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第44話 味原しずく

 味原しずくのことを思い返すと、どうしてもあの日に行き着く。

 俺が裏の最大組織──黒曜連を壊滅させる前日の出来事だ。



 *



 午後11時12分。


 今日は雨。

 明日も雨。


 俺は、寂れた街の裏路地を歩いていた。


 傘は強風で壊れ、右手には骨組みだけが残っている。


「肌寒いな……」


 呟いて、息を吐いてみる。

 もちろん白くはならない。


 今は夏だ。

 当たり前だった。


 俺は雨に濡れながら、記憶を頼りに進む。


 今日の能力は、おそらく『予知夢』。

 明日の出来事が、夢として現れた。


 そして、見た夢は最悪だった。


 一人の少女が、薄暗い部屋で泣いている。


 夢として切り取られていたのは、そこだけだ。


 理由は分からない。

 だが、午前零時は俺にそれを知らせることを選んだ。


 目の前には、古い団地がある。


 室外機の数を見るに、住んでいる人はまばららしい。


 夢で見た部屋の窓からの景色。

 そこから、大体の位置は推測できる。


 俺は階段を上がり、最上階へ向かった。


 人気のない外廊下。


 ある一室のチャイムを鳴らす。

 ここまで来たら、もうほとんど勘だった。


「まあ、出ないよな」


 俺は針金を取り出し、鍵を開ける。

 古いタイプの鍵は、難なく開いた。


 罠の類はない。


 ドアの奥に、小さな光が見えた。


 俺は靴を脱ぎ、部屋へ入る。


 質素な室内。

 パソコンの前に、一人の少女が座っていた。


 彼女は俺を見ることもなく、口を開く。


「僕を殺しに来たの?」


「だとしたら、靴を脱ぐと思うか?」


 肝の据わった少女だった。

 不審者が入り込んだというのに、まるで動揺していない。


 俺は近くの椅子を適当に引き寄せ、少女の隣に座った。


 そこで初めて、少女の顔が見えた。


 ぼさぼさの黒髪。

 目元の大きな隈。

 そして、特徴的なギザギザの歯。


 幼い年齢にしては、ずいぶん不健康そうだった。


 俺はすぐに視線を移し、パソコンの画面を見る。


「株か……頭がいいんだな」


 見たこともない額の含み益が表示されていた。


「ただの情報。暇つぶしにやってるだけ」


「そうか。俺にはさっぱりだ」


 それからしばらく、マウスのカチカチという音だけが室内に響いた。


「それで、あなたは誰? 組織の者?」


「組織? 知らないな。俺は、まあ、相談員みたいなものだ。名は……レイジ、とでも呼んでくれ」


 俺は一瞬だけ考えて、適当に名乗った。

 そもそも、適当な偽名を使って、今までのらりくらりと生きてきたのだ。


「そう」


 少女はつまらなそうに言って、そのまま黙り込んだ。


「親は?」


 答えはない。


「一人で暮らしているのか?」


 答えはない。


「組織とは何だ?」


 答えはない。


 俺の声だけが、小さな部屋に流れる。


 俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。


 そこにあったのは、栄養バーとビタミン剤、そしてペットボトルの水。

 段ボールが積まれ、ゴミもそこそこ溜まっている。


「冷蔵庫もないのか……」


 何か作ってやろうかと思ったが、そうもいかないらしい。


 その時、背後から声をかけられた。


「もしかして、泥棒だった?」


 少女が俺の横を通り、水と栄養バーを手に取る。

 そして、それを俺に差し出した。


「あげる。この家に財産はないよ。口座があるなら、送ってあげてもいいけど」


 俺はあっけに取られたまま、受け取ってしまった。


「いやいや、違うから。……はあ。これは難しいな」


 そもそも俺には、ここへ来た明確な目的がない。


 泣いている人がいた。

 その光景を見てしまった。

 それだけだ。


 少女は自分用の栄養バーを取り、そのまま部屋へ戻っていく。


 俺も後に続き、椅子に座り直した。


 なんとなく居心地が悪く、水を一口飲む。


「俺には親がいない」


 気がつくと、そんな話をしていた。


「昔の記憶もない。いや、違うな……」


 俺は自嘲気味に笑う。


「俺は、世界に忘れられたんだ」


 戸籍にも登録されていない。

 世界のどこにも、“俺”という存在を知る人間がいなかった。


「ずっと、一人で暮らしてきた」


 そこで、少女の手が止まった。


 彼女は、初めて俺の顔にちゃんと視線を向ける。


「正直に言うよ。俺は夢を見た。明日、この部屋でキミが泣く夢を」


 見て見ぬふりはできなかった。


「予知夢の能力だ。だから、聞かせてほしい。相談してほしい。……これは俺の自己満足だ」


 少女は少し考え、それから俺に手を伸ばした。


「水、ちょうだい」


