第50話 関係のある話
後悔を滲ませた声が、星空の下に落ちた。
「昔のことなんだ。私は、ミレイという能力者を殺した。あの選択が正しかったのかどうかは、今でも分からない」
中嶋さんは、まっすぐ俺を見た。
「ミレイはね、子どものままなんだ。レイジ君には、彼女の言葉を聞いてほしい」
俺は少し考えた。
「中嶋さんは、もう一度選び直さないんですか?」
聞くべきだと思った問いを、そのまま投げる。
中嶋さんは、俺より強い。
おそらく、間宮時雨よりも、誰よりも強い。
そんな彼が、なぜ後悔を抱えたまま生きているのか。
中嶋さんは『まいったね』と優しく笑い、頭を掻いた。
「それは無理なんだ。今の私でも、きっと同じ選択をするだろうからさ。そうだね……私には──」
白髪交じりの髪が、夜風に逆らうこともなく揺れる。
「関係のない話なんだ」
そう言った中嶋さんの目は、ひどく空っぽだった。
俺は、それ以上の追及をやめた。
「分かりました。話を聞くのが、俺の仕事ですから」
俺は精一杯、笑顔を作って返した。
やることは変わらない。
──俺の仕事は、能力者の相談に乗ることだ。
「やっぱり、レイジ君には敵わないな」
中嶋さんの目に光が戻る。
その時、隣で横になっていた時雨が、ゆっくりと身体を起こした。
「時雨……大丈夫か」
俺は彼女の身体を支え、ゆっくり立ち上がらせる。
「問題ない」
時雨は、しっかりと俺を見ていた。
感覚はあるみたいだ。
「……中嶋さん、とおっしゃいましたか。感謝いたします」
時雨は、中嶋さんへ深く頭を下げた。
「気にしなくていいよ。お礼なら“大家さん”に。レイジ君が工場へ来ることも含めて、彼女から事前に聞いていたんだ」
「え、大家さん!?」
俺は思わず声を上げてしまう。
またしても、予想外の名前が出たからだ。
ちなみに、俺に店舗兼住宅を貸してくれている大家さんの名前は、大家だ。
時雨は、苦笑混じりにため息を吐いた。
「あの方はいつも……こう……。今に限った話ではありませんが、困ったものです」
「ははは。君たちも苦労しているね」
二人の会話に、俺はついていけない。
大家さん、いったい何者なんだ……
いや、別人という可能性もある。
気にしないでおこう。
場が和み、時雨が俺へ視線を向けた。
「行くのか?」
それは、ミレイのもとへ、という意味だろう。
「仕事だ」
「そうか……。だとしたら、助けてあげてくれ」
時雨は心配しているわけではなかった。
ただ、悲しみを帯びた顔で俺を見ていた。
「悩みを聞きに行くだけだよ」
俺はそう言って、時計を見た。
午後10時前。
「中嶋さん、時雨。また後で」
俺はそのまま背を向け、空き地を出ようとする。
後ろから、時雨の声がした。
「私は時空間に干渉することができる。といっても、時間に関してはごく限られた領域だけだった。だが、先ほど全ての感覚を失った時、はっきりと分かった。いや、思い出した。あれは、私だ」
俺は振り返らない。
「レイジ君……助けてくれて、ありがとう」
俺は手を振り、その場を離れる。
ここで立ち止まってしまえば、過去に引き戻される気がした。
『さよなら』
不意に、かつての少女の声が聞こえた。
俺は一瞬だけ、振り返ってしまう。
そういえば、この夢を見たのも、今日だった。
山を下りると、そこにはおあつらえ向きに車が残っていた。
鷺森が残してくれたのだろう。
カーナビには、あらかじめ目的地が設定されている。
何から何まで、視られていたようだ。
俺は車を走らせ、一番近い海岸線へ向かった。
街灯の少ない道は、暗く続いていた。
一人になれば考え事が増えるかと思ったが、そうでもない。
ただ前を見て、ハンドルを握っていた。
しばらくして、海が見える。
月光に照らされた穏やかな海だった。
俺は路肩に車を止め、砂浜へ下りる。
そこには、事務所で見た赤い髪の少女が一人で座っていた。
「こんばんは。零番さん」
俺が横に腰を下ろすと、少女──ミレイは海を見たまま声をかけてきた。
「その呼び方はやめてくれ」
「じゃあ、レイジさん」
「ああ、そうだな。ミレイ、でいいか?」
「なんでもいいよ。私は亡霊だし」
ミレイは大きく溜め息を吐く。
「全部失敗。なにもかも、上手くいかないじゃん。もう、ほんっと、あの味原しずくってやつ!」
幼い口調で、不機嫌さを隠そうともしない。
雰囲気が違いすぎる。
事務所で会った時の、あの大人びた空気はどこにもなかった。
「そっちが素なのか……」
場面は場面だが、さすがの俺でも少し引く。
「そうね。本当の自分なんて、もう分からなくなったけど」
その言葉のあと、しばらくは波の音だけが続いた。
俺は潮風を吸い込み、気持ちを切り替える。
