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第49話 平凡だった

 俺は車に乗り込み、助手席に時雨を座らせた。


 周囲が騒がしくなり始める。


 急いでエンジンをかけ、車を出そうとした、その時だった。


「彼女、危ないわね」


 背後から声がした。


 まったく気づかなかった。


 バックミラーに映っていたのは、鷺森(さぎもり)伽耶(かや)

 温羅島で出会った女だ。


「お前もミレイの手下か?」


「違うわ」


 嘘はついていないようだった。


 だからこそ、今気にするべきは別のことだ。


 鷺森が後部座席にいるというのに、時雨はまったく気にした様子を見せていない。


「とりあえず、出してちょうだい。騒ぎになる前に」


 俺は鷺森の言葉に従い、アクセルを踏んだ。


 かろうじて住宅が残っていた一帯を抜け、完全な田舎道へ入る。


 喧騒だけが、後ろへ遠ざかっていった。


 しばらくして、鷺森が口を開く。


「いい医者を教えてあげる」


「治せるのか?」


 俺は藁にもすがる思いで聞いた。


 もう、余裕なんてなかった。


 時雨は聴力すらも失っている。


 能力と人体の関係には、未解明の部分がほとんどだ。

 だが、感覚に依存していることだけは確かだった。


「治せるとしたら、彼だけね」


「分かった。どこだ」


 鷺森が一枚の地図を差し出してくる。


 そこは、俺にも見覚えのある場所だった。


 無言のまま車を走らせること小一時間。


 関東県の端にある、人気のない山の中。


 途中で車を降り、俺たちは徒歩で山道を登り始めた。


「時雨、大丈夫か?」


 背中に背負った時雨へ声をかける。


 返事はない。

 彼女はただ静かに俺へ身を預けていた。


 小石を踏み、草をかき分け、黙々と進む。


「鷺森、ひとつ聞いていいか?」


 俺は歩きながら、後ろについてくる鷺森に声をかけた。


「何かしら」


 鷺森の声は淡々としていた。


「目的は何だ?」


「質問がちょっと違うんじゃない?」


「どういうことだ」


「『なぜ生きている?』でしょ」


 森の中。

 木々のざわめきだけが流れた。


 少しの間をおいて、俺は本心を口にする。


「そうだな。7年前、なぜ俺を……零番を見て、無事でいられた」


 黒曜連の事件のあと、俺の情報を知った者は、味原によって消されるか、脳にチップを入れられて服従を強いられていた。


 だから俺は、仮初の平凡の中で生きていられた。


 薄々察してはいたが、目を逸らしてきたことだ。

 裏は関係のない話だと、俺が思い込んでいただけだ。


 鷺森は少し考えてから答えた。


「一人の少女に出会ったの。いえ、あれは天使ね」


「ノアも言っていたな、それ」


「彼も同じなのかもしれないわね」


 鷺森は、昔を思い出すような穏やかな口調で続ける。


「無能力だった私の物語は、あそこで終わるはずだった。けれど天使に出会って、私は能力を発現した。それは、姿を変えてもう一度やり直したいという、私の望みそのものだった」


