第47話 未来
それから俺たちは、少し早めの昼食をとり、行動を開始した。
みんなで一緒に作ることになった牛丼は、格別だった。
ミレイとの一件を終わらせたら、元に戻ろう。
さすがに、今まで通りというわけにはいかないだろうが、それでも平凡は帰ってくる。
俺も、みんなも、そう信じていた。
「レイジ、行くぞ」
テーブルについていた時雨が腰を上げる。
俺も頷き、後を追うように立ち上がった。
「シオンは留守番。味原も待機でいいか」
「問題ないよ~。そもそも、僕は戦闘向きじゃないからね」
味原は手を振りながら、間延びした口調で返してくれる。
シオンは俺の目をじっと見たあと、静かに近づいてきた。
そして俺の手をぎゅっと握り、いつもとは違う、感情の揺れる声で言う。
「レイジ……シオンは、当たり?」
よく分からない質問だった。
俺はシオンの頭を撫で、できるだけ優しく答える。
「大当たりだよ」
それから俺は、時雨と共に事務所の裏口から外へ出た。
あのシオンの目は、初めて見るものだった。
少し前まで『大丈夫』と表情ひとつ変えなかったのに、今になって不安そうな顔をしていた。
まるで今生の別れみたいな、そんな悲しみが目の奥にあった。
「レイジさん。心配しなくていい。私がいる。終わったら、シオンさんと静かに暮らせるようにするさ」
俺の気持ちを読んだのか、時雨が前を向いたまま言った。
俺は道を歩きながら聞く。
「時雨は、なんで俺を助けてくれるんだ?」
すぐに返事はなかった。
照りつける陽の光が、頭上から熱を落としてくる。
アスファルトは、湯気でも立てていそうだった。
しばらくして、時雨が振り返る。
「私にも分からない。だがこれが、私のするべきことだと、記憶ではなく魂が言っている」
その視線は、陽炎で揺れる景色の中でも、まっすぐだった。
途中で味原の用意した車に乗り、時雨の運転で街を抜ける。
助手席には俺。
後部座席には、荷物代わりみたいに刀や資料が積まれていた。
真夏の午後。
フロントガラス越しの日差しは強く、エアコンを効かせていても、車内にはじっとりとした熱が残っている。
時雨は無駄口を叩かなかった。
ハンドルを握る横顔はいつも通り無表情で、ただ視線だけが鋭い。
信号待ちの間も、ミラー越しに周囲を確認している。
街の景色が、少しずつ変わっていく。
ビルが減る。
背の低い住宅が増える。
店の看板もまばらになる。
その流れを見ているうちに、胸の奥に妙な感覚が浮かんできた。
見覚えがある。
「……やっぱりか」
俺は小さく呟く。
時雨が横目だけを寄越した。
「何か気づいたか」
「目的地を聞かされた時から、予想はしていたけどな」
この道。
この辺りの空気。
市街地を抜けて、少しずつ生活の音が遠ざかっていく感じ。
前に一度、来たことがある。
あの夫婦が住んでいる場所だ。
表向きは、穏やかで、人当たりのいい二人だった。
少なくとも、俺にはそう見えていた。
車はさらに先へ進む。
道路脇の畑。
低い塀。
少ない信号。
遠くで鳴く鳥の声。
間違いない。
「……信じたくはなかったな」
俺はシートに深く背を預けた。
「何だ」
時雨が短く聞く。
「常連客だったんだよ」
「そうか……」
「この先にある、一軒家」
俺は窓の外を見たまま言った。
「前に一度、相談で来た場所だ」
「相談?」
「夫婦だった。物腰も柔らかくて、普通の悩みを抱えてるように見えた」
言いながら、ようやく全部が繋がる。
夫の方。
あの時、妙に人懐こく笑っていた男。
温羅島で名前を聞いた。
倉井光吉。
そして、その隣にいた妻。
今思い返せば、落ち着きすぎていた。
けれど会話の流れは自然で、俺は違和感を持たなかった。
いや。
持てなかった、が正しい。
「倉井とミレイか……」
俺は目を閉じた。
薄い笑いが、喉の奥で乾いて消える。
「本当に、残念だ……」
自嘲気味にこぼすと、時雨は少しだけ黙った。
慰めるでもなく、否定するでもなく、ただ前を見たまま車を走らせる。
その沈黙が、逆にありがたかった。
俺だって分かっている。
確証を持たれたのは、前回、家に呼ばれた時だ。
俺が何者で、どう動く人間で、どういう顔で相談に乗るのか。
零番という存在を確認するため、わざわざ客の顔をして近づいていた。
倉井光吉の幸運があれば、それも可能だ。
気分が悪い。
腹が立つ。
それでも、少しだけ悲しかった。
あの時の夫婦は、たしかに目の前にいた。
会話をして、悩みを聞いて、俺は俺なりに解決しようとしていた。
全部芝居だったとしても、俺にとっては最初からそうじゃなかったのだ。
「レイジさん」
時雨が、不意に口を開く。
「今さら言っても仕方ないが、相手が悪い」
「分かってるよ」
俺は苦笑する。
