第27話:最後の大仕事
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1. 瓦礫の中の「種」
「……源さん。これ、収穫祭のパンフレットです」
嵐のような崩壊から三日。工房の隅で、虚脱したようにパイプ椅子に座っていた源さんの膝に、私は一枚のカラー刷りのチラシを置いた。
南城市で開催される「地元の収穫祭」。毎年、あおぞら工房も小さなブースを出しているが、今年は実行委員会から「ぜひ、源さんのパンを」と指名が入っていた。
源さんは、ピントの合わない目でチラシを眺めた。
「……最後、か。……職人でもない、ただのボケたじいさんに、何を焼けと言うんだ。……恥をさらしに行くだけだろう」
その声には、かつての覇気は微塵もなかった。
一ノ瀬が突きつけた「絶望」という名の真実。それは源さんの誇りを粉々に砕いたが、同時に彼を縛り付けていた「完璧であらねばならない」という呪縛からも解放していた。今の彼は、ただの、小さく萎びた老人だった。
「……源さん。銀座の佐藤さんとしてじゃなくていいんです。……今の、あおぞら工房の源さんとして、一本だけ焼いてくれませんか。……みんな、待ってるんです」
「……待っている? ……この、失敗作のパンをか?」
源さんは、自分の震える掌を見つめた。
そこに、一ノ瀬さんが事務室から、一袋のライ麦粉を放り投げた。
「源。……お前が死ぬ前に、ひとつだけ教えてやる。……客ってのはな、技術を食ってるんじゃねえ。……そのパンの向こう側にある『執念』を食ってるんだよ」
一ノ瀬さんは、相変わらずスマホの画面を見たまま、ぶっきらぼうに続けた。
「……お前のライ麦パンには、執念があった。……キヨって女に、もう一度だけ笑ってほしいっていう、死にぞこないの執念だ。……それを捨てて、何が職人だ。……恥をかけ。……泥を啜れ。……それができないなら、今すぐそのエプロンを雑巾にしろ」
一ノ瀬の言葉は、氷のように冷たく、けれど火のように熱かった。
源さんの瞳の奥で、消えかかっていた小さな種火が、パチリと音を立てて爆ぜた。
2. 記憶の断絶、身体の彷徨
「……よし。……やる。……やるぞ、小娘」
源さんが立ち上がった。
その足取りは覚束ない。けれど、彼は自分の足で作業台まで歩き、一ノ瀬が投げたライ麦粉を抱きしめた。
収穫祭まで、あと一週間。
源さんの挑戦が始まった。
メニューは、あの「幻のライ麦パン」。
しかし、認知症という怪物は、彼の歩みを一歩ごとに阻む。
「……あれ。……水は、何グラムだ。……昨日、書いたはずなのに」
源さんは、自分の書いたメモさえ読めなくなっていた。
「……くるみ。……私は、今、何をしようとしていたんだ。……ここは、どこだ。……私は、誰だ……」
一日に何度も、源さんの意識は霧の中に消える。
そのたびに、私は彼の隣に立ち、名前を呼び続け、彼が「今、ここ」にいることを繋ぎ止めた。
「源さん。あなたは源さん。パンを焼く人です。今は、粉を量る時間ですよ」
私はもう、遠隔操作のデバイスも、隠した小袋も使わなかった。
彼が間違えたら、一緒にやり直す。
彼が忘れたら、一緒に思い出す。
「透明なサポート」ではない。泥まみれの、剥き出しの「伴走」だ。
「……三、二、窓。……三、二、窓」
ヒロくんが、源さんの横でリズムを刻み続ける。
源さんの意識が途切れそうになると、ヒロくんの声が、彼の身体を現実に呼び戻す。
「……じいじ、次。……捏ねる。……リズム、崩さない」
「……ああ。……そうだったな。……捏ねる。……私は、捏ねる……」
言葉は消えても、リズムが残る。
記憶は失われても、ヒロくんの声が源さんの「軸」になる。
それは、かつての銀座時代には決して味わえなかった、あまりにも不器用で、あまりにも尊い「共作」の風景だった。
3. 前夜の「空白」
収穫祭の前夜。
工房には、明日の本番に向けた静かな緊張感が漂っていた。
源さんは、仕込みを終えた生地を、大切そうに発酵器に入れた。
「……くるみ。……明日の朝、私は、このパンの名前を覚えているだろうか」
源さんが、窓の外の月を見上げながら、ポツリと言った。
「……全部、消えてしまうのが、怖いんだ。……キヨの顔も、パンの匂いも。……私は、真っ白な闇の中に、一人で放り出されるのか」
私は、源さんのゴツゴツした手を、両手で包み込んだ。
「……源さんが忘れても、私が覚えています。……ヒロくんが、そのリズムを覚えています。……一ノ瀬さんが、その味を覚えています。……だから、源さんは一人じゃありません」