「これか?」


 俺は飲みかけの水を差し出す。


 少女は迷うことなくそれを飲み、直後に目を見開いた。


 頭を抱え、少し苦しそうに顔をしかめる。


「大丈夫か!?」


 俺は慌てて顔を覗き込んだ。


「初めて見た……」


 少女はゆっくり起き上がり、俺の顔を見る。


「僕より可哀そうな人」


 少しだけ、笑っていた。


「どういう意味だ……」


 俺は椅子に座り直す。


 少女は今度こそ、ちゃんと俺の目を見て話し始めた。


「僕にも両親はいないよ。施設で育って、途中で抜け出した。お金はあったから、困ることはなかったけど」


「追われなかったのか?」


 最低でも国民として、この国に登録されているはずだ。

 だとしたら、子供が消えるなんてことは本来あってはならない。


「痕跡は全部消した。国のデータベースにも、僕の存在はないよ」


「そうか……なんか、似た者同士だな」


 普通の子供なら、そんなことはできるはずがない。

 だが、この少女ならできる気がした。


「僕は望んでやったこと。あなたの場合は、不可抗力の結果に見えるけど」


「どうだろうな。案外、俺だって自分の意思で決めた未来かもしれないぞ」


 俺は背もたれに体を預け、息を吐く。


「ここで会ったのも何かの縁だ。聞いてくれ、俺のことを。教えてくれ、キミのことを──」


 それから俺と少女は、会話を始めた。


 俺は俺の秘密を、包み隠さず話していた。


 俺の人生のこと。

 7年前、急に“俺”という存在が現れたこと。

 知っていたのは、能力についてだけだったこと。


 午前零時、能力が初期化され、そして新たな能力を手に入れること。


 ──能力の正体がバレたら詰む。


 子供だった俺でも、それは理解していた。


 誰にも頼れなかった。


 必死で生きて、必死で身を隠した。

 いくつもの土地を渡り歩き、いくつもの名前を使った。


 森の中で自給自足をしていたこともあった。

 橋の下で雨風をしのぐのも、珍しいことではなかった。


 俺は言葉にして、自分というものを他人に伝えていく。

 それは、初めてのことだった。


 少女はただ、静かに聞いてくれた。


 そして彼女も、自分のことを話した。


 少女の名は、味原しずく。


 過去の名前は捨て、自分で付けたそうだ。

 生きることに疲れ、情報の取捨選択をするために、一人でここに暮らしているらしい。


 味原の能力は、“食べたものの情報”が映像や感覚として頭に流れ込んでくるものだった。


 味、産地、加工工程、混入物。

 下手をすれば、作った人間の感情。

 そして、生物が死を迎える瞬間まで。


 先ほどは、俺の唾液から情報を拾ったらしい。


「レイジ君は面白いね。僕なんかより、よっぽど大変」


 味原は、もうかなり心を開いてくれていた。


「そうか? まあ、俺も危ない橋は渡ってきたからな」


 俺は栄養バーをかじりながら答える。


「それにしても、別にまずくはないが、飽きるだろ、これ」


「それが一番マシ」


 味原はそう言ってから、少し考えるような顔をした。


「でも、レイジ君の過去、すっぽり抜けていた」


「能力も完全じゃないってことだ。気にするな」


 俺は軽く返して、時計を見る。


 午後11時57分。


 もうこんなに時間が経っていたのか。


 俺は意識を切り替えた。


「俺の話が多かったな。ここからが本題だ」


 真剣な顔で、味原を見る。


「困ってることがあるんだろ? 相談してくれ」


「それは……」


「もう他人事じゃない」


 俺は真剣な声で遮った。


 味原は少し考え、それから話し始める。


「僕も危ない橋を渡った。“裏”を使ったんだ。金さえあれば、何でもできたから」


 だいたい読めてきた。


「だけど、僕の能力がある組織……黒曜連ってところにバレてしまった。だから、その……」


「大丈夫だ」


 俺は立ち上がり、親指を立てた。


 彼女は気丈に振る舞っていたが、内心では年相応に不安だったはずだ。


「でも、レイジ君の能力は……」


 味原の心配そうな声。


「そうだな。今日の俺は弱い」


 俺は腕時計を見せる。


「だが──」


 午前零時。


 俺は笑った。


 初めての感覚。

 それでも、はっきり分かる異常。


 『不死』


「今日の俺は最強だ」


「え、どういうこと……?」


「任せろってことだ」


 俺は味原の頭を撫で、部屋を出ようとする。


「待って!」


 後ろから呼び止められる声。


 俺は振り返った。


 そこで少し、驚いてしまう。


 同じ時間、同じ構図、同じ人物。


 夢で見た通り、少女は泣いていた。


 けれど、それは悲しさからではなかった。


「ありがとう」


 涙を浮かべたまま、味原は笑っていた。

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