第26話:透明なサポート
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1. 砂の城を守る戦い
七月。沖縄の強い陽射しがアスファルトを焼き、工房の冷房はフル稼働でも追いつかない。
しかし、あおぞら工房の中に流れる空気は、外気の熱さとは無縁の、薄氷を踏むような危うい静寂に包まれていた。
源さんの病状は、残酷な速度で進行していた。
先週まで覚えていたタイマーの解除方法を忘れ、今朝は自分のエプロンの紐を結ぶことさえできず、鏡の前で立ち尽くしていた。
「……源さん。おはようございます。エプロン、新しいのにしましょうか。こっちの方が結びやすいですよ」
私がさりげなく、あらかじめマジックテープ仕様に改造しておいたエプロンを差し出すと、源さんは屈辱に顔を歪めた。
「……馬鹿にするな。私は、紐くらい結べる。……ただ、指先が少し、浮いているだけだ」
「指が浮いている」。
それが、源さんが自分の感覚の麻痺を表現する精一杯の言葉だった。
私は無理に手伝うのをやめ、彼が五分かけて、震える指で紐を絡ませるのを、三メートル離れた場所から黙って見守った。
「……森下。お前、いつまであいつを『職人』扱いするつもりだ」
事務室の影から、一ノ瀬さんの低い声がした。
「見てみろ。今朝は塩と砂糖の区別も怪しかった。……あいつに任せるのは、もう限界だ。リスクがデカすぎる」
一ノ瀬さんの指摘は正しい。福祉の現場において、事故は最大のタブーだ。材料の誤投入ならまだしも、火傷や怪我、あるいは異物混入が起これば、この工房の存続に関わる。
「……分かってます。でも、源さんからパンを奪ったら、あの人は本当に、ただの抜け殻になってしまいます。……私に、考えがあります」
「考え? ……お前に何ができる。魔法でも使うか?」
「魔法じゃありません。……『透明なサポート』です」
一ノ瀬さんは、スマホをポケットに放り込み、初めて私を真っ直ぐに見た。
「……透明、だと?」
2. 完璧な舞台装置
その日から、私の戦いが始まった。
源さんが工房に来る一時間前、私は一人で準備を整える。
まず、塩と砂糖の容器。
源さんは文字が読みにくくなっている。私は、容器の形を「角ばったもの」と「丸いもの」に明確に分け、さらに蓋の感触をザラザラしたものとツルツルしたものに変えた。これなら、目で文字を追わなくても、触覚が「これは塩だ」と源さんに教えてくれる。
次に、レシピの計量。
源さんが計量を間違えないよう、私はあらかじめ必要な分量だけが入った小袋を、棚の奥に隠しておいた。源さんが「粉を取る」という動作をした時、自然にその袋に手が伸びるように配置する。
そして、オーブンの温度設定。
私は一ノ瀬さんに頼み込んで、業務用のオーブンの操作パネルに、源さんの視界には入らない角度で、スマホから遠隔操作できるデバイスを取り付けてもらった。
「……源さん、今日の温度は二百度ですね。設定、お願いします」
源さんが震える手でボタンを押す。彼が間違った数字を入力した瞬間、私は背後のスマホで、こっそりと数値を修正する。
「……よし。二百度だ。……狂いはないな」
源さんは、表示された数字を見て、満足そうに頷く。
彼は、自分が間違えたことさえ気づいていない。
私は、彼に「正解」を教えるのではなく、彼が「正解を選んだ」という現実を捏造し続けた。
それは、支援員としての敗北かもしれない。
嘘をつき、相手を騙している。けれど、その嘘のおかげで、源さんの背筋は真っ直ぐに伸び、その瞳には「まだ俺は現役だ」という誇りの光が灯り続けていた。
3. 一ノ瀬の沈黙、くるみの祈り
「……気持ち悪い仕事だな、森下」
一日の作業が終わり、源さんが満足げに帰宅したあと、一ノ瀬さんが冷たく言い放った。
「……お前がやってるのは、ただの延命措置だ。……あいつに『嘘の万能感』を与えて、何が楽しい。……真実を突きつけて、今の自分にできることを探させるのが、支援の本質じゃねえのか」