「俺が間抜けだっただけだ」
「違う」
即答だった。
「あなたは、目の前の人間を助けようとしただけだ」
その言葉に、少しだけ息が詰まる。
時雨は続けない。
ハンドルを握ったまま、ただ淡々と前へ進む。
俺は視線を落とし、膝の上で手を組んだ。
助けようとした。
たしかに、それだけだ。
それでここまで来た。
予知夢を見て。
知らない誰かの悲しみを見て。
放っておけなくて。
勝手に首を突っ込んで。
その先で、こうして全部が繋がっていく。
窓の外に、見覚えのある二階建てが見えた。
新築ではないが、手入れの行き届いた一軒家。
庭も綺麗で、生活感がある。
あの時と何も変わらないように見えるのに、今はまるで別の意味を持っている。
時雨が車を少し離れた位置に停めた。
エンジンが止まる。
一気に静けさが戻ってきた。
遠くの鳥の声。
風の音。
どこかで葉が擦れる気配。
あの日、バスを降りた時も、こんなふうに静かだった気がする。
「ここだな」
時雨が言う。
「ああ」
俺は頷いた。
まるで昔の相談の続きをしに来たみたいだ。
違うのは、今日は最初から全部知ったうえで来ていることくらいか。
「行けるか」
時雨が俺を見る。
俺は一度だけ深く息を吐き、ドアに手をかけた。
「大丈夫だ。俺は死なない」
外へ出ると、湿った空気が肌にまとわりつく。
目の前の家は、相変わらず静かだった。
静かすぎるくらいに。
俺は門の前で立ち止まり、庭先を見た。
前に来た時と同じ、整えられた景色。
だが今は、その全部が薄い膜みたいに見える。
この先にいるのは、相談相手じゃない。
俺を知り、選ばせようとしている相手だ。
それでも。
俺は一歩、前に出た。
*
レイジがミレイのもとへ向かい、少し経った相談所。
シオンは、事務所の掃除をしていた。
「偉いね」
ソファでくつろいでいた味原が、その姿を見て声をかける。
「お客さんが来るかもしれない」
シオンはそう言って、黙々と手を動かし続けた。
「今日は定休日にするって、レイジ君は言ってたけど」
味原は水をひと口飲み、肩の力を抜いた。
その時、鈴の音が鳴った。
ドアが開き、誰かが入ってくる。
何も言わずに姿を見せたのは、露出の多い服を着た女だった。
「シオンちゃん、それにしずくちゃん。時雨ちゃんと……レイジは行ったみたいだね」
この建物の大家だった。
味原はゆっくりと視線を向け、にこやかに微笑む。
「最強のヒーロー様が、今さらお出ましですか。レイジ君の邪魔はさせませんよ」
笑みを浮かべたまま、敵意だけを真っ直ぐぶつけていた。
「邪魔する気があるなら、力づくでも止めてるよ」
大家は気負った様子もなく、味原の向かいに腰を下ろし、大きく身体を伸ばした。
「賭けをしようか?」
そして、何の前触れもなく言い出す。
「未来が視えるあなたには、賭けは成立しませんが」
味原は呆れたように返した。
「そうだね。私の能力は『未来視』。だけど──」
大家は少しだけ声を落とした。
「シオンちゃんが現れてからだよ。全てが不確定になった」
大家がシオンを見る。
シオンは気にした様子もなく、掃除道具を片づけて椅子に座った。
「キミは、この世界の存在じゃないでしょ」
大家の言葉に、シオンは反応しない。
「誰かの物語が動く時に現れて、そして、いつの間にか消えている。飽き性だね」
やはり反応はない。
「今回はレイジの物語ってわけかい? いい暇つぶしを見つけたね」
「違う」
ここで、シオンが初めて口を開いた。
「レイジが、私を見つけた」
はっきりとした言葉だった。
それは、シオンの本心から出たものだと分かった。
「そうかい」
大家は、少しだけ目を細めた。
「まあ、今さら正体を問い詰める気はないよ。でしょ、しずくちゃん」
「シオンちゃんは、私と同じです。レイジ君の平凡を望んでいる。その情報だけで十分ですよ」
味原はシオンを見て、ほんの少しだけ柔らかな表情をした。
「じゃあ、賭けに戻ろう」
大家が手を叩き、楽しそうに言う。
「賭けの内容は“未来”について」
喜々とした声は続いた。
「レイジは明日、“ある能力”を使う。私が視た、確定した未来だ」
味原の表情が、ほんのわずかに固くなる。
「あいつは一度だけ、その能力を使ったことがある。しずくちゃんなら、何の能力か見当はついてるでしょ?」
味原は何も言わなかった。
だが、その沈黙だけで十分だった。
「ここから先は、もう誰にも分からない。だから面白い」
大家は立ち上がる。
「それで、キミたちは──」
窓の外へ視線を向けたまま、大家は笑った。
「改変された世界で、私たちがもう一度出会えると思うかい?」
誰も答えなかった。
ただシオンは、まるでそこに辿り着く瞬間だけを、静かに待っているみたいだった。