仕事だ。
「ミレイは、なんで俺を殺そうとしたんだ?」
相手のことを知らなければ、相談は始まらない。
「主人公になりたかったから」
「そ、そうか……」
これは難しい。
俺は思わず頭を掻いた。
「いや、もっとこう……別の言い方はないのか?」
「ないよ」
ミレイは即答した。
「レイジさんだって、相談に来た人が『なんかつらい』って言ったら困るでしょ?」
「困るな」
「それと同じ。私も、これが一番正確」
言い切ってから、ミレイは砂を指でいじる。
細い指が、さらさらと砂の上に線を引いた。
「でもさ。主人公になりたいって、そんなに変かな」
「いや、変じゃないさ。だけど、『人は誰しもが主人公』だと言うだろ?」
「レイジさんに言われるとムカつく」
「なんでだよ……」
ミレイは少しだけ頬を膨らませた。
その顔だけ見れば、年相応の少女にしか見えない。
見えないのだが、俺はもう経験している。
謎な少女、という存在を。
「じゃあ、レイジさんは、自分が主人公だ思ったこと、ないの?」
「ないな」
自分で言っていてなんだが、これは即答した。
「俺はむしろ、端っこでいい。目立たず、静かに、できれば面倒事もなく生きたい」
「うわ、つまんない」
「平凡ってそういうものだろ」
「平凡って、そんなにいい?」
ミレイは本気で不思議そうだった。
だから俺も、少しだけ本気で答えることにした。
「いいさ」
「ほんと?」
「牛丼食って、ちゃんと寝られたら十分だな」
俺は膝を立て、海を見た。
「毎日、同じような朝が来て、同じように飯を食って、同じように誰かと話して、同じように夜が来る。それは、退屈に見えるかもしれない」
「うん、すごく退屈そう」
「だろうな」
俺は苦笑した。
「でも、退屈ってのは、何かが続くってことでもある」
毎日変わる能力。全てが最初から。
それらが嫌いだった。
「誰も泣かない一日が、明日も来るってことだ。俺は、それを贅沢だと思う」
波が寄せて、返す。
ミレイは視線を落としたまま、小さく言った。
「そういうの、私にはなかった」
否定はしなかった。
できなかった、の方が近い。
「レイジさんは、平凡を選べる人なんだね」
「いや、選べ、てはないな、うん」
俺は笑った。
「今の状況も可笑しい。夜の海で、ラスボスの相談に乗ってるんだぞ。どこが平凡だ」
「たしかに」
ミレイが、ふっと笑った。
初めて見る、肩の力の抜けた顔だった。
「でも、そういうところだよ」
「どういうところだ……」
「そうやって、変なことになっても、平凡がいいって言えるところ」
ミレイは砂の上に描いた線を、手のひらで消した。
「私には、それができなかった」
「平凡が怖かったのか」
俺が聞くと、ミレイはしばらく黙った。
それから、小さく呟く。
「うん」
あっさりした声だった。
だが、その短い一言に、長い時間が詰まっている気がした。
「埋もれそうで、怖かった」
「誰にだ?」
「物語に」
俺は答えに詰まる。
ミレイは海を見たまま続けた。
「レイジさん。私、二百年くらい生きたんだよ」
その言葉は、やけに軽かった。
「長い間、いろんな人を見てきた。泣いてる人も、笑ってる人も、世界を変えそうな人も」
ミレイは膝を抱える。
「昔、天使に会ったこともある」
その単語に、俺は少しだけ反応する。
だが、口は挟まなかった。
「ちょうど、この身体ぐらいの年齢の時かな。その時は、もしかしたらって思ったんだよ。私の人生も、何か特別なものになるんじゃないかって」
ミレイは笑う。
笑っているのに、少しも明るくない。
「でも、違った」
波の音が重なる。
「私は結局、主人公にはなれなかった」
その一言だけで、胸の奥が少し痛んだ。
「誰かの話が始まって、誰かの話が終わって、その横をずっと見てるだけ。そうやって、物語のわき役として埋もれていくのが、たまらなく怖かった」
ミレイはそこで言葉を止めた。
海風が赤い髪を揺らす。
俺はすぐには何も言えなかった。
ミレイがここまでこじれた理由は、たぶんもっと複雑だ。
一回の相談だけで解消できる問題ではない。
けれど、今聞いた言葉だけで、十分すぎるくらい伝わってしまった。
平凡が欲しかった俺。
平凡に埋もれるのが怖かったミレイ。
ただ、それだけの違いで、こんなにも遠くまで来てしまったのかもしれない。
「……疲れた」
ぽつりと、ミレイが呟いた。
「何にだ?」
俺が聞くと、ミレイは少しだけ笑った。
「全部に」
軽い返事なのに、重かった。
「主人公になりたくて、足掻いて、選ばれたくて、見つけてほしくて、怖くて、壊して……。そういうの、ずっとやってきたから」
ミレイは、自分の指先を見下ろした。
