう言った。
「少しは形になってきたか」
「少し、にございます」
「少しを強調するな」
「まだ粗うございますので」
丹羽は机の上の一箇所を指で示した。
「ここだな」
都と寺社から伸びる線が、いったん一つへ寄ってから安土へ向かう部分だ。
「日向守殿の辺りかと」
龍之介が言うと、丹羽は頷いた。
「おぬし、本当にあそこが詰まりの中心だと思うか」
来たな、と龍之介は思った。
これは確認の問いではない。
試しの問いだ。
自分の見立てを、どこまで自分の言葉で持っているかを見に来ている。
「思います」
「なぜ」
「本能寺の朝まで行ったからです」
丹羽の表情は動かない。
龍之介は続ける。
「もし日向守殿がただの弱い者なら、もっと前に潰れていたはずです。ですが、あの方は強い。強く、器量があり、理も立つ。だからこそ保ってきた」
「うむ」
「その方があそこまで行ったのなら、“個人の脆さ”ではなく“構造の寄りすぎ”を疑うべきかと」
丹羽は机から目を上げた。
「構造、か」
「はい」
「おぬし、その言葉を好むな」
「人ではなく流れを見ようとすると、そうなります」
「人を見ていないわけではあるまい」
「見ております。ですが、人だけを責めても次は防げませぬ」
丹羽はその返答に、微かに頷いた。
「では、逆に問おう」
「はい」
「日向守殿のところで詰まった。ならば、その役目を二つ三つに分ければ済むか」
龍之介は首を横に振った。
「済みませぬ」
「なぜだ」
「役目を分けただけでは、新しい争いが生まれます」
丹羽の目が細まる。
興味を持った時の顔だ。
「申せ」
「都の受け口を別に立てる。寺社との顔役を別に置く。安土で噛み砕く者を別にする。理屈だけなら綺麗です」
「うむ」
「ですが、そうすれば今度は“誰の言葉が上様へ近いか”で揉めます。顔が立つ者、立たぬ者。権が増える者、削られたと思う者」
「……」
「つまり、役を増やせば新しい線は引けますが、同時に新しい利も生まれる」
丹羽はそこで、小さく息を吐いた。
「そこまで見ておるか」
「見えているつもりにございます」
「つもり、な」
「断言は危ういと、ようやく学び始めたところです」
その答えに、丹羽はわずかに笑った。
「悪くない」
短い言葉だ。
だが龍之介には、先ほどよりほんの少しだけ重みが増した“悪くない”に聞こえた。
「では、どうする」
丹羽は続ける。
「役を分けるだけでは利がぶつかる。だが、分けずにおけばまた寄る。どうやって橋を架ける」
龍之介は、そこで少しだけ視線を落とした。
答えはまだ完全にはない。
だが、輪郭だけならある。
「まずは、役を増やす前に“言葉の行き先”を分けるべきかと」
「言葉の行き先」
「はい」
龍之介は紙の上へ新たに線を引きながら説明した。
「都から来る話には、三つほど種類がございます」
「ほう」
「一つ、すぐ上様へ上げるべき話。政や軍に直に響くもの」
「うむ」
「二つ、いったん安土側で噛み砕くべき話。都の顔や寺社の理が濃すぎて、そのままでは上様に届いても角が立つもの」
「うむ」
「三つ、上様まで持ち込まずとも、奉行や近習の手で処理した方が早い細事」
丹羽は黙って聞いている。
「いまは、その三つが人の器量で分かれております」
「つまり」
「日向守殿のような方が、“これは上へ”“これは自分で処理”“これは顔を立てて寝かせる”を、全部ご自身の腹ひとつで分けておられた」
「……その通りだろうな」
「ならば、まずその分け方を見えるようにすべきです」
丹羽の目が、そこで少しだけ深くなった。
「見えるように」
「はい。誰が見ても同じように割り切れるほど単純ではございませぬ。ですが、“何でも日向守殿へ行く”ではなく、“こういう類はまず誰が持つ”という癖をつけるだけでも、寄り方は変わります」
