第23話 空間
間宮時雨は、苛立っていた。
刀を鞘に戻しながら、状況を把握する。
昨夜、北の闇に紛れて島へ降下したまではよかった。
だが、そこで待ち構えていたのは、ノアに似て非なる能力犯罪者たちだった。
島の北側は深い森に覆われている。隠れる場所には事欠かない。
ノアが潜伏しているならここだ――そう判断し、痕跡を辿って夜通し捜索した。
そして、目の前にあるのがこの結果だ。
「この世界に、こんなにも能力者がいたとはな……」
老若男女、十人十色の能力者たちが手を縛られ、地面に座らされている。
「時雨さん、こいつらどうします? 現行犯とはいえ、本土に連行するのは……」
さらに五人ほどを抱えて戻ってきた才谷成田が、困ったように言った。
「いや、こいつらは島の支配者に引き渡す。我々の目的は別だ」
そう言って、時雨は周囲を見回す。
「リナはどこだ?」
その瞬間、空気が張り詰めた。
「……そういえば、苅田さんも戻ってきませんね」
才谷は銃を抜き、周囲を警戒した。
その時だった。
──音が痩せた。
風も、葉擦れも、虫の声も遠のく。
森の奥から“昼”が削られ、こちらへ滲み出してくる。
光が弱まったのではない。
届いたはずの気配が、途中で途切れる。
才谷が反射的に銃口を向けた。
取り付けられたライトが闇をなぞる。
──照らせない。
光は伸びるが、途中で消える。
まるで空間ごと削り取られているようだった。
「……時雨さん。境界があります」
光の終端が歪んでいる。
そこだけ、形が定まらない。
影でも、煙でもない。
輪郭の欠けた“何か”がある。
次の瞬間、暗闇の奥から物体が滑り出た。
境界を越えた途端、形が確定する。
輪鈴リナだった。
続いてもう一つ、転がり出る。
苅田桐郎。
才谷が駆け寄る。
触れた瞬間、体温がはっきりする。
「生きてます……意識だけ落ちてる」
闇の内側では輪郭が崩れていた身体が、外へ出た途端、重さを取り戻す。
「二人を連れて下がれ」
才谷は頷き、両脇に抱える。
境界から離れるほど、世界が安定する。
振り返らず、そのまま後退した。
才谷の足音が遠ざかる。
その背が闇の外へ抜けた瞬間、時雨の立つ位置へ黒が滲み出した。
地面を這い、空間を埋めるように広がっていく。
逃げれば出られる距離だった。
だが、時雨は動かない。
侵食は足元へ届き、膝の高さを越え、視界を覆う。
光が失われたのではない。
光が意味を持たなくなる。
完全な闇。
静寂だけが残る。
時雨と、それ。
闇が広がっているのではない。
“昼”が削られている。光が届くはずの距離が、途中で途切れていた。
空間の性質が変わっている。
次の瞬間、空気が裂けた。
音が来たのではない。
鼓膜の手前が切り取られ、遅れて圧だけが押し寄せる。
回避は間に合わない速度。
――だから、間に合わせた。
時雨は半歩、重心だけを移す。
頬を掠める冷たい“抜け”が走った。
続いて、背後から木が倒れる気配。
倒れる音がない。だが、枝が落ちる振動だけが遅れて伝わる。
衝撃も通過音もない。
結果だけが先に置かれる斬撃。
”闇の奥”としか言いようがない方向で、空気の流れが変わった。
局所的に重力が増加したかのような圧。
――質量を持たせている。
発生源は、闇の中の“中心”。
そこから、重さが伸びてくる。
黒が収束する気配。
槍状の塊。
直線で、胸を狙う。
時雨は刀を立てた。
受けた瞬間、腕に“重さ”が乗った。
金属音は鳴らない。代わりに、闇を叩いたような鈍い反動が骨に返る。
それでも、弾く。
槍が逸れた。
直後、地面のどこかが抉られた振動が走る。
闇の中心が、もう一度“位置”を変える。
今度は、横。
刃が来る。
空気が撫でられ、皮膚が遅れて熱を帯びた。
時雨の左腕が、肩口から落ちた。
痛みは、遅れて来た。
先に来たのは、軽さだった。
腕があるはずの場所が空っぽになる。
体重の配分が狂い、刀先がわずかに沈む。
何かが地面に触れた感触が、足裏から伝わる。
それが自分の腕だと理解するのに、ほんの一拍かかった。
闇の中心が揺れた。
確信した動き。
時雨は顔色ひとつ変えない。
欠損すら、観測の一部として処理する。
呼吸をひとつ。
次の瞬間。
左腕が戻った。
時間が巻き戻ったのではない。
戻ったのは時雨の身体だけだ。
切断の事実は残る。
だが、腕はある。
時雨は刀を低く構えたまま、動かない。
闇の中でも、全てが消えたわけではない。
沈む土。わずかな圧。空気の流れの乱れ。
相手が動くたび、世界の“手触り”が変わる。
その変化が、“座標”だった。
闇が濃くなる。
光の消失領域が広がり、圧が増す。
空間が押し潰される感覚だけが、肌にまとわりつく。
複数の気配。
一体、二体、三体。
同じ重さ、同じ歩幅。
挟撃。
逃げ場はない。
同時に踏み込む振動。
刃と槍が降り注ぐ“圧”が来る。
時雨は刀を振らない。
最小の動きで、弾く。逸らす。受け流す。
闇の槍は重い。
闇の刃は無音だ。
だが、どれも“空間”の中を通ってくる。
なら――届く瞬間の角度は読める。
受け、弾き、いなしながら、時雨は一歩ずつ進む。
闇の濃い方へ。
中心が、密度を上げた。
外殻が形成される。
鎧のように闇がまとわり、重さが増す。
闇そのものを圧縮し、接触を強制するつもりか。
中心が一歩踏み込む。
三メートルが消える。
拳が届く距離。
時雨は刀で受けた。
相手の土俵だ。
闇の内側では、座標が曖昧になる。
――だからこそ、わずかな確定情報が価値になる。
闇の中で、時雨はすでに“掴んで”いた。
大きく飛び退く気配。
時雨は刀を構え直す。
狙うのは、今いる中心ではない。
逃げる場所。
時雨はそこへ、刀を向けたまま動きを止めた。
刃先が“空間”に刺さる。
金属が地面に突き立つのではない。
座標そのものに、縫い針を通すみたいに固定される。
そこだけ、世界が確定する。
曖昧だった距離と方向が、その一点を中心に結晶化していく。
次の瞬間、飛び退いた“中心”が、そこへ重なるしかなくなる。
――刃が、闇の輪郭を貫いた。
手応えはない。
それでも、外殻が砕けた。
闇が崩壊する。
圧が解け、光が戻る。
影の人物が膝をつく。
輪郭が揺らぐ。
形を保てない。
崩れるのではない。
最初から、そこに“人間の質量”はなかった。
影は地面へ落ちることなく、薄れていく。
足元の黒だけを残して、消えた。
「――気づかれたか。ちょうどいい」
時雨は地面に横たわる能力者たちへ視線を落とし、
消え残った黒へ向けて言う。
「こいつらは任せたぞ」
彼らが罪人であることと、生かして連行することは両立する。
罰は、ここで与えるものではない。
だから時雨は、命を手放さなかった。