 そして、小さくため息をつく。


「結局、天使とはそれっきり。後天的な能力発現に伴う幻覚だったのかもしれないわね」


 俺は何も言えなかった。


 それが偶然なのか、それとも誰かの気まぐれなのか、俺には判断できない。


 ただ、言えることはひとつだった。


「運命、か……」


 やがて視界が開ける。


 山の中。木々を切り開いてできた空き地。

 かつて何かが建っていたのか、コンクリートの基礎だけが剥き出しになっている。


 そこに立っている人影があった。


「レイジ君! 心配したよ!」


 駆け寄ってきたのは、スーツ姿の男だった。


「中嶋さん!?」


 俺は思わず目を見開く。


 想定外にもほどがある人物だった。


「なんでここに!?」


「どうしたんだい? 昨日、工場までやってきたじゃないか」


 中嶋さんは不思議そうに首を傾げる。


 俺は隣を見る。


 鷺森が、にこりと微笑んだ。


 こいつが俺の姿に化けて、中嶋さんに接触したのだろう。


「とりあえず、今はそれどころじゃないね。後ろの彼女、見せてくれる?」


「治せるんですか」


 俺は時雨を慎重に地面へ降ろした。


「私は、凄腕の能力医、中嶋さんだ。心配しなくていい」


 そう言った瞬間、中嶋さんの雰囲気が変わった。


 白髪交じりの髪が逆立ち、両手に光が宿る。


 そのまま、時雨の頭へ光を当てた。


「これは、まずいね」


 中嶋さんが冷や汗を浮かべる。


「お願いします」


 自分でも驚くほど、俺の声は細かった。


「彼女は間宮時雨。ならば、能力そのものに干渉すれば……。レイジ君、少し離れていてくれ」


 俺は中嶋さんの言葉どおり、距離を取った。


 その時、辺り一帯に暴風が吹き荒れる。


 俺はその様子を見ながら、隣にいる鷺森へ聞いた。


「どういうことだ」


「この未来は、さる方の目で視られていました。ですので、私が昨日、中嶋さまに協力をお願いした次第です」


「ならなぜ……」


 ──時雨がこうなる前に、言わなかった。


 そこまで言いかけて、俺は口を閉じる。


 もしあそこに時雨がいなかったら。

 もし倉井光吉の不運が、別の場所で現れていたら。


 この未来が、その人にとっての最適解だったのだろう。


 俺は、自分の不甲斐なさを噛み締めながら、中嶋さんの治療を待つしかなかった。


 時雨を中心に、空間が歪み始める。


 空間だけじゃない。

 時間までも歪んでいた。


 舞い上がる落ち葉が、ゆっくりになったかと思えば、次の瞬間には加速する。

 差し込む光でさえ、屈折の仕方を忘れたみたいだった。


 その時、脳裏に何かが反響した。


 音ではない。

 声だ。


『未来の俺へ』


 どこかで聞いたことのある、妙に大人びた子どもの声だった。


 俺は思わず周囲を見回す。


 もちろん、子どもなんていない。


『明日の午前零時。俺は、俺の人生をなかったことにする。それが、親友──シグレちゃんを救う、最適解だからだ』


 子どもの声が、脳裏に直接語りかけてくる。


 その瞬間、目の前の景色が一変した。


 建物が立ち並び、地面は舗装されたアスファルトに変わっている。

 鉄格子に囲まれた一帯の中に、俺は立っていた。


「これは……過去?」


 時雨の能力なのかどうかは分からない。


 だが、すべてが半透明だった。

 見ているものが現実ではなく、幻影の類だということだけは理解できた。


 一人の少年と、一人の少女が追いかけっこをして遊んでいる。


 微笑ましい光景だ。


 少女が全身のあちこちに包帯を巻いていることを除けば。


 少年は、俺だ。

 記憶が存在するより前の俺。


 そして少女は、シグレ……


「ありえない」


 俺の脳裏に、記憶にないはずの少女の声が反響し始める。


『私の能力は、時間と空間に干渉できるんだって』


『傷? 大丈夫。私の能力で、元に戻せるはずだから』


『もう、レイジ君は心配性なんだから。私は最強なんだよ』


 凛とした声で、虚勢を張る少女。


 彼女は、間宮時雨だ。


 だが、間宮時雨の出自ははっきりしている。

 彼女は児童養護施設で育ち、その卓越した能力を見込まれて警察学校へ進んだはずだ。


 子どもの声が、再び脳裏に響く。


『この能力は自動的に発動する。そしていつか、未来の俺も、この能力を使う時がくると思う……』


 俺は、全てを理解した。


『大人になった俺は、どんな世界を望むのだろう』


 子どもの声が途切れた瞬間、空間の歪みが消えた。


 光が収束するみたいに時雨へ集まり、周囲の景色は、再び瓦礫の残る空き地へ戻っていく。


 気がつくと、空は暗くなっていた。


 俺は時雨に駆け寄る。


「時雨は!?」


「大丈夫だよ、レイジ君。彼女は少し休ませてあげよう」


 時雨は寝息を立て、目を閉じていた。