丹羽は顎へ指を当てる。
「役職を増やさず、流れの慣らしで分散させるか」
「それが第一歩かと」
「だが、おぬし」
丹羽の声が少し低くなる。
「慣らしは慣らしでしかない。結局は、誰かが“ここで分ける”と決める手になる」
「はい」
「その誰かに、新しい権が生まれる」
「はい」
「では、それは誰だ」
そこだ。
まさにそこを問われると思っていた。
龍之介は丹羽を見た。
「今は、私であってはならぬと思っております」
丹羽の眉が、ほんのわずかに上がる。
「ほう」
「上様が私を異物として噛ませたのは、いま詰まりがどこにあるかを見るためであって、そこへ新しい太い管として据えるためではありますまい」
「そこまで分かるか」
「そこを分からねば、自分が次の光秀になります」
丹羽は黙った。
龍之介もまた、それ以上は言葉を足さない。
しばしの沈黙の後、丹羽がぽつりと言う。
「おぬし、案外、自分の危うさが見えておるな」
「見えておるからこそ、怖いのです」
「そうか」
「都も見よ、安土も繋げよ、上様のそばにもおれ――それを全部一人で回し始めれば、また同じことになります」
「たしかに」
「ですから私がやるべきは、橋そのものになることではなく、橋をどこへ架けるべきかを示すことかと」
丹羽はゆっくりと頷いた。
「よい」
その一言は、これまでの“悪くない”より少しだけ重かった。
「ようやく、上様がなぜおぬしを残したか分かってきた」
「それは、褒めておられますか」
「褒めてはおらぬ」
丹羽は静かに言う。
「使い道がある、と見ているだけだ」
「十分にございます」
「おぬし、そういうところは図太いな」
「百まで生きましたゆえ」
つい口が滑った、と龍之介は思ったが、丹羽はそこに引っかからなかった。
それを比喩と取ったのか、深く追う気がなかったのか。
どちらにせよ助かった。
「では、もう一つ試そう」
丹羽が言った。
「何でしょう」
「おぬしの案、羽柴殿が嫌がりそうだ」
龍之介は、その言葉に一瞬だけ黙った。
やはりそこへ行くか。
「……なぜ、そう思われます」
「簡単だ」
丹羽は机の上の線を指でなぞる。
「都と安土のあいだが整えば、情報の流れは今より早く、そして透明になる」
「はい」
「それは上様にとっては利だ。だが、間で勘を利かせて立つ者には、不利にもなりうる」
龍之介は、なるほどと思った。
羽柴秀吉という男は、ただ命を受けて動く者ではない。
人の動き、空気の揺れ、噂の濃淡、そういう曖昧なものを誰よりもうまく拾って、自分の位置を高めてきた男でもある。
ならば“流れが整う”ことは、必ずしも彼にとってだけの得ではない。
「おぬしの引こうとする筋は、曖昧さを少し減らす」
丹羽が続ける。
「羽柴殿のように、曖昧さの中で一歩先を読む者には、それが鬱陶しかろう」
「……そうでしょうな」
「しかも、おぬしは都筋に近く、上様の近くにも置かれた」
「はい」
「羽柴殿から見れば、目障りであって当然だ」
丹羽は淡々とそう言った。
厳しい。
だが、厳しいからこそ本質だ。
龍之介は少しだけ苦笑した。
「会う前から嫌われるのは、あまり気分のよいものではありませぬな」
「まだ嫌われると決まったわけではない」
「では」
「警戒はされる」
「それも十分に気分がよくありませぬ」
その返しに、丹羽はほんのわずかに笑った。
「そうだな」
そして立ち上がる。
「おぬしの案、机上だけでは終わらせるな」
「承知しております」
「人の流れ、文の流れ、顔の流れ、全部をもう少し歩いて見よ。上様へ出す前に、紙だけで固めるな」
「はい」
「そうすれば、使い道はさらに明るくなる」
それだけ言って、丹羽は障子の方へ向かった。
去り際、ふと振り返る。
