第21話 暴風雨と、近すぎる距離
空は鉛色に沈み、雲は今にも崩れ落ちそうに重く垂れ込めていた。
チャイムが鳴り終わる頃には、校門の外は白いカーテンのような雨に覆われ、屋根の縁から連なる雫が地面を叩き、世界を灰色に塗り潰す。
「……やば。予報より全然強いじゃん……」
アリアンは校門の下で、ぎゅっとバッグを抱きしめながら顔をしかめた。
スマホを取り出し、慌てて配車アプリを開く――無情な文字が目に飛び込む。
『付近に車両はありません』
(うそ……! 台風、早まった? この雨の中歩いて帰ったら……ずぶ濡れ確定じゃん!?)
唇を噛みしめた、その時だった。
「――行くぞ。」
低い声が、雨音を割って耳に届く。
「っ……ノックス!?」
振り向いた瞬間、黒い傘を差した少年が立っていた。
濃い雨空を映した翠の瞳、肩に滲む雨粒、いつも通りの淡々とした声。
「セレナから聞いた。お前、今日は遅いって。」
雨にかき消されそうな声で続く。
「車は捕まらない。歩く。」
そう言って、ノックスは傘をすっとアリアンの方へ傾ける。
途端に、雨粒が彼の肩を打ち、シャツに濃い染みを作った。
「あっ、ちょ、濡れるじゃ――」
「黙って歩け。」
たった一言。でも拒む余地なんてなかった。
アリアンは息を呑み、そっと彼の隣へ。
肩が触れる。傘の下は、驚くほど狭い。
木の香りを帯びた淡い匂いが、ふっと鼻をかすめた瞬間――
(っ……近すぎ……! 無理、心臓死ぬ……!!)
◆
水溜まりを踏む音と、雨音だけが世界を満たす。
ノックスは前を見据えたまま、一言も発さない。
額に貼りついた濡れた前髪、頬をなぞる雨粒――
どんな嵐の中でも揺らがない、その横顔が視界に入った途端、
(やばい、ほんとに映画かってくらいカッコいい……!!)
アリアンは慌てて視線を逸らすが、頬の熱は引かなかった。
やがて、ノックスがぼそりと呟く。
「……あそこ、コンビニ寄る。台風直撃だ、食料買っとけ。」
「う、うん……」
(……こういうとこ、ほんと頼りになる……!)
◆
「いらっしゃいませー」
ドアベルの音と同時に、冷気がふわりと頬を撫でる。
アリアンはバッグを抱えたまま、まだ胸の鼓動を落ち着かせられず――
「――カゴ。」
無造作な声と共に、買い物カゴが差し出された。
指先が一瞬、触れる。
ちょっとだけ。ほんの一瞬。それだけで。
(だ、だめだって……こんなので動悸するの、おかしいって……!)
ノックスは迷いなく棚を歩き、次々と商品を入れていく。
「牛乳。パン。……他に?」
「えっ、えっと……カップ麺と……チョコ……」
「甘いのは控えろ。」
視線を動かさずに、言い切る。
(っ、心読まれた!? なんで分かったの!?)
慌ててくるりと振り返った瞬間――
「きゃっ――!」
ツルリ。
濡れた靴底がタイルで滑る。視界が傾く――
――その前に。
ガシッ、と手首を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。
「……っ!」
硬い胸板に衝突した音が、自分の鼓動をさらに狂わせた。
「床、滑る。気をつけろ。」
耳元で落ちる低い声。
指先は、まだ手首をしっかり握ったまま。
「……っ、あ、ありがとう……」
かろうじて声を絞り出すと、ノックスは淡々と一言落とした。
「腕、組め。……もう転ぶな。」
「え、えぇぇ!?」
(え、なにそれ、夫婦か!?)
頭がショートしたまま、アリアンの手は震えつつも――
そっと、彼の腕に触れた。
冷たく濡れたシャツ越しの体温が、じんわり伝わる。
心臓は、もう完全に制御不能だった。
ノックスは片手にぎっしり詰まった食材袋を二つ、もう一方の手で傘を支え、無言のまま雨風を遮ってくれる。
やっとの思いで、見慣れた角を曲がる。
「……着いた。」
ノックスの低い声と同時に、玄関の扉が押し開かれ、雨水がバシャッと滴り落ちた。
その瞬間――
「ミャウッ!」
黒い影が弾丸のように飛び出す。
「アル!」
アリアンの声が裏返る。
小さな魔獣は雨の中で跳ね回り、泥水を散らしながら駆けていく。
「ちょ、待っ――」
彼女が飛び出そうとしたその腕を、ノックスが遮るように買い物袋を押しつけた。
「中に入れ。」
低く短い声。
次の瞬間、彼はもう雨の帳の中を駆けていた。
(……っ)
アリアンは玄関に立ち尽くす。
胸の奥で、何か熱いものがじわりと広がった。
数分後。
玄関の扉が開き、濡れそぼったノックスが戻ってくる。
その腕には、ずぶ濡れで震えるアル。
前髪は額に貼りつき、水滴が鎖骨を伝って落ち――
蛍光灯の光を受けて、艶めくラインを描く。
(……っ、息、止まった……)
アリアンは慌てて扉を閉めながら、蚊の鳴くような声を絞り出す。
「は、早く拭かないと……風邪ひくよ……」
翠の瞳が、一瞬だけこちらを向く。
「……ああ。」
ただそれだけ。
それだけなのに、膝が抜けそうになる。
(な、なんで……なんで全身びしょ濡れなのに、こんな……映画みたいに……)
「タオル。」
低い声が落ちてきた。
湿った髪から滴る水音と混ざって、やけに艶っぽく聞こえる。
「っ、あ、うん! い、今すぐ!」
アリアンは弾かれたように動き、心の中で絶叫する。
(冷静になれってば!これは現実!……現実……っ!!)
彼女が慌てて差し出したタオルを、ノックスは受け取る――
しかし、自分には使わず、無言でしゃがみ込み――
「座れ。暴れるなよ。」
タオルに包まれたのは、アルだった。
(え……あ、アル……?)
彼は濡れた小さな身体を、実に丁寧に拭っていく。
指先が毛並みを梳くたび、落ち着いた仕草と無駄のない動きに目を奪われる。
(……優しい……)
胸が、じんわり熱くなる。
「終わりだ。」
軽くアルの頭を撫で、クッションの上に戻す。
そして立ち上がる――濡れたシャツが音もなく肌に張りつき、引き締まったラインを露わにする。
ノックスは、そのままこちらを振り向き――
「……お前、風呂。冷える前に。」
淡々とした声。だが、最後にほんのわずか、低く落ちる。
「急げ。」
「え、で、でもノックスが――」
「あとで着替える。……ほら、行け。」
短く切り捨てる声に、逆らう言葉は見つからなかった。
アリアンは心臓を押さえるようにして、浴室へ駆け込む。
扉を閉めた瞬間――
背中が、ずるりと壁に沈んだ。
耳まで真っ赤に熱くなり、吐息が止まらない。
(ダメだ……っ、無理……! あの声、あの目……ずるい……!!)