その指は細く、白い。
月明かりのせいだけじゃなく、血の気が薄く見えた。
「もう、あんまり持たないんだよね」
俺は隣を見る。
ミレイは自分の身体を指した。
「器っていうのかな。他人の能力で延命してたけど、もう限界。二百年も生きてたら、そりゃどこか壊れるよ」
冗談めかして言おうとして、失敗している声だった。
「二百年か……想像もつかないな」
「一瞬だったよ」
ミレイは頷いた。
「うーん。不死の能力を手に入れたら、なんとかなると思ってたんだけどね」
そう言って、砂を掴み、指の間からこぼす。
「残念だが、俺の能力は日替わりだ」
「みたいだね。とんだ無駄足だったよ」
ミレイは嫌味っぽく言う。
「ミレイ……」
「なに?」
「幸せは、なかったのか?」
聞くつもりはなかった。
けれど、口から出ていた。
ミレイの笑みが消えた。
感情が消えた。
ただ、海を見たまま答えた。
「なかったよ」
その一言で、ミレイという人間の二百年が全部終わった気がした。
「天使に会っても。能力があっても。人を動かせても。舞台を作れても。誰かの視線を奪えても。全部、穴の空いた器に水を入れるみたいな感じだった」
そこで、ミレイの声が少し揺れた。
「私に幸せはなかった」
残った感情。
それは、悲しみだった。
ミレイは泣いていた。
静かに。
子どもみたいに。
取り返しのつかないものを、今になってようやく失ったと知ったみたいに。
俺は何も言えなかった。
慰める言葉も。
責める言葉も。
何ひとつ出てこない。
ただ、目の前にいるのは、疲れ切った一人の少女なんだと、それだけは分かった。
俺は自分の手を見る。
今日の能力が何なのか。
明日、何が来るのか。
俺には分からない。
ずっとそうだった。
午前零時に初期化されて、新しい能力を得て、振り回されて、対処して、生き延びてきた。
平凡が欲しいと言いながら、結局ずっと能力に縛られていたのだ。
ミレイも同じだ。
主人公になりたいと願いながら、結局は能力に縛られ、物語という言葉に囚われ続けた。
「もう一度、やり直してみないか」
自分でも驚くくらい、自然にその言葉が出た。
ミレイが涙に濡れた目で俺を見る。
「……何を?」
「全部だよ」
俺は笑えなかった。
けれど、言葉だけははっきり出た。
「能力とか、零番とか、主人公とか、そういうの全部なしにして、最初からやり直すんだ」
それは俺自身が望む選択だったのかもしれない。
ミレイは、すぐには意味を掴めなかったらしい。
瞬きをして、それから小さく眉を寄せる。
「そんなこと、できるわけ……」
言いかけて、止まった。
俺を見ている。
正確には、俺の中にある何かを思い出したみたいな顔だった。
「やったことあるんだ」
「似たようなことをな。これも午前零時が導いたことだ」
脳裏に、空き地での声が蘇る。
『俺の人生をなかったことにする』
あれは昔の俺が選んだ答えだ。
けれど、今の俺は今の俺として、もう一度選べる。
中嶋さんの言葉が、そこで遅れて胸の奥に落ちてきた。
──自由に生きるんだ。
その言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
好きに生きる、ということじゃない。
能力に決められず、物語に押し込められず、自分で選ぶことだ。
俺は夜の海を見た。
黒くて、静かで、どこまでも続いている。
「ミレイは普通の少女として──」
俺は、ようやく自然な笑顔を作れた。
「次は、能力のない世界でやり直せばいい」
ミレイは、泣いたまま、それでも少しだけ笑った。
「時間がない。お別れだ。最後に、ちゃんと話せてよかった」
俺は時計を見せた。
時刻は午後11時58分。
ミレイは涙を拭きもせず、少しだけ目を細めた。
「もう、どうでもよくなった。ありがと」
それから、子どもみたいに小さな声で続ける。
「レイジさん。今度は、幸せがあると思う?」
俺は少し考えてから答えた。
「感じ方の問題だな」
「ふんわりしてる回答だね。相談員失格」
「そうか? 案外、気の持ちようだぞ」
ミレイは、そこで本当に安心したみたいな顔をした。
その表情を見て、俺はようやく理解する。
──彼女は、誰かに見つけてほしかっただけだ。
俺は空を見上げた。
綺麗な星空だ。
最後の最後、考えないようにしていた疑問が脳裏をよぎる。
「……あれ、黒幕ってシオンじゃね?」
ミレイは何も言わず、ただ笑っていた。
まあ、この疑問は、今度牛丼でも食べながら聞けばいい。
改変された世界には、きっと俺の望む俺がいる。
きっと、物語も続いていく。
だってこれは、俺の話なのだから。
午前零時。
俺の能力は、初期化した──