源さんは、私の手を握り返した。
その手の熱さは、間違いなく、一人の人間が懸命に生きている証拠だった。
しかし、運命は残酷だった。
収穫祭当日、早朝。
工房に駆けつけた私が見たのは、発酵器の前で呆然と立ち尽くす源さんの姿だった。
「……源さん? おはようございます。さあ、焼きましょう!」
私が明るく声をかけると、源さんはゆっくりと振り返った。
その瞳には、昨日までの「執念」が、どこにもなかった。
「……ここは、どこですか。……あなたは、誰ですか。……私は、何をしてはいけないと言われたのですか……」
源さんの病状が、一晩で劇的に進行していた。
「中核症状」の急激な悪化。
彼は、今日が収穫祭であることも、自分がパンを焼こうとしていたことも、すべて忘れてしまったのだ。
「……そんな。……源さん、パンですよ! ライ麦パン! 昨日の夜、あんなに一生懸命仕込んだじゃないですか!」
私は必死で訴えかけたが、源さんは怯えたように後ずさりするだけだった。
「……パン? ……私は、そんなもの、知りません。……帰らせてください。……お母さんのところに、帰らなきゃいけないんだ……」
絶望が、私の全身を貫いた。
仕込まれた生地は、今まさに最高の状態で発酵を終えようとしている。
けれど、それを焼くべき「魂」が、どこにもいない。
「……森下。どけ」
一ノ瀬さんが、冷徹な足取りで源さんの前に立った。
「一ノ瀬さん! 源さんが……源さんが全部、忘れちゃったんです! どうすれば……」
「……黙って見てろ」
一ノ瀬さんは、源さんの胸ぐらを乱暴に掴み、彼を作業台の前まで引きずっていった。
「……おい。源。……お前の脳みそが死んでても、お前の掌は、まだ生きてるはずだ」
一ノ瀬さんは、発酵を終えたライ麦パンの生地を、源さんの目の前に叩きつけた。
「……焼け。……死ぬ前に、お前の身体に染み付いた『執念』を、全部ここに置いていけ!」
一ノ瀬の怒号が、早朝の工房に雷鳴のように響いた。
源さんは肩を震わせ、目の前の生地を、おぞましい怪物を見るような目で見つめた。
けれど、その鼻腔を、ライ麦の力強い香りがくすぐった瞬間。
源さんの指先が、ピクリと動いた。
4. 身体の記憶、魂の咆哮
源さんは、自分の意志とは無関係に、手が動くのを自覚したようだった。
彼は、震える手でクープナイフを握った。
「……あ。……あ、あ……」
口からは、言葉にならない呻き声が漏れる。
けれど、そのナイフの軌道は、一ミリの狂いもなく生地の表面を切り裂いた。
源さんの「意識」は失われても、六十年、毎日欠かさず繰り返してきた「動作」が、彼の身体を支配し始めたのだ。
「……三、二、窓。……三、二、窓」
ヒロくんが、オーブンの前でリズムを刻み始めた。
源さんの動きが、そのリズムに吸い込まれていく。
天板をオーブンに入れる。タイマーをセットする。温度を確認する。
源さんは、泣いていた。
自分が何をしているのか分からない。自分が誰なのかも思い出せない。
けれど、自分の手が、身体が、勝手に「パン」を形作っていく。
そのあまりにも残酷で、あまりにも美しい「自動機械」のような姿。
「……見たか、森下。……これが、職人だ」
一ノ瀬さんの声が、微かに震えていた。
「……脳みそが死んでも、魂は指先に残る。……あいつは今、人生で一番、いいパンを焼いてるぞ」
オーブンから、ライ麦の香りが溢れ出した。
それは、銀座の華やかさでもなく、病人の哀れみでもない。
一人の男が、すべてを失いながらも、最後に絞り出した「生」の咆哮だった。
焼き上がったパンは、収穫祭の会場へと運ばれていった。
源さんは、車椅子に揺られながら、自分が焼いたとも知らないパンの隣に座っていた。
「……美味しいね。……これ、おじいちゃんが焼いたの?」
小さな子供が、ライ麦パンを頬張って笑う。
源さんは、その笑顔を、不思議そうに見つめていた。
「……美味しい。……ああ。……なんだか、懐かしい音がするね」
源さんの瞳に、一瞬だけ、かつてのキヨさんが微笑んだ時の光が差したように見えた。
記憶は戻らない。
けれど、彼の焼いたパンは、今、確実に誰かの心を黄金色に染めていた。
あおぞら工房、最後の大仕事。
それは、一人の職人が「無」に帰る直前に放った、最大にして最後の、光の輝きだった。
(第27話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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