「龍之介」
「は」
「羽柴殿は、おぬしが思うよりずっと怖いぞ」
低い声だった。
「勝家殿にも似たようなことを言われました」
「柴田殿は“腹で斬る”と言ったか」
「ええ」
丹羽は頷いた。
「よい喩えだ。あの方は、表では笑い、裏では理で詰め、最後は相手自身に“こちらへ寄った方が得だ”と思わせる」
「厄介ですな」
「まことにな」
丹羽はそう言って去った。
◇
一人残された部屋で、龍之介はしばらく机に向かったまま動かなかった。
丹羽長秀。
静かな男だ。
だが、試し方は容赦がない。
机上の理屈か。
実務へ落とせるか。
自分が橋そのものになろうとしていないか。
秀吉にどう見られるか。
すべてを、声を荒げずに問うてきた。
それに答えられたかどうかは分からない。
だが少なくとも、“話にならぬ男”ではないと見せることはできた気がした。
「……詰まりを見つける職人、か」
ぽつりと呟く。
悪くない言い方だと思う。
自分は英雄ではない。
信長でも、光秀でも、秀吉でもない。
天下を一刀で変えるような男ではない。
だが、強い者たちが全力で走る時、どこで人が潰れ、どこで流れが詰まり、どこへ一本通せば少しだけ持つようになるかを見ることなら、やれるかもしれない。
それがこの戦国で、どれほどの意味を持つかはまだ分からない。
だが信長は、そこに使い道を見ている。
そして丹羽もまた、少なくとも切り捨てはしなかった。
その時、障子の向こうから影鷹の声がした。
「終わりましたか」
「入れ」
影鷹が音も薄く入ってくる。
「丹羽殿でございましたな」
「おぬし、何でも分かっておる顔をするな」
「顔ではなく、気配でございます」
「便利だ」
「たびたび言われます」
影鷹は机の紙をちらと見た。
「で、静かに試されましたか」
「静かに、かなり」
「でしょうとも」
「この城、うるさい者より静かな者の方が怖いな」
「安土にございますので」
それですべて説明がつくわけではないが、妙に腑に落ちる返しだった。
「一つ、面倒なことが増えた」
龍之介が言うと、影鷹は目を細める。
「羽柴殿にございますか」
「やはり分かるか」
「三上殿のお顔に出ております」
「そんなに分かりやすいか」
「羽柴の名を聞いて胃が重くなったお顔にございます」
「……たしかに重い」
影鷹は少しだけ笑う。
「それで正しいかと」
「嬉しくない正しさだな」
「戦国の正しさはだいたいそういうものです」
龍之介は、机の上の線をもう一度見た。
都。
安土。
寺社。
光秀。
信長。
そして、まだ顔も見ていない羽柴秀吉。
線は増える。
増えれば増えるほど、詰まりも見えてくる。
だが同時に、そこへ自分が関わる危うさも増していく。
「影鷹」
「は」
「この仕事、思ったよりずっと面倒だ」
「今さらでございます」
「今さらだが、改めてだ」
「そうでございましょうとも」
影鷹は静かに頷く。
「ですが、面倒な方が性に合っておられるようにも見えます」
龍之介は、その言葉にすぐには返せなかった。
たしかにそうかもしれない。
簡単に片づくものより、どこが詰まり、どこをほぐすかを考える方が、性には合っている。
戦国でそれをやるのが正しいかどうかは別として。
「……否定できぬな」
そう答えると、影鷹は満足そうに目を細めた。
安土の夕方が、少しずつ近づいていた。
城の中の気配もまた、昼とは別の濃さを帯び始めている。
龍之介は思う。
本能寺を止めたことで、ただ一つの歴史を変えたと思っていた。
だが実際には、その後にある無数の細い線へ自分の指をかけてしまったのだ。
どれか一つを間違えれば、また別の場所で火が出る。
そして、その線の先には羽柴秀吉がいる。
会ってもいないのに、もう嫌な汗が出そうだった。