「ありがとうございます」


 俺は深く頭を下げる。


「私の力だけじゃないよ。彼女が強かったから、耐えることができたんだ」


 中嶋さんは神妙な声で続ける。


「ただ、あくまでも繋ぎ止めただけだ。彼女には二度と、能力を使わせてはいけない」


 俺は拳を握り締める。


 それが、彼女にとってどれだけ難しいか分かっていた。


 間宮時雨は、人を助ける。

 目の前に困っている人がいたら、自然と体が動いてしまうような人だ。

 悪人の命さえ守ろうとする。


「私は帰るわ。もう、用は済んだから」


 俺の後ろで、鷺森がいつもの口調で言った。


 俺は彼女に向かっても頭を下げる。


「ありがとう。鷺森がいなかったら──」


「解釈違いね。私は、物語の“裏”を知ることができただけで満足だわ」


 鷺森は俺の言葉を遮った。


「そうなのか。なんと言えばいいか……」


 鷺森がぐっと顔を近づけてくる。


「私は脇役。あなたは主人公。私が助ける条件は、あなたが最後まであなたでいること。いいわね」


 そう言って、鷺森は背中を向けた。


「鷺森」


 俺は呼びかける。


「感謝する」


 端的な一言。


 鷺森は小さく振り返る。


「今のあなたの顔、一番好きよ」


 彼女は笑っていた。


 背中を見送り、俺は時計を確認する。


 時刻は午後4時過ぎ。


 次に、スマホを確認した。


 時刻は午後9時ちょうど。


「時間の進みが、歪められていたようだね」


 中嶋さんが、やれやれといった調子で言う。


「そうですね。……中嶋さん、聞いていいですか?」


「いいよ。私も聞きたいことがあるから、気楽にいこう」


 中嶋さんは、疲れをにじませながらも優しく笑った。


 俺はまず、自分のことを話した。


 実は裏で零番と呼ばれる能力者であること。

 そして今までの顛末を。


 中嶋さんは、静かに聞いてくれた。


 続けて、俺は、かつてある能力を使い、記憶を失ったことを話す。


「さっき見えていた、あの光景かい?」


「はい。おそらく、時雨の時空間に干渉する能力の影響でしょう。しかし、この場に関する情報はどこにも残っていなかった。研究所、という単語に関してもです」


 先ほどの光景は、改変前の世界だ。

 俺が無かったことにした世界。


「別の時間軸か……。やっぱりすごいな、間宮時雨という能力者は。うんうん。ありがとう。大変だったね、レイジ君」


 中嶋さんは、驚くほど冷静だった。


「次は私の話かな」


「お願いします」


「まずは私の、本当の能力を教えよう。……今の私は、中嶋さん改です」


 中嶋さんの顔つきが変わったように見えた。


 数々の修羅場を越えてきた暗殺者。

 そんな言葉がぴったりだった。


「……っと、こんな感じでね」


 いつもの中嶋さんに戻る。


「私は、私の望む存在になれるんだ。たとえそれが実在していなかったとしてもね」


 俺は思わず、『反則だろ……』と思ってしまった。


「細かい制約はあるんだけど、さっきは“凄腕の能力医”っていう架空の存在になったんだ。で、彼女の能力に関する回路、とでも言えばいいのかな、それを修正したというわけさ」


「なるほど……分かりません」


「だよね。まあ、気にしなくていいよ」


 中嶋さんは笑いながら言った。


「私はただの製造部長。家族と身近な人たちが、幸せに暮らしてくれれば、それでいいんだ」


 ただ、彼の目の奥には悲しみがあった。


「小さい男だと思うかい?」


「いいえ。中嶋さんは、俺の理想の大人です」


 俺は伝えた。


 中嶋さんに何があったのかは分からない。

 それでも、俺にとっての理想だ。


「それは嬉しいね」


 中嶋さんは照れるように、俺の肩を叩く。


「中嶋さん、少し相談していいですか?」


「うん? いいよ」


「俺の望む俺って、なんだと思いますか?」


 突飛な質問だった。


 それでも、聞きたかった。


 中嶋さんは少し考えて、優しく答える。


「レイジ君はレイジ君だよ。自由に生きるんだ」


 自由。


 今の俺に必要なのは、たぶんその言葉だった。


「ありがとうございます。なんか、分かった気がします」


 俺は少し肩の力が抜けたまま、頭を下げる。


「うんうん。いいねいいね。……それでだけど、相談料をもらってもいいかな?」


 中嶋さんが少し申し訳なさそうに言った。


「いいですよ。いくらですか?」


 俺は冗談交じりに乗ることにした。


「お金じゃなくて、お願いなんだ。レイジ君が関わっているのは、ミレイ、だよね?」


 中嶋さんの口から出るとは思わなかった名前だった。


「はい。そうですけど……」


 中嶋さんは意を決したように言う。


「ミレイを救ってほしいんだ」

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