私は、パンの粉が白くこびりついた自分の手を見つめた。
「……一ノ瀬さん。源さんにとっての『今の自分にできること』なんて、もうどこにもないんです。……あの人は、パンを焼くこと以外、全部捨てて生きてきた人だから」
私は、源さんのレシピノートの最後のページを思い出した。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
『手が動かなくなったら、俺を殺してくれ』。
「……私は、源さんを殺したくないんです。……たとえ世界が全部嘘でも、あの人がオーブンの前で笑っていられるなら、私は最高のペテン師になります」
一ノ瀬さんは、何も言わなかった。
ただ、吸い殻を灰皿に押し付け、背を向けて事務室へ戻っていった。
その背中が、ほんの少しだけ揺れたように見えたのは、私の錯覚だったのだろうか。
4. 決壊の予兆
しかし、そんな「透明なサポート」も、長くは続かなかった。
数日後の昼下がり。
源さんが、クロワッサンの生地を折り畳んでいた時のことだ。
彼は、自分が持っている麺棒が何なのか、突然分からなくなった。
「……あれ。……これは、何だ。……一ノ瀬、私は、何を叩けばいいんだ」
源さんは、麺棒を握ったまま、怯えた子供のような声を上げた。
私が仕掛けた「舞台装置」も、彼の脳の中で起きた、認識の崩壊には太刀打ちできなかった。
「……源さん。それは麺棒ですよ。生地を伸ばすんです」
私は駆け寄り、優しく彼の手に触れた。
けれど、源さんはその手を激しく振り払った。
「……嘘を吐くな! 私は知っている。……お前たちは、私を笑っているんだろう! ……計量も、オーブンも、全部お前たちが細工していることくらい、分かっているんだ!」
源さんの絶叫に、工房が凍りついた。
彼は、私が隠していた小袋や、オーブンの遠隔デバイスに、うすうす気づいていたのだ。
職人の勘は、認知症という闇の中でも、自分のプライドが「作られたもの」であることを嗅ぎ取っていた。
「……佐藤源三を、舐めるな……。……俺は、憐れみのパンなんて、焼きたくないんだよ!!」
源さんは、台の上にあった生地を床に叩きつけ、そのまま泣き崩れた。
私の「透明なサポート」は、彼の尊厳を守るどころか、彼に「自分はもう、一人では何もできない」という事実を、最も残酷な形で突きつけてしまった。
「……森下。……だから言っただろ」
一ノ瀬さんが、静かに歩み寄ってきた。
彼は泣き崩れる源さんの隣にしゃがみ込み、その細くなった肩に、力強く手を置いた。
「……源。……もういい。……銀座の佐藤は、今日で終わりだ。……明日からは、ただの『ボケたじいさん』として、パンを焼け。……それが嫌なら、今すぐここから消えろ」
一ノ瀬さんの言葉は、氷のように冷たかった。
けれど、その言葉を受けた源さんは、一瞬だけ目を見開き、それから……。
「……あ、……ああ……」
と、魂の底から漏れるような溜息を吐いた。
「透明」であることをやめ、剥き出しの「絶望」を共有すること。
一ノ瀬の投げかけた残酷な真実こそが、源さんを縛っていた「職人の呪い」から、彼を解放する唯一の鍵だった。
私は、自分のスマホの遠隔操作アプリを、震える指で削除した。
舞台装置は壊れた。
明日からは、本当の、地獄のような支援が始まる。
源さんが何を忘れ、何を失っても、それでも一人の人間として、泥臭く生きていくための戦い。
窓の外では、夕立が降り始めていた。
激しい雨音が、私の未熟な支援の終わりを告げるように、屋根を叩き続けていた。
(第26話